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「俺はさ、このために生きてるんだよな」
ビールをこぼさんばかりに宮尾はジョッキをテーブルに置いた。本日既に二度耳にした台詞だった。
「そうだな」僕はそう相槌を打ちながらも、いち早くこの空間から抜け出したい気持ちから幾分顔が引きつっているように感じた。
「お前は何のために生きてるんだよ、外川!」
またその質問か。僕は彼に気づかれないようにため息を言葉と同時に吐き出した。
「うーん、考えたことないなあ。しいていうなら遊ぶためかなあ」
「いいこと言うじゃねえか。確かにそうだ。ただそれは生きてる理由っていうより仕事をしてる理由にならねえか?」
宮尾はトイレに行くのか、立ち上がって歩き出しながら言った。彼はいつもこうだ。質問を投げかけてどこかへ消える。しかも戻ってきてその話題に触れることはない。一度彼の頭の構造を覗いてみたいものだ。
僕が言った、遊ぶため。もちろんこれは建前上のものだ。生きる意味なんか無いに決まっている。そんなこと考える時間があるなら、ほかの事をして過ごした方がマシだ。しかしそう言ったところで、だからお前は~だとか、現代の若者は~だとか説教じみた言葉を吐き出されるオチしかないことは明確だ。本当にこの世は生きにくい。夏目漱石もよく言ったものだ。
宮尾が席を立ち、五分が経った。
しかし彼が戻ってくる気配はない。あいつ、そんなに飲みすぎたのか? いや、いつも最後に日本酒をピッチャーで頼むほどの奴だ。彼に限ってそれは断じてない。
一応、心配してやるか。
そう思って腰を上げたその時だった。
トイレの方から、耳をつんざく、平均的な女性が出せる声の二オクターブは高いであろう音がこだました。思わず僕は耳をふさいだ。
しかし次の瞬間には予感めいたものから、走り出していた。停止している人を傍目に僕はトイレの前にたどり着いた。
どっちだ?
普通に考えれば男子トイレの方だが、声は女性の声だった。意を決して女子トイレに飛び込むか、二秒ほど考えたが僕は呼吸と共に迷いを吐き出し、男子トイレに入っていった。
二十歳前後だろうか。控えめに見ても一メートル以上ある髪を床にパラつかせ、へたりと座り込んでいる女性が目に付いた。
僕は混乱した。
混乱の理由は三つある。
先客がいなかったことが一つ。叫び声があがったらすぐに声の方向にむかうーーそれはもしやドラマだけの世界なのか?
二つ目は、髪の長い女性がどうして男子トイレにいるのか? いや、もしかすると僕の思い込みで実際は男性なのかもしれない。もちろん男性ですか? とはうかつに訊けない。なんてナンセンスな質問。
そして三つ目は、一番奥の個室、女性が座り込んでいるその前、宮尾が首を吊って白目をむいていた点だ。
「おい、宮尾。何寝てんだよ、起きろ」僕は女性の横をおそるおそる通り過ぎた。
「ん? ああ……」
「またかよ、お前絶対にこの体勢で寝るじゃん。この癖直さないといつかそのまま火葬場直行コースだぞ」
「まあ仕方ねえな。首が締まってねえと寝れねえタチでよ」
僕は肩をすくめた。そして女性の存在を思い出し振り向いた。
「すいませんね。驚かれたかもしれないですが……」
しかし女性は消えていた。代わりに置かれていたのは、熊のぬいぐるみ。なぜ女性が消えて、ぬいぐるみがあるのか。僕はその疑問を無理やり押しのけ、ぬいぐるみを調べようと思った。僕は怖々と手に取ってみた。古いぬいぐるみ独特の湿った感触が皮膚を通じて伝わってきた。同時に何かが自分の中に入ってきたような感触もあった。それは刹那に消えた感触だが、その感触はどこかでずっと蠢いているような、なんともいえない不安があった。
ぬいぐるみの背中を見る。その瞬間僕の背筋に電流が走った。もちろん電気が流れたからではない。
どこだ……?
一体どこで……?
「見てよ、宮尾!」
僕は宮尾に助けを求めようと振り返った。
しかしそこに宮尾の姿はなかった。それどころか、先程までトイレにまで聞こえていたはずの店員や客の笑い声、更にゆったりと流れていたジャズもなくなっていた。
そうか……
そういうことか……
きっとわかった。あの女性は……
その時だった。僕は強烈な睡魔に目を開けていることができなくなった。眠ってはいけない。僕は力を込めて叫ぼうとしたが、頭の中でだけしか声が出ていないようだった。声の出し方を忘れてしまったのだろうか。もしそうなら一緒に音も聞こえなくなったらいいな。この世には聞く必要がない音で溢れかえっている。そうなれば耳を塞ぐ手間が省ける。そんなことを考えながら、静かに、ゆっくりと意識は内側へとこもっていった。