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八郎太郎物語(二万五千字)(童話)

 序


 むかしむかし、鹿角の里に八郎太郎という大きくて力持ちだけれど心根の優しい男が住んでいました。


 ある日、八郎太郎は十和田の奥地へ入り込み、その沢で魚を捕らえて食べていました。ところがどういう訳か不思議と喉が渇きます。沢の水をどれだけ飲んでも渇きは癒えません。八郎太郎は無我夢中で水を飲み続け、気が付くと、その姿は龍に変わってしまっていました。これでは里に戻ることもできません。仕方なく、八郎太郎は沢の水をせき止めて湖を作り、そこに住むことにしました。


 十和田湖に住み始めて長い年月が経った時、一人のお坊さんがやってきました。そのお坊さんは、「これから自分がこの湖に住むので、おまえは出ていけ」と言いました。八郎太郎は湖が気に入っていたので断りましたが、お坊さんは断固として言い分を変えないので、二人は戦い始めました。七日七晩戦ったのち、遂に八郎太郎は戦いに負け、湖を出ていくことになりました。


 八郎太郎は鹿角の里に戻り、里を流れる川の水をせき止めて湖を作り、そこに住もうと考えました。ところがそれを知った鹿角の神様たちが八郎太郎の邪魔をして、せっかく作った堰を壊してしまいました。仕方なく八郎太郎は里を出ていくことになりました。


 里を出た八郎太郎は、今度は米代川をせき止めて湖にし、そこに住み始めました。困った七座ななくら山の神々は相談をして、一番賢い天神様に石投げ勝負を挑ませました。八郎太郎はあっけなく勝負に負けました。意気消沈する八郎太郎に天神様は、「ここよりもっと下流に広い土地がある。私が一夜でそこを大湖水にしてやるから、そこに住め」と言うと、白いネズミに堰を齧らせて穴をあけ、八郎太郎もろとも下流へ押し流してしまいました。


 下流の農家に流れ着いた八郎太郎は、そこに住む老夫婦に、間もなくここは湖になるので早く逃げた方がいいと言いました。夜が明けると天神様の言葉通り、地面が陥没し水が押し寄せてきました。爺様は逃げられましたが婆様は逃げ遅れました。そこで八郎太郎は龍になり、長い足の先で婆様を遠くへ弾き飛ばして助けました。


 そうしてそこは八郎潟となり、八郎太郎はようやく安住の地に落ち着くことになったのでした。

                   

               (八郎太郎三湖伝説・秋田龍神伝説)




 八郎太郎物語


 一


 太郎が住んでいたのはひどく貧しい村でした。お日様が昇って来る方には高い山がたくさんそびえていましたし、お日様の沈む方にはすぐに大きな海が迫っていたので、田んぼにできる平らな土地がとても少なかったのです。そうして小さな土地をみんなで一所懸命に耕して、ようやく収穫したお米も、大部分は年貢に取られてしまうので、太郎の村の人たちが白い御飯を口にする事は滅多にありませんでした。それでも村の人たちは海や山から魚や貝や木の実や菜をもらって、つましい暮しを続けていました。


「太郎、起きろ起きろ、もう御天道様おてんとさまが出ていらっしゃったぞ」


 父さんの声に太郎が目を覚ますと、周りは明るくなっていました。太郎は慌てて寝床から飛び出しました。


「顔を洗って早く来い。みんな外で待ってるから」


 父さんはそう言って戸口に歩いて行きました。太郎も急いで汲み置きの水で顔を洗うと外に出ました。ひやりとする朝の冷気の中で、父さんと母さんとばあちゃんの三人が並んで立っています。太郎はばあちゃんの隣に並ぶと、みんなと同じように山の方に向いて姿勢を正しました。父さんはみんながきちんと並んだのを見て、次第に明るくなって来た山の上の空に向かって大きな声で言いました。


「御天道様、御天道様、今朝もわしらは無事に御天道様の姿を見る事ができました。今日も一日、わしらを空の上から見守って下され。そして明日もわしらにその姿を見せて下され」


 これが太郎の家族の毎日の始まりなのです。いや、太郎の家族だけではありません。太郎の村の人たちはみんな、朝起きるとこうして祈りの言葉を捧げるのです。


「そして、わしらの願いをかなえて下され。わしら村の者全員の願い、それがかなえば、この村は今よりよっぽど豊かになって、みんなも今よりよっぽど幸せになれます。どうか、わしらの願いをかなえて下され」


 父さんはそれだけ言うと頭を下げました。それにならって母さんもばあちゃんも頭を下げました。太郎も今まで空を見ていた頭を下げて、自分の足元の地面に目をやりました。





 その時、ズシンズシンと大きな音が聞こえてきました。太郎は自分の足元の地面が揺れているような気がして、頭を上げました。遠くの山の木は風に吹かれたように揺れて、その騒めきが波の様に次第に近づいて来ます。


「八郎かあ」


 ばあちゃんが口に出してそう言った時、山の木をかき分けて、一人の大男が姿を現しました。山に住むきこりの八郎です。

 八郎はとても大きな山男でしたが、一体いつからあんなに大きいのか、いつからあの山に住むようになったのか、誰も知らないのでした。村で一番の爺様でさえ、気が付いた時には八郎はもうあの山に居て、今と同じくらい大きかったのでした。しかも山に住むきこりは八郎一人だけだったので、今の八郎の暮しを詳しく知っている者はこの村には誰も居なかったのです。


「八郎! お前は祈ったかあ!」


 姿を現した八郎に向かって、父さんが大きな声で叫びました。それでも八郎は知らん顔でズンズン浜に向かって歩いて行きます。


「また、魚獲って、遊んで、帰って行くんだなあ」


 母さんが八郎の後姿を見送りながら言いました。その口振りには少し不満げな調子がありました。父さんも厳しい顔をしています。

 実は八郎は村の人たちにはあまり良く思われていなかったのです。それは八郎自身無口で、あんまり村の人たちと口を利かないせいもありましたが、一番の原因は八郎が御天道様を何とも思っていない様子だったからです。村の人たちは毎日朝と夕に御天道様にお祈りをするのとは別に、七日に一度ずつ村の広場に村中の者が集って御天道様にお祈りをするのでした。八郎はこの集りにも出ようとはしなかったのです。村の者がどれだけ言い聞かせても、八郎は、があーと笑うだけで、あとは自分の好きな事をして毎日を送っているのです。


「仕方ない、八郎だから」


 父さんはあきらめたような顔をすると、


「さあて、わしらも朝御飯にするか」


 そう言って家の戸口に向かいました。その後を母さん、ばあちゃん、そして太郎が家に入ろうとした時、遠くの海で大きく白い波しぶきが舞い上がりました。


「八郎が飛び込んだんだな」


 太郎は少し呆れた顔をしてそうつぶやきました。





 朝御飯が終わって父さんも母さんもばあちゃんも働き始めました。太郎も自分自身の仕事を持っていましたが、それはすぐに終わってしまいます。それでお昼御飯になるまで太郎は浜へ遊びに行く事にしました。山へ遊びに行く事は滅多にありません。以前、太郎の兄さんが山で亡くなってから、山へ行くのを固く禁じられていたからです。もちろん浜も山に劣らず危険な場所なのですが、太郎は泳ぎが達者だったので、父さんも母さんも山よりはいいと考えていたのです。

 太郎は浜に向かって歩いて行きました。周りに広がる田んぼにはもう水が張られていて、後は田植えを待つばかりです。そうなると忙しくなって、太郎も遊んでばかりはいられなくなります。太郎にもそれは分かっていたので、今の内に存分に遊んでおこうと思っていました。


 やがて田んぼが終わる場所まで来ると、浜と田んぼの間にある大きな土手にぶつかります。この土手には切れ目がないので浜に出るには土手をよじ登って乗り越えて行かなくてはいけません。太郎は手を掛け、四つんばいになってよじ登り始めました。そしてようやく土手の上に出ると、立ち上がって目の前に広がる青い海を眺めました。

 規則正しい波の音と穏やかな表情の海、けれども太郎はその穏やかさの裏に隠れた恐ろしさを充分に知っていました。魚や貝を自分に与え、夏の暑い日には自分を浮かせて遊んでくれる海が、太郎はとても好きでした。けれども太郎が一番恐れているのもまた海なのでした。大事なものを奪い、大切なものを破壊する荒れ狂った表情をも持つ海。

 太郎は小さい時にはどうして海はこんなに変わってしまうのか不思議でたまりませんでした。塩がいつでも辛い様に、朝日が必ず昇ってくる様に、どうして海もいつでも優しく自分と遊んではくれないのだろうか、小さい時の太郎はそう考えていたのです。

 しかし、いつまでも同じものは一つもないのだという事に、今の太郎は気づき始めていました。空も山も父さんも母さんもばあちゃんも、そして太郎たちが祈りを捧げる御天道様でさえ、この目の前の海と同じくらい大きな変化をするのです。太郎は海の青さが空の青さと重なる遠くを見つめながら、ぽつりとつぶやきました。


「おらも、変わるのかなあ」


 太郎は勢い良く土手から駆け下りました。そうしてどんどん走って砂浜にたどり着きました。まだ海で泳ぐには早過ぎますので、太郎は着物のまま波打ち際まで行くと、海に足を浸しました。冷たい海水が太郎の足を突き刺します。太郎は足を波に洗わせながら、今日はこれから何をして遊ぼうかと思いました。





「なんだ?」


 沖の方で白い波が跳ね上がりました。魚? いや、魚にしては大きすぎます。太郎は海から出て砂浜に戻りました。そして次第にこちらに近づいて来る白い波をじっと見つめました。

 突然、


「ぶふぁあー」


 と大きな声がしたと思うと、でっかい顔が海の上に現れました。


「なんだあ、八郎かあ」


 太郎は安心した声を出すと同時に、少し呆れてしまいました。それは、朝、八郎が海へ入る白い波しぶきを見てから、随分な時間が経っていたからです。こんなに長い間、海に浸かって魚や貝を食べていたのかと思うと、その大喰らいぶりがおかしくなってしまったのです。

 やがて八郎は顔を海の上に出したまま、太郎の方へまっすぐ向かって来ました。


「どどーん、ぶあー、ざぶーん、どいしょっと」


 波の音とも八郎の声とも分からない大きな響きと共に、八郎が浜に上がって来ました。そして大きな足跡を砂浜に残してドシドシ歩いて行きます。太郎はそこに立ったままじっとして、八郎の山のような背中を見ていました。


「おっきいなあ」


 浜の外れに立つ赤松の木のてっぺんを手の平でこすって行く八郎を見て、太郎をあらためて八郎の大きさに感心しました。その人間離れした大きさに、太郎はともすると八郎が自分たちと同じ人間である事を忘れてしまいそうになるのでした。けれども大きいという点を除けば、八郎は自分たちとなんら変わりはなかったのです。むしろ八郎から見れば太郎たちの小ささの方を不思議に思っているのかも知れません。

 そうする内に八郎は田んぼの近くにある土手に着きました。その土手の前で八郎は身をかがめると、両手でドッと土をすくいました。


「ほーれ、ほーれ」


 八郎は自分で掛け声を掛けながら、すくった土を土手に積み上げ始めました。太郎は八郎の仕草をもっとよく見たくなったので、土手の方に駆け出しました。





「ああ、八郎、また土手作ってらあ」


 走っている太郎の耳に聞き覚えのある声が聞こえてきました。太郎は土手まで着くと、八郎の跳ね上げる土が飛んで来ない様に、少し離れた場所から土手をよじ登りました。そうして、土手の上から向こうを見ると、数人の村の子供たちが立っていて、さかんに八郎に何か言っています。


「八郎、なんで土手作るんだあ」

村長むらおさも、作るなって言ってたぞお」


 それでも八郎は平気な様子で、ほーいほーいと言いながら土手に土をかけて行きます。

 実はこの土手は八郎が作ったものだったのです。田んぼに沿って北から南へ伸びるこの長い土手は、八郎が毎日毎日土で固めて作っていたのでした。

 なぜ八郎がこんな物を作るのか、太郎にも村の人たちにも分かりませんでした。ただ、村の人たちはこの土手には大変迷惑していたのでした。なぜなら浜へ出るために土手を乗り越えるのは大変な手間が掛かりますし、海が荒れて大きな波が押し寄せてきた時には、この土手が崩れて田んぼが土だらけになってしまうからです。


「八郎、やめて、山に戻れえ」

「八郎、たまには、御天道様に祈れえ」


 子供たちはなおも囃し立てましたが、八郎はまるで聞こえていない様子で土をかぶせていきます。


「ああ、ああ、八郎には何を言っても駄目だあ」


 やがて子供たちは八郎をからかうのに飽きてしまった様でした。


「ああ、海へ行こう」

「おらも行こう」


 そうして子供たちは土手を乗り越えると、浜に走って行ってしまいました。太郎は土手の上に立ったまま、土をかけながら土手伝いに南へ遠ざかって行く八郎をぼんやり見ていました。


「たろちゃん」


 土手の下から誰かが呼びました。見ると赤い着物を着た女の子が一人立っています。


「花かあ」


 女の子は村長の一人娘の花でした。花はいつでも赤い着物を着ているので、遠くからでもすぐに分かります。

 太郎の声を聞いて花は嬉しそうに笑うと、土手を登り始めました。太郎は土手の途中まで下りて行くと、花の手をつかんで登るのを手伝ってやりました。


「花は、浜、行かないのか?」


 土手を登り切ると太郎はそう尋ねました。花は何も言わずに首だけ振ると、じっと八郎を見ています。太郎もそれ以上言う事がなかったので、今ではだいぶ遠くに行ってしまった八郎を見つめました。





 不意に、花が口を開きました。


「たろちゃん、八郎、なんで土手作るか知ってる?」


 その質問は太郎を驚かせました。花がこんな事を尋ねてくるとは思ってもみなかったからです。


「知らねえ」


 太郎はそう答えながら花を見ました。花は相変わらず八郎を見つめています。太郎は花の横顔を見ながら聞き返しました。


「花は知ってるのか?」

「八郎はね、」


 花が太郎の方に顔を向けました。黒い瞳がまんまるに輝いています。


「八郎は田んぼを守っているのよ」

「田んぼを?」


 花の口からそんな言葉を聞くのは初めてでした。


「どうしてそんな事知ってる。八郎が言ったのか」

「ううん」

「そしたら、なんで」


 太郎の問い掛けに花はそれ以上何も言いませんでした。太郎は不思議な心持ちで花を見つめました。花は自分よりも二つも歳下で、まだまだ小さな童なのですが、時々妙に大人びた印象を花から感じ取る事がありました。他の子供たちの様に八郎をからかったり、囃し立てたりしないだけでなく、自分の知らない、分からない事を、花は何もかも承知している様に思われる時があるのです。太郎はお日様の光を受けて輝く花の黒い瞳を見つめました。その目が少し笑ったようでした。


「今日はお祈りの日だね」


 太郎の問い掛けをはぐらかす様に花が言いました。ちょうど、その日は七日に一度の、広場に集まってお祈りをする日だったのです。


「たろちゃん、遅れずに来てね」

「分かってらあ」


 太郎は少し怒った顔をしました。この前のお祈りの日に、太郎は浜で遊び過ぎて遅れてしまったのでした。花は太郎の不機嫌な顔を見て声をあげて笑いました。それを見て太郎もおかしくなりました。


「花こそ遅れるなよ」

「あたしは遅れないわ、村長の子だもん。そーれ」


 いきなり、花が土手を下り始めました。太郎は驚いて叫びました。


「花、どこ行くんだあ」

「あたしも浜で遊ぶのお」


 花は土手を下り切ると、浜に向かって走り出しました。花の小さい体がどんどん遠ざかって行きます。その先には波打ち際で遊んでいる村の子供たちも見えます。太郎は土手に立ったまま空を見上げました。白い雲を浮かせた青い空の上で、明るいお日様が輝いていました。





 その日の夕暮れ、村の広場に村の人たちがみんな集まっていました。太郎も今日は遅れずにやって来て、ばあちゃんと一緒にがやがやする人込みの中に立っていました。太郎は周りを見回しました。花の姿は見えません。

 村長が広場の高い所に立つと、がやがやしていた騒めきが一度に静まりました。村長が大きな声で言いました。


「みなの衆、ごくろうさんだ。まもなく田植えも始まって忙しい時期になるが、それでもお祈りは欠かしちゃなんねえ。わしらの願いをかなえ、わしらとわしらの村を豊かにするために、この集りはどうしたって必要なんだ。さあ、みな、始めるだあ」


 村長の言葉にみんなが一斉に海の方へ向きを変えました。太郎も向きを変えると、高台にある広場からの景色を眺めました。周りに広がる水を張った田んぼ、その向こうの砂浜、大きな海、そして、黄昏の橙色の光を空と海に放ちながら沈んで行くお日様。その橙色の光に顔を染めながら、村長が言葉を続けます。


「ああ、御天道様、わしらの声は聞こえておるだろうか。わしらの願いは届いておるだろうか。わしらのために、わしらの村のために、わしらの田んぼのために、どんな波にもどんな風にも負けない力強い御加護を心より望んでおるわしらの願いは聞こえておるだろうか。毎年繰り返される海の大波のために、多くの者が犠牲になり、多くの実りが奪われ、すっかり疲れ果てておるわしらを哀れんでいただけるのなら、わしらの願いをかなえて下され。わしらのささやかな願いを」


 村の人たちは村長の言葉を聞きながら、海に沈んでゆくお日様を静かに見つめていました。いつもはふざけてばかりいる村の子供たちも、この時ばかりは神妙な顔つきをしています。

太郎は水面にお日様の色を反映させた田んぼを眺めながら、去年の恐ろしい光景を思い出していました。吹きつける大風と荒れ狂って押し寄せてくる大波、何もかも奪われ何もかも壊された田んぼ、倒れた稲、崩れた土手……

 けれども今のこの静かな田んぼを見ていると、それらはまるで一つの悪夢の様に、実際に起こった事ではない様にも思えてくるのでした。


「さあ、みなの衆、声を出して祈ろう」


 村長の声が一段と大きくなりました。


「山を動かして下され」

「山を動かして下され」


 太郎も村の人たちと一緒に大きな声を出しました。


「寒風山を海に沈めて下され」

「寒風山を海に沈めて下され」

「そうして大波から村を守って下さ……」

「むらおさあ!」


 村長の言葉をさえぎるように、大きな声が起こりました。村長も村の人も声のした方に顔を向けました。





 大声を出して村長の言葉をさえぎったのは、村でただ一人、山に炭焼き小屋を持っている三治でした。三治は村長が途中で言葉を引っ込めたのを見ると、さらに大きな声で言いました。


「村長、わしらはもう、田を捨ててもいいのではないか」

「田を捨てる?」


 村長は驚いて目を見開きました。三治はなおも続けました。


「そうじゃ、もともとこの村で米を作るのは無理なんじゃ。山に囲まれて水は確かにたくさんあるが、肝心の土地がなさ過ぎる。だのに、米なんか作っとるから年貢に追われて、足りない分はいつも労役で男は駆り出される。だから山を切り開いて、新しい土地を増やす事もできん。考えてもみるじゃ。わしら、百姓をやめて漁師やきこりになった方がよっぽど楽に生活できよう。田んぼに汗を流す分、海や山で汗を流せば、わしらの村はもっと豊かになる。こんな小さな田んぼにしがみついているより、その方がよっぽど賢い。そうじゃねえかあ」


 三治の言葉に村長も村の人たちも言葉が出ませんでした。確かにその通りだったのです。海も山も大変豊かな恵みを村に与えていたからです。三治の言葉はまた、村の人たちの誰の心の中にもある言葉だったのです。

 誰もが黙っていました。何も言いませんでした。太郎はなんだか辛くなってきて、ばあちゃんの手を握りしめました。と、その時、村長から少し離れた所に立っている花の姿が目に入りました。花の顔は白っぽく、なんだか不安げに見えました。その花がチラリと村長に目をやった時、重苦しい沈黙を破って、村長はようやく口を開きました。


「三治、お前はまちがっとる」

「まちがっとる? おらのどこがまちがっとる」


 村長はゆっくりと、しかし重々しい口調で話し始めました。


「まちがっとる。お前はまちがっとるのじゃ。確かにお前の言う通り、田を捨て、米を捨てればわしらの村はもっと豊かになろう。豊富な産物で年貢を納めれば労役を課される事もなく、わしらの暮しはもっと楽になろう。しかし、わしらは百姓じゃ。百姓は田を捨て米を捨てて、生きていく事はできんのじゃ」


 村長は言葉を途切ると、顔を動かして広場のみんなを見渡しました。誰も何も言いません。


「子供を育てるのが辛いからと言って子供を捨ててしまったら、それは親として失格じゃろう。親ならばどんなに辛く貧しくても、子供を大きく育て上げなくちゃならん。見捨てる訳にはいかんのじゃ。わしら百姓とて同じだ。わしらの田んぼは大昔からわしらの御祖先様が守り育ててきた大切な宝なんじゃ。楽な暮しがしたい、豊かな暮しがしたい、ただそれだけで捨ててしまえる物ではないのじゃ。荒れ果てて、何の実りもない土地を眺めながら立派な屋敷に住んだところで、それが本当の幸せじゃろうか」





「わしらが本当に心を砕き、本当に命を捨ててまで守らねばならないものはなんじゃ? わしら百姓の誇りはどこにあるんじゃ? 三治、もしお前の誇りが米にないのなら、お前は好きにすればええ。炭をうんと焼いてそれで大金持ちになるがええ。他の者もそうじゃ、米を捨てて豊かに暮したいのならそうするがええ。だが、わしは守り続ける。たとえ領主様が守るなと命じても、わしは守り続ける」


 太郎はこんな口調の村長を見るのはこの時が初めてでした。村長の顔が少し紅色に染まって見えるのは夕日のせいだけではない気がしました。


「そのためにわしは教えを乞うたのじゃ。毎年起こる災いを防ぐにはどうすればいいか。秋には黄金色の稲穂が実る美しい村にするにはどうすればいいか。みなの衆も聞いたじゃろう、あの有難い法大師様のお言葉を。御天道様に祈る事じゃ。村人全員が心を込めて一心に祈れば、願いは必ずかなえられる。その祈りの大きさは山をも動かす事ができる、と。山をも! そうじゃ、山を、あの寒風山を動かし海に沈めれば、どんなに大きな波が打ち寄せても、波は打ち砕かれ、静められ、大波は浜に近寄る事もできなくなるじゃろう。そして山が動いた後の土地には新たに田んぼを作る事もできるのじゃ。わしは信じた。みなも信じたはずじゃ。あの法大師様は立派な方じゃ。まちがった教えでわしらを惑わすようなお方ではねえ。わしらは祈るのじゃ、そうすればわしらの願いは必ず御天道様がかなえてくれるはずじゃ」

「だけども、なんで、動かねえだあ」


 三治がまた大声をあげました。


「もう三年も祈り続けているじゃねえか、だのになんで山は動かねえだ」

「そりゃあ……」


 村長は口ごもらせました。確かに三年は長過ぎました。村の人たちの誰もがこの長過ぎる沈黙に、次第に不満を感じ始めていたのです。と、広場の隅で誰かの小さい声がしました。


「八郎だ」

「そうだ、八郎だあ」


 その小さい声が引き金となって、まるで自分たちの不満をぶつける様に、あちこちで声が上がり始めました。


「八郎が祈らねえからだ」

「村人全員で祈らなきゃいけないのに、八郎が祈らないからだ」

「八郎、米喰わねえから、田んぼなんかどうでもいいんだ」

「八郎が悪さばかりするから、御天道様、おらたちの言う事、聞いてくれねえんだ」

「御天道様は八郎が嫌いなんだ」

「八郎は村から追い出すだ」

「そうだ、追い出すだ」


 村の人たちのこんな姿を見るのも太郎は初めてでした。太郎はばあちゃんの手を一層強く握りました。



「みなの衆、落ち着きなされ」


 村長は両手をあげるとみんなを静めようとしました。それでも村の人たちはてんでに喋っています。


「落ち着きなされ!」


 村長の大声が広場に響き渡ると、ようやく広場の騒めきが治まりました。村長は上げていた両手を下ろすと、穏やかな口調で話し始めました。


「八郎にはわしからも何度も話をしておる。けれど、八郎はあの通りだ。わしらの祈りが通じないのは確かに八郎のせいかも知れんが、わしらの祈りがまだ足りないだけなのかも知れんじゃろう。いづれにしても、今、八郎を責めるのはまちがいじゃ。それに八郎はわしらの何倍も長く生き、わしらの知らない事も知っておる。村の誰よりも年長者なのだから、それを悪く言うのは御先祖様を悪く言うのと同じだ。八郎を悪く言ったらいけねえ」

「だけど、あの土手は何とかして欲しいもんだ」


 そう言ったのは土手の一番近くで田んぼを耕している村の人でした。


「大波のたびにあの土手が崩れて、田んぼは土だらけだ。八郎はなんであんな物を作るんだ」


 その時、花の表情がさっと変わるのが太郎には分かりました。花は口を固く結んでいます。言ってはいけない何かが口から飛び出そうとするのを抑えているように、唇をギュッとかみ締めています。


「なんで、八郎が土手を作るのか、崩されても崩されてもあきらめずに、同じ土手を何度も作り続けるのか、正直、わしにも分からぬ。あるいは、何年も前に壊されてしまったわしらの御先祖様が作った堤を、もう一度作ろうとしているのでは……」

「でも、それは無理だあな」

「そう、わしらも何回も試みて何回も壊された」


 太郎はばあちゃんから聞いた話を思い出しました。今、八郎が土手を作っている場所には、大昔の村人が何十年もかけて作った大変頑丈な堤があって、田んぼを守っていたのです。けれどもある年の大地震で壊れてしまい、以来何度も作り直そうとしたのですが、完成する前に押し寄せる大波によって壊されてしまって、作り直す事は決してできなかったのでした。


「わしらが作リ直していた堤は、八郎が作っているあの土手よりもよっぽど頑丈だった。それなのに取り入れの時にやって来るあの大波には一度も勝てなかった。無理だと決まっている事を、八郎はなんでやるだあ」


 村長は黙っていました。その村の人はなおも続けます。


「それに、わしらが一所懸命堤を作っている時、手を貸してくれと何度頼んでも、八郎は手伝ってくれず、遊んでばかりいた。それなのに今になってそんな堤を作り始めるなんて変だ。あの土手はわしらを苦しめるために作っているんだ。浜に行きにくくし、田んぼを泥だらけにするために」

「理由は……」


 村長は額に皺を寄せていました。


「今になって八郎が土手を作り始めた理由は、わしには分からぬ。確かに八郎はわしらが堤を作っている時には、一度も手を貸してはくれなかった。けれど、八郎はまっすぐな男だ。人の嫌がる事は決してせぬし、乱暴を働いた事も、汚い言葉を吐いた事も、一度だってなかった。八郎にはわしらの思いも寄らない考えがあって、それでやっているのかも知れぬ。とにかく八郎にはわしからももう一度よく話してみる。だから、土手の事はしばらくこらえてくれんか」

「村長がそこまで言うのなら」


 その村の人はそう言って、あとは何も言いませんでした。三治も、もうこれ以上は何も言う気がないようでした。


「ああ、もう御天道様が休まれる」


 村長の言葉に、太郎はいつの間にか周りが暗くなり始めているのに気づきました。海の方を見ると、お日様はほとんど沈み、空に向かって最後の光を投げかけています。


「さあ、みなの衆、今日の最後の祈りを捧げよう」


 村長の言葉に広場のみんなは海の方に向きを変えました。けれども太郎は花を見ていました。花は海を見ています。お日様の光を受けてミカンの色になった花の横顔は、生き生きとして見えました。



十一



 風がびゅうびゅう吹いていました。雨はまだ降ってはいませんが、空はもう真っ暗です。太郎は家の前で田んぼを眺めていました。田んぼはすっかり田植えも終わり、早苗はしっかりと土に根を張っています。そしてその向こうにある土手も随分高くなっていました。村長の説得にもかかわらず、八郎は土手を高くする事をやめなかったのです。


「これは、昼から荒れるなあ」


 父さんがそう言いながら家の外に出て来ました。


「太郎、今日は浜へ行くんじゃないぞ。一日中家の中で遊んでいろ。ええな」

「うん」


 そう答えた太郎の頭の上に雨が一粒落ちてきました。


 昼前から雨は本降りになりました。太郎はばあちゃんと一緒に家の中でじっとしていました。父さんと母さんは村長の家へ行っています。天気が荒れる時、大人たちは村長の家へ集る事になっているのです。


「ひどくなってきたなあ」


 ばあちゃんが言いました。家の戸や窓はがたがた言って、ときおり吹く強い風に、家はドッと声をあげて揺れます。太郎は荒れている海の景色を想像しました。雨や風の音と一緒に波しぶきの音も聞こえてくるような気がしました。


「あれ」


 いきなり太郎は立ち上がりました。急に立ち上がった太郎に驚いて、ばあちゃんが尋ねました。


「どうした、太郎」


 太郎は立ったまま耳を澄ましていました。雨や風の音に混じって人の声が聞こえるのです。太郎はばあちゃんを見ました。ばあちゃんは不思議そうに太郎を見ています。耳の遠いばあちゃんには聞こえていないのです。空耳だろうか、太郎は耳に手を当てました。


「いや、聞こえる」


 太郎は戸口に向かって走り出しました。


「どこ行く、太郎!」

「すぐ、戻るよ、ばあちゃん」

「あんまり遠くへ……」


 ばあちゃんの声を聞き終わらない内に、太郎は吊るしてある合羽をつかむと、戸を開けて外に出ました。いきなり激しい風と雨が、まるで太郎が出てくるのを待ち構えていたかの様に、顔と体に襲いかかりました。太郎は合羽で身を包むと、海の方に目をやりました。海は荒れて白い波が幾つも立ち上がっています。そして押し寄せて来る波に繰り返し洗われる土手は、もうほとんど崩れていました。その崩れた土手の上に、何か黒い大きなものが覆いかぶさって、動いています。



十二



「八郎だ」


 八郎でした。八郎の頭が土手の上に見えているのです。しかしここからは頭しか見えないので何をしているのかよく分かりません。太郎は広場の方へ歩き出しました。広場は高台にあるので、そこからなら土手の方までよく見渡せるのです。


「あの声は、八郎の声だったんだな」


 太郎が広場への道を登るにつれ、だんだんと土手の様子が見えてきました。八郎は土をすくっていました。土をすくって崩れた土手を直そうとしているのです。しかし時折押し寄せてくる大波は、八郎が積み上げる土よりも多くの土を土手から運び去ってしまいます。その時、八郎は悲しみとも憎しみともつかぬ声を上げるのです。そして崩れている土手のあちこちに移動して、また土をすくい土手を直し続けているのです。


「八郎は、いつもこんな事をしていたんだろうか」


 広場に着いた太郎は雨と風に耐えながら、じっと八郎を見ていました。あんなに大きい八郎が、ここから見ると本当に小さく見えました。うずくまるような格好をしている八郎の体は、何度も波に洗われて見えなくなります。そして崩れた土手を直すために土をすくう姿は、泥遊びをしている小さな童に見えました。

 そんな光景を眺めながら、太郎は遠くに広がる海の大きさをあらためて思い知ったのです。この大きさに立ち向かうには、あの八郎でさえ小さすぎるのです。とすれば、自分たちにできるのは、やはり御天道様に願う事だけなのでしょうか。村長の言葉通りひたすら祈り続ければ、自分たちの願いはかなうのでしょうか。


「おおー」


 八郎の低い声が聞こえてきました。一際大きな波が押し寄せて来たのです。八郎は土手の上に体をかぶせました。


 どどーん!


 強大な力で押し寄せた波が引いて行くと、土手は完全に破壊されていました。田んぼは崩れた土手の土でもうぐしゃぐしゃです。その中に八郎は泥だらけになってうつぶしていました。体も顔も泥だらけでした。

 しばらくしてのろのろと立ち上がった八郎は、もう土手の事はすっかりあきらめてしまった様でした。海に背を向けて、八郎は力なく歩き出しました。雨と風に打たれながら山に向かって歩いて行きます。太郎はその姿を見てひどく気の毒に思いました。さりとて自分にできる事は何もありません。太郎はため息をつくと海に背を向け、家に帰ろうと思いました。と、その時、太郎の耳にあの言葉が聞こえてきました。



十三



『八郎は田んぼを守っているのよ』


 花の言葉でした。あの時の花の言葉が太郎の頭の中によみがえって来たのです。それまで太郎はその言葉を何とも思ってはいませんでした。それは八郎が何度壊されても以前と全く同じ土手を作り、そしてまた壊されてしまうという事を繰り返していたからです。それは本当に童の泥遊びと同じでした。けれども八郎の姿を、泥だらけの田んぼにうつぶした泥だらけの八郎の姿を見た時、太郎の頭の中に以前とは全く別の響きを伴って、その言葉が聞こえてきたのです。


「田んぼを、守っている……」


 太郎は走り出しました。家ではなく八郎に向かってです。八郎はのっそりのっそり歩いて行きます。土手から田んぼへ、それから追いついた太郎の前を横切って、田んぼから山へ。八郎が山の中へ消えてしまうと、太郎はいったん立ち止まりました。山へ行く事を禁じられていたからです。太郎は後を振り返りました。空が少しだけ明るくなっています。雨も小降りになっています。そうして太郎は決心すると、八郎の後を追って山の中へ走り出しました。


 太郎は息を切らして山道を登っていました。八郎との距離はだいぶ縮まっているように思えました。八郎が歩く時に聞こえてくる木をかき分ける音や、土を踏み締める音がだんだん近くに聞こえるようになってきたからです。太郎はその音を頼りに山道をどんどん進んで行きました。

 ふと、その音が聞こえなくなりました。太郎は少し不安になりましたが、最後に音がした方へ歩いて行きました。突然、視界が開けたと思うと、目の前は大きな谷でした。谷の向こうにはあまり大きくない山が、お碗を伏せたような形で立っています。


「寒風山の裏だなあ」


 山の形を見て、太郎はすぐにそう分かりました。寒風山は村の集落のすぐ後にある小さな山で、どこから見てもお碗を伏せたような形をしている山です。太郎は八郎を追って山の中を歩いているうちに、いつの間にかその寒風山の後に回り込んでしまったのでした。


「八郎はどこだろう」


 太郎は周りを見回しました。八郎の姿は見えません。谷底からは川の流れる音がごうごう聞こえてきます。



十四



「ああ、あれだあ」


 谷を隔てた寒風山のふもとで何かが動いたので、太郎はようやく八郎を見つける事ができました。八郎はこちらに背中を向けて、体を小さく丸めて、うずくまっているのです。


「あれは、何だろう」


 うずくまった八郎の前にある、粗末な小屋、屋根と三方の壁しかない小屋が太郎の目に入りました。小屋と言っても、八郎と比べればその顔程度の大きさしかありません。そしてその小屋の中には橙色の丸い石が置いてあるのです。八郎はその前でうずくまったまま、背中を震わしています。太郎はなんだか胸がドキドキしてきました。


「ああ、御天道様」


 八郎は顔を上げると橙色の石に向かってそう言いました。


「また、おらの土手は崩れた。田んぼも泥だらけになってしまった。村長にも村のみんなにも叱られる。やっぱりおらはまちがってるのか。土手を作るのはまちがってるのか」


 八郎が話し始めたのを見て太郎は驚きました。それまで八郎とは会話らしい会話をした事がなかったのです。八郎の話す言葉は、簡単な音だけでしたから、もしかしたら八郎は言葉を話せないのではないかと思っていたくらいです。ですから太郎は八郎の話す言葉に大きな驚きを感じたのです。


「確かにおらは村のみんなが堤を作っている時には遊んでばかりいた。昔のおらは自分勝手で、村の事なんかちっとも考えてなかった。田んぼも稲も米もおらにはちっとも関係ねえのだもの。でもあの立派な法大師様に出会っておらは変わった。おらの中に巣くっていた怠け心が、法大師様によって打ち負かされた時、おらはようやく分かったんだ。おらがまちがってる事におらは初めて気づいたんだ。でも、その時には遅かった。村のみんなは堤を作る事をやめて、祈り始めてしまった」


 八郎は言葉を区切ると、そこで大きなため息をつきました。


「みんな祈ってる。おらにも祈れと言う。御天道様に祈れと言う。でも祈るって何だ。祈るってのはどういう事だあ。土手を作る事は祈る事じゃねえのか。おらには難しい事は分からねえ。難しい言葉も分からねえ。田んぼを守るために祈るには、土手を作るしかねえ。昔あそこにあった、あんな立派な堤をもう一度作る事、それが祈るって事じゃねえか、御天道様」

「あの石が八郎の御天道様なんだ」


 太郎は小屋の中にある橙色の石を見てそう思いました。大きく、そして見事にまん丸なその石は、恐らく八郎が毎日磨いているのでしょう、表面はきれいな光沢で覆われていました。


「村のみんなは祈れば願いがかなうと言う。この寒風山が動くと言う。でもどうして動く。物を動かすには力を入れねば動かねえ。御天道様はそんなに力持ちなのか。それならなんで早くこの山を動かしてくれねえんだ。おらが祈らないからか。難しい言葉を話さないからか。それとも他にも理由があるんか。村のみんなは一所懸命だ。毎日あんなに祈っている。かわいそうでねえか、御天道様。それとも、それもそれはおらの仕事か。おらの祈りの言葉は山を動かす事なのか、このおらが……」


 いきなり、八郎が立ち上がりました。そうして大きく息をしたと思うと、身をかがめて寒風山に手を掛けました。


「おおおー」


 八郎の大声とともに、太郎は自分の居る山が揺れるのを感じました。寒風山に生えている木がザワザワ言って、互いに枝をこすり合わせました。

「うおおおー」

 八郎はさらに大きな声を上げました。八郎の腕はカンカンに固くなって、踏ん張った両足は谷に生えた二本の巨木に見えました。『八郎なら持ち上げるかも知れねえ』太郎はそう思いました。けれどもいかに力持ちの八郎でもそれはかないませんでした。やがて八郎は力を抜くと、がっくりと両膝をつき、元の通りにうずくまりました。


「ああ、駄目だ、おらにはできねえ、できねえだ」


 橙色の石の前で嘆く八郎を見ながら、太郎はこの時またも自分たちの小ささを感じずにはいられませんでした。巨大な八郎。自分たちより遥かに大きく遥かに力強い八郎でさえ、海や山の前ではもう何もできなくなってしまうのです。太郎は自分の胸がひどく苦しく、重たくなるのを感じました。そして、うずくまったままの八郎から目をそらすと、山道を下り始めました。



十五



 それから数日間、太郎は家から出る事を禁じられました。太郎が山へ行ったのは合羽に付いた草や木の葉、わらじに付いた山の赤土などで一目瞭然でした。父さんに山へ行った理由を訊かれた時、太郎は返答に困りました。八郎のあの姿、あの言葉は、話してはいけない様な気がしたのです。八郎の本当の姿を伝えるのは、自分ではなく八郎自身がすべき事だと思ったのです。そこで太郎は、山の溜め池がどうなったか心配になったので見に行ったと答えました。それで怒った父さんに外で遊ぶ事を禁じられてしまったのです。


「ああ、暑くなったなあ」


 ようやく外出が許された日、太郎は浜に来ていました。もう、海に入って泳ぎたくなるくらい暑くなっていました。振り返ると浜の向こうには低い土手。八郎がまた土手を作り始めているのです。太郎は着物を脱いで海に入りました。ひんやりする海水に体が引き締まります。太郎は海に入ってしばらく泳いでいました。


「たろちゃーん」


 誰かの呼ぶ声がしました。浜を見ると、赤い着物を着た子供が立って、手を振っています。太郎は浜に向かって泳ぎ始めました。

 思った通り浜には花が立っていました。山に行って外出できなくなってから初めて見る花の顔でした。太郎は浜にあがると、置いてある自分の着物を着ました。


「たろちゃん、言い付けを破って山へ行った罰で遊べなかったんだって」


 花が悪戯っぽい目をして言いました。太郎は黙っていました。


「たろちゃん、どうして山なんか行ったの、それもあんな雨降りの日に」


 太郎はやっぱり黙っていました。けれども本当は太郎の方が花に尋ねかったのです。八郎が田んぼを守るために土手を作っているのは、もう明らかでした。花の言葉は正しかったのです。でもなぜ花はその事を知っていたのでしょう。山から帰って来たあと、太郎はもしかしたら花も、あの八郎の姿を見て、八郎の言葉を聞いて、それであんな事を言ったのかも知れないと思っていたのです。


「ねえ、たろちゃん、山どうだった、面白かった」


 花がしつこく尋ねてきます。太郎は思い切って言いました。


「花も見たのか?」

「見た? 何を?」

「八郎を、山に入った後の八郎を、さ」

「ううん、あたし、山になんか行かないから、そんなの知らないよ」

「ふうん」

「たろちゃん、何か見たの?」

「い、いいや、何も見てねえ」

「だったら、なんでそんな事を言うの?」


 太郎は何も言えませんでした。黙っている太郎の顔を花がのぞきこみました。自分をじっと見つめる、花のくりくりした丸い瞳が自分の嘘を見透かしているようで、太郎は少しドキドキしました。


「たろちゃん、変だあ」


 花はそう言うと笑いながら海に向かって走って行きました。太郎はそんな花を見ながら、やっぱり花も山の中で八郎のあの姿を見たのではないかと思いました。



十六



 花がびっくりした様に立ち止まると、またこっちに向かって走って来ました。太郎はどうしたのだろうと思って沖を見ると、海が大きく盛り上がっています。その盛り上がりがはじけて、ぬっと出た大きな顔。


「八郎かあ」


 太郎は八郎を見ると、土手に向かって走り出しました。波打ち際に居ては八郎の起こす波で体がさらわれそうになるからです。


「たろちゃん、待ってよ」


 後から花が追いかけて来ます。太郎は構わず走り続けました。やがて太郎は土手に着くと背中を土手に持たせかけて後を振り向きました。花は追い越されて八郎がこちらに向かって歩いて来ます。そして八郎も土手に着くと、またいつもの様に自分で掛け声を掛けながら、土を土手に積み上げ始めました。太郎は少し離れてそれを見ていました。

 太郎は迷っていました。山から戻ってからずっと考えていた事、それを言うべきか言わない方がいいのか迷っていたのです。しかし太郎の頭の中に残っている八郎の真剣な言葉や態度が、遂に太郎に口を開かせてしまいました。


「八郎!」


 太郎は大声で叫びました。八郎は気にも留めずに、ほーいほーいと言いながら土を掛けています。太郎は腹に力を入れて言いました。


「八郎、この浜の土では駄目だあ。積み上げてもすぐ崩れる」


 ピタリと八郎の動きが止まりました。そして顔を下に向けるとじっと太郎の顔を見つめました。


「波に負けない堤を作るには、山の土でないと駄目だあ。それから木で杭を打って土留めもしないと、やっぱり駄目だあ」


 八郎はじっと太郎を見つめています。その目の中に太郎はどこかで見た事のある懐かしい輝きを感じました。もちろん八郎とこんな風に顔を見合わせるの初めての事なのです。それなのに、太郎はその目の輝きをどこかで見たように感じたのです。


「たろちゃん、どうしたの」


 ようやく花が土手に着きました。でも今はそれどころではありません。太郎は八郎を見つめ続けました。八郎は何も言いません。太郎の言葉が分かったのか分からないのか、それも分かりません。太郎は大声で言いました。


「おおい、八郎、おらの言う事が分かったかあ」

「分かったあ!」


 八郎の大声が太郎と花の上に落ちて来ました。二人は驚いて耳をふさぎました。いきなり八郎が歩き出しました。山に向かって大股で力強く歩いて行きます。太郎はそれを見てやっぱり言って良かったと思いました。


「八郎、何が分かったの?」


 不思議そうな顔をして太郎を見つめる花を見て、太郎はさっき感じた八郎の目の輝きが何だったのか、やっと分かりました。それは花の目でした。八郎の澄んだ、しかし強固な意志を感じさせる目の輝きは、花のそれと同じだったのです。



十七



 それから八郎の作る土手、いや堤は次第に見事なものに成っていきました。太郎に教えられた通り、八郎は木で杭を二列にぎっしりと打ち並べ、その間に山の土を積み上げて行きました。そうして八郎の堤が形を整えてくると、もはや誰の目にもその目的は明らかでした。八郎は田んぼを守っている、村の人たちはようやくそれに気が付いたのです。

 すると八郎の仕事に手を貸す村の者も現れました。奇妙な事には一番初めに八郎を手伝い始めたのはあの三治でした。三治もあんな事を言いながらも、実は村の人の暮しを一番心配していたのでした。そしてある大雨の日、八郎の作りかけの堤が見事に高波を防ぎ田んぼを守り切ると、村の者は全員この堤作りに手を貸し始めました。太郎も花も村長も父さんも母さんもばあちゃんも、自分たちの仕事の合間に八郎を手伝いました。八郎を悪く言う者は、もう一人も居ませんでした。あの子供たちでさえ、遊びの合間に堤に土を積み上げるのを手伝います。村の人たちはみんな、この堤作りに協力しました。


 とは言え、村の人たちが御天道様への祈りを忘れた訳ではありませんでした。朝も夕もそして七日に一度の広場での祈りも、決して欠かす事はありませんでした。けれどもその願いは次第に変わりつつありました。八郎の堤を完成させる事、秋の収穫の時にやって来る、あの狂ったような大波からいつも田んぼを守ってくれた、御先祖様の見事な堤を再び取り戻す事、これが村人の願いへと変わっていったのです。そして今ではそれは充分実現可能なのです。村の人たちだけではできません、でも、八郎が居てくれればできるのです。


 やがて、暑い夏が過ぎ、ぐんぐん伸びた稲が頭を下げる頃、八郎の堤は堂々たる物に成っていました。浜に出るには大変不便でしたが、その堤の大きさはまさにそこに山ができたのかと思える程、立派なものでした。八郎はそれでもまだ作り続けていましたが、村の人たちはこれなら大丈夫だと思いました。かつて御先祖様の作った堤に決して引けをとらない見事な物だと互いに褒め合いました。

 みんな嬉しそうでした。今年の秋祭りには白い米が腹一杯食べられる、酒も飲める、餅も作れる、年貢もきちんと納めて冬の労役もないから今年の冬はどう過ごそう、そんな話で村の中はとても賑やかでした。そして一番嬉しそうなのは、やっぱり八郎でした。八郎は目を輝かせながら、毎日山の土を土手に積んでいました。楽しそうに、鼻唄を唄いながら、村の人たちの喜びを全部集めたような満面の笑みを、その大きな顔に浮かべながら……



十八



 その日は朝から大荒れでした。雨も風も激しく叩きつけ、波の荒れる音が家の中にまで聞こえて来ました。太郎は一人で家に居ました。父さんも母さんもばあちゃんも、みんな堤に行っているのです。今年は大変な豊作で、しかも一度しか海の波をかぶらなかったためか、村の田んぼは今まで見た事がないほど豊かに実っていました。その収穫の日までもうあとわずかでした。今日のこの嵐を乗り切れば、その豊かな実りは全て村人たちの物になるのです。


「ああ、おらも行きてえなあ」


 太郎は子供ですし、それに以前に山に一人で行ってしまった事もあって、留守番を命じられていたのです。しかし、太郎はどうにも堤の事が気掛かりでした。太郎は居ても立っても居られず、時々家の外に出て浜の方を見つめました。浜の前には立派な堤が構えていて海はほとんど見えません。かすかに見えるはずの水平線も空の灰色と一緒になって、波がどれくらい立っているかよく分からないのです。ただ堤に押し寄せる波の高さで今日の海の荒れようが分かりました。あれだけ高いのに、時々堤を越えて押し寄せて来る波があるのです。その度に、堤に取りついて土を運んでいる村人たちの姿が一瞬見えなくなります。太郎はそんな光景を見ている内にじれったくなってきました。


「おらも、働きてえ」


 でも今度父さんの言い付けを破ったらどうなるか分かりません。太郎は唇をかみ締めながらまた家の中に入りました。


 ゴウゴオ、ビュウーヒュウー、ドシドス!


 雨も風もますます強くなってくるようです。太郎は次第に心細くなってきました。『もし今、あの堤が崩れて村の者がみんな流されたら、いや、あんなでかい堤が簡単に壊れる訳がない、でもすごくでかい波が来て、みんな流されたら、おらは一人ぼっちだ……』そんな変な考えが浮かんできて、いっそう太郎を心細くしました。

 その時、


 バシャ、バシャ、バシャ……


 規則正しい音が聞こえてきました。誰かの足音の様です。太郎はすぐに立ち上がって戸口の戸を開けました。


 ゴゴオー!


 外は雨と風が荒れ狂っていました。風は四方から吹きつけ、雨は上からも下からも降っています。その中を誰かが一人、浜に向かって走っているのです。太郎は叫びました。


「三治さん」


 三治でした。泥だらけの格好で浜に向かって一心に駆けていくのです。太郎の声に三治は立ち止まると、顔を太郎に向けました。その顔はひどく青白く見えました。


「た、太郎、大変だ」


 三治は太郎のいる戸口に走ってやって来ると、息せき切った声で言いました。


「太郎、大変だ。上の溜め池があふれている」

「溜め池が!」


 雨はここ数日ずっと降り続いていました。その雨のために、山の溜め池があふれてしまったのでした。


「そうだ、あんなに水があふれた溜め池は生まれて初めてだ。おら、水を逃そうとしたが、あんなになっちゃ、もうどうしようもない。このままじゃ堰が切れて鉄砲水になる」

「鉄砲水! そんな事、本当に……」

「まちがいない。山も水を吸って崩れやすくなっとる。池の堰が切れたら土と石の混じったでっかい鉄砲水が一気に浜まで下っちまう」


 太郎の両肩においた三治の手に力がこもるのが分かりました。


「太郎、お前、浜に行って、村長にこの事を知らせてくれ。おらはもう一度溜め池へ行って、なんとかやってみる」


 三治はそう言うと、また山に向かって駆け出しました。太郎も合羽をつかむと一目散に浜へ向かって駆け出しました。



十九



 耳元で風がゴウゴウ言いました。田んぼの稲穂も風に揺れて波立ち、黄金色の海みたいに見えます。太郎は走りました。早く行かねば、早く知らせねば……叩きつけてくる雨とぬかるんだ地面に、太郎は自分の足が思うように動かせませんでした。走っているのか歩いているのかそれもよく分からず、ただ気ばかりが先に走って行く様でした。それでも大きな堤は次第に太郎の目の前に迫って来ます。太郎は走り続けました。


「太郎でねえかあ」


 父さんの怒った声がしました。


「なんで出て来た、家に居ねば駄目じゃろ」

「……違う……」


 太郎は息が切れて声が出ません。それでも堤を見渡して村長の姿を見つけると、呼吸を整えながら言いました。


「む、村長、大変だ」

「なんじゃ、太郎、どうした」

「三治さんが来て、言ったんだ。山の溜め池があふれているって」

「なんじゃと」

「このままじゃ堰が切れて鉄砲水になる」


 村長の顔色が変わりました。父さんも土を積むのを止めて太郎の言葉を聞いていました。


「本当か、太郎」

「うん」


 太郎は自分の役目が無事に果たせて、ふっと気が抜けると、その場に座り込んでしまいました。


「みなの衆、土を積むのはやめだ」


 村長が大きな声で言いました。


「溜め池があふれている。鉄砲水になるかも知れね。すぐに広場に、あの高台の広場に避難するのじゃ」


 村長の言葉に、堤に取りついていた村の人たちは騒めきました。そしてみんな土を積むのをやめると、高台の広場に走り出しました。


「これだけ積めば大丈夫じゃろう。あとは頼むぞ、八郎」


 堤の前で踏ん張っている八郎は、この村長の言葉ににっこり笑いました。それを見て村長もにっこりしました。


「さあ、お前も行け、太郎」


 座り込んでいる太郎に父さんがそういうと、手を差し伸べました。太郎はそれをつかんで立ち上がりました。



二十



 広場に集った村の人たちはみんな不安そうな面持ちで堤を見つめていました。灰色の海は本当に荒れ狂っています。見た事もない大波が繰り返し繰り返し堤に押し寄せて来ます。その度に堤と、堤の前で頑張っている八郎の姿は見えなくなります。その一瞬、不安な心がみんなの胸をよぎるのですが、その後にはすぐに元通りの姿を見せて、みんなはほっとするのです。


「なあに、あんな頑丈な堤が壊れる訳がねえ」

「そうじゃ、それに八郎も頑張っとるんだもの」

「おい、あれは、なんじゃ」


 誰かが大声を出しました。堤の上に何か赤いものが見えるのです。太郎はそれをじっと見つめました。動いています。健気に、小さく動いているのは、


「あれは、あれは、花だ」


 村長が叫びました。太郎も危うく叫びそうになりました。赤いものは花の着物でした。遠くてよく分かりませんが、花はまだ土を積み上げているように見えました。花が堤を守ろうとしているのを見て、広場のみんなは驚きました。村長が悲痛な声をあげました。


「なぜ、花が、あんな所に……家で待ってろって言ったのに」


 太郎には花の気持ちが分かるような気がしました。自分も家の中で待っていた時、あの堤を守りたくて仕方なかったのです。八郎や村のみんなと力を合わせて作ったあの堤は、今では自分の一番の宝物でした。それは花も同じだったはずです。だからこそ、この雨の中、家を飛び出して、みんなから離れた所で、花は一人で土を積んでいたのです。


「おらが連れ戻しに行って来る」


 広場の誰かがそう叫んだ時でした。山の方から大きな地響きが聞こえて来ました。みんなは顔を見合わせました。地響きはどんどん大きく、そしてこちらに迫って来ます。


「鉄砲水だ!」


 とうとう山の溜め池の堰が切れたのでした。泥と岩を伴った激流が山を駆け下りて来るのです。村長が叫びました。


「みなの衆、落ち着け、大丈夫じゃ。ここにいれば大丈夫じゃ」


 山を駆け降りた鉄砲水は土石流となって、田んぼに襲いかかりました。豊かに実った村の稲をなぎ倒しても、その勢いは一向に衰えません。そうしてその先にある村のみんなの堤にも襲いかかろうとしています。


「おおー!」


 八郎は大声をあげて堤を乗り越えると、両手を上げて土石流の前に立ちふさがりました。太郎はその八郎の姿に息を飲みました。


 どどーん!


 大きな音がしたと思うと、八郎は土石流に押されて堤に叩き付けられ、その勢いで堤を壊して浜の方へ転げ落ちて行きました。そして狂暴な土石流は、八郎を使って堤を壊した事で満足したのか、そこでようやく止まったのでした。


「花!」


 太郎が叫びました。堤が壊れた衝撃で花も堤から滑り落ちてしまったのです。


「だあー!」


 八郎が石と泥を払いながら立ち上がりました。広場の村の人はみんな大声で叫びました。


「八郎、花を助けてくれ」

「八郎、花を拾い上げてくれ」

「八郎、花を助けてくれ」


 村の人たちの叫びは雨と風と波の音に打ち消されます。それでも、八郎の耳に村の人たちの声が届いたのでしょうか、八郎は堤の下に落ちた花に気づいた様でした。そうして八郎が花をすくい上げようと身をかがめた時、一際大きな波が海から押し寄せて来たのです。


 ザブーン!


 次の瞬間、波の合間に赤いものが漂うのが見えました。と同時に土石流に半分壊されていた堤は完全に破壊されてしまいました。けれども八郎は波間に漂う赤いものだけを追っていました。なんとか両手を伸ばして、沖へ運ばれて行く赤いものをつかまえようとしました。しかしそこへまた大きな波がやって来ました。一瞬、八郎も赤いものも見えなくなり、そしてその波が引いた後にはもう八郎しか見えませんでした。


 太郎は立ち尽くしていました。村のみんなも同じでした。今、目の前で起こった出来事が現実のものとは思われませんでした。今はもう堤は壊れて、豊かに実った田んぼは泥だらけになっています。そうして黄金色の稲も、村のみんなの希望も、何もかも押し倒し、踏み倒して、手の届かない遠い沖へと運ばれていったのです。

 太郎は全身の力が抜けていくようでした。誰かの鼻をすする音も聞こえてきました。太郎は海を見つめていました。波間に消えたあの赤いもの、あれは本当に花だったのだろうか、花はいつもと同じ様に丸い瞳をして、赤い着物を着て、村長の横に立っているのではないだろうか。太郎は広場を見回しました。みんな立っていました。誰も何も言いませんでした。悲しそうな顔、辛そうな顔、泣いている顔、けれども花の顔は見えません。


「みなの衆、祈るのじゃ」


 村長が低い声で言いました。


「祈るしかねえ、今のわしらはもう祈るしかねえ。御天道様にすがるしか、もうどうしようもねえ」


 村長は自分の悲しみを堪えて声を上げました。


「御天道様、波を静めて下され」

「御天道様、波を静めて下され」


 村の人たちの声は小さく、元気がありません。村長は続けます。


「御天道様、雨をやませて下され」

「御天道様、雨をやませて下され」


 広場の声は徐々に大きくなって行きました。太郎ももう何も考えず、ただ村長の言葉を繰り返すだけでした。


「御天道様、姿を現して下され」

「御天道様、姿を現して下され」

「そして、あの寒風山を海に沈めて……」

「だめだあああ」


 村の人の祈りの声を破って、大声が聞こえてきました。広場のみんなは一斉に声の聞こえた方に顔を向けました。


「だめだ、だめだ、だめだああ」


 八郎でした。八郎は海に体を半分沈めたまま、大声で叫んでいました。


「祈ってもだめだ、祈りは何にもならねえだあ」


 八郎の声は怒りに満ちていました。誰もが初めて見る八郎の怒りでした。


「御天道様が何をしてくれた。おらたちの声を聞いてくれたか、おらたちを苦しみから救ってくれたか」


 八郎は巨体を震わせながら海から浜に上がりました。海から現れた八郎の姿はまるで鬼神の様に見えました。そして壊れた堤を越え、田んぼを横切って大股で歩いて行きます。山に向かっているのです。


「何もしてくれねえ、御天道様は何もしてくれねえ。おらたちの声は届きはしねえ、おらたちの祈りは決してかなわねえ。決して……」


 いつの間にか雨はやんでいました。それでも強い風が時々ドッと吹きつけて、歩いて行く八郎の髪を揺らします。


「堤も、田んぼも、花も、守れなかった。おらはこんなにでかい体で、こんなに力もあるのに、あんなちっこいわらべ一人、助ける事ができなかった」


 八郎は寒風山の前で立ち止まりました。そしてその大きな体をかがめると、その山裾に両手をかけました。


「おらは一所懸命やった。あの法大師様に会ってから、おらは力を尽くして頑張った。けれど、それは本当に一所懸命だったか? 波に飲まれたあの童の様に、自分の力以上のものを出そうと、本当に頑張ったか……」


 八郎のふくらはぎが膨れ上がり、両肩が盛り上がりました。八郎の全身に力がみなぎっているのが、遠くからでも分かりました。


「おらは、おらは、本当に……」


 八郎は渾身の力を込めて足を踏ん張りました。寒風山がゆっくりと傾き始めました。八郎はなおも踏ん張ります。寒風山はさらに傾き八郎の体は完全に立ち上がりました。そして両腕に力を込めて、寒風山の端を頭の上まで持ち上げると、斜めになっている寒風山と地面の間にできた隙間に、八郎は素速く身を入れました。


 どどどどどお!


 地鳴りとも八郎の唸り声とも知れぬ大音響の中、たくさんの山土と何本もの樹木を落としながら、寒風山は持ち上がりました。


「あれは……」


 その時、太郎の目に紅色の玉が映りました。山の奥で見たあの輝く玉、八郎が祈りを捧げていたあの紅色の玉が、崩れ落ちる小屋や山の木々と一緒に転げ落ち、二つに割れたのでした。


「八郎の御天道様が……」


 完全に浮き上がった寒風山は、やがてゆっくりと動き始めました。それはまるで山自身が一つの意志を持って動いているようにも見えました。けれどもその下には八郎が、蟻の様に小さな八郎が、枯れ枝の様な腕と足で山を支えているのです。


「八郎……」


 太郎は息を詰まらせながらつぶやきました。八郎の頭は山の重みのためにほとんど直角に曲がって肩の上に乗っていました。目は大きく見開き血の涙が顔に流れていました。固くかみ締めた唇からも赤い血が流れています。足は歩くたびにガクガクと震え、前かがみになった腰は今にも折れそうです。八郎の体中の骨がミシミシときしむ音も聞こえてきます。

 太郎は熱くなった両目を手の甲で拭いました。八郎がこれほど小さく、これほど弱々しく見えた事は、今まで一度もありませんでした。けれども八郎がこれほど大きく、これほど力強く見えた事もまたなかったのです。


 八郎は歩いて行きました。自分の大きさの何十倍もある山を背負い、自分の重さの何千倍もある山を担いで、大きく深い足跡を田んぼと村の人たちの心に残しながら、ゆっくりと海に向かって歩いて行くのです。そして八郎の目は海ではなくもっと遠くの何かを見つめていました。なぜなら八郎は海に入ってもその歩みをとめる事はなく、海の向こうにある何かを求めるように、ゆっくりゆっくりと歩いて行ったからです。広場のみんなはただ黙ってそれを見ていました。八郎の最後の姿が海に消え、山の動きが止まっても、誰も何も言えませんでした。

 その時、西の空の雲が切れて、眩しい光が空の雲と海の波を照らしました。


「願いが、かなったのじゃ」


 村長が低い声で言いました。


「わしらの願いがかなったのじゃ。御天道様がわしらの願いをかなえて下さったのじゃ」


 村長の叫びに、村の人たちは我に返りました。


「そうだ、かなった」

「祈りがつうじた」

「八郎のおかげで」

「そうだ、八郎じゃ。八郎は御天道様だったんじゃ」

「八郎の姿を借りて、願いをかなえて下さった、山を動かして下さった」


 しかし、太郎は黙っていました。黙って海を見つめていました。


「さあ、みなの衆、御天道様に感謝の祈りを捧げるのじゃ」


 広場の高い場所に上がった村長がそう言った時、


「ちがう!」


 突然、太郎が大声を出しました。みんなは驚いて太郎を見つめました。


「どうした、太郎」


 ばあちゃんが心配そうに太郎の肩に手を掛けました。


「ちがう、ちがう、そうじゃないんだ」


 太郎はばあちゃんの手を払いのけると、広場の端に向かって走りました。そして一番端まで来ると、遠くの海を見つめました。花と八郎が消えた海。けれどもそこには、今、立派な山があります。そしてその山を、海に沈んで行くお日様の、赤い、力強く赤い光が優しく照らしています。


「おらは……おらは耕し続ける。これからもずっと……」


 太郎の足元に一本の鍬が落ちていました。土留めを作る時に使った鍬でした。太郎はその鍬を拾い上げると、丁寧に泥を払いました。そして赤い夕日に照らされた寒風山を見つめながら、その鍬の柄を固くしっかりと握りしめました。


           

                           

             

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