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てへぺてろ(前編)(五千字)(宗教)

 

 シモンは湖の近くに住む漁師です。弟や両親、妻と一緒に、貧しいながらも仲よく暮らしていました。

 ある日、弟が、なんだか凄く立派な人に出会ったから兄さんも会ってみてよと言うので、会いに行きました。

 会ってみると話の通りとても偉そうな人です。シモンに対していきなり、


「これからあなたのことは岩、つまりこの地方の言葉でケファと呼ぶことにする」


 と勝手に決めてしまいました。

 思いがけない申し出に困ってしまったシモンは、取り敢えず、


「テヘ!」


 と言いました。すると、偉い人はその表情が気に入ったらしく、


「ケファではなく、ギリシャ語のペテロの方がいい。ペテロの『テヘ!』は天下一品である」


 と言われたので、それ以来、シモンはテヘのペテロ、テヘペテロと皆に言われるようになりました。



 それから偉い人とペテロは一緒に暮らしました。


 ある時、お祝いの宴会の最中に葡萄酒が足りなくなったので、どうしようかと困っていると、偉い人が袋に葡萄汁を入れなさいと言い出しました。ペテロはますます困った顔をしました。


「今からお酒を造ろうとしても何日もかかります。間に合いません。入れても無駄です」

「ペテロよ、再び私は言う。袋に葡萄汁を入れなさい」


 強情に言い張るので、ペテロは渋々入れました。すると葡萄汁はたちまち葡萄酒になりました。


「ペテロよ。見ての通り私の言葉は正しかった。さあ、あなたはどの様に言い訳をするのか」

「ううう……テヘ!」

「仕方ない、今度ばかりは何も言わないでおこう」


 ペテロにテヘと言われては偉い人も赦してしまいたくなるのです。


 またこんなこともありました。

 一晩中、湖で漁をしたのに一匹の魚も得ることができず、疲れ切って帰って来たペテロに、偉い人は、


「もう一度、湖へ行って漁をするがよい」


 と言われたのです。

 くたくたに疲れ切っていたペテロは、


「そんなことをして魚が得られるとは思えません。休ませてください」


 とお願いしました。けれども、偉い人は強情に言い張ります。

 仕方なくペテロは重い体に鞭打ってもう一度湖で漁をしました。すると今度は舟が傾かんばかりに魚が獲れたのです。


「ペテロよ。見ての通り私の言葉は正しかった。さあ、あなたはどの様に言い訳をするのか」

「うううう……テヘ!」

「あなたにテヘと言われては、これ以上責めることはできない」


 偉い人は優しい声でそう言われました。どんな罪でも赦したくなる、それがペテロの「テヘ!」の力なのでした。

 そして偉い人の奇跡を二度も目の当たりにしたペテロは、それ以来、彼を主と呼ぶようになったのです。



 やがてペテロと弟は漁師をやめて、偉い人と行動を共にすることにしました。


「魚ではなく人間をとる漁師になりなさい」


 と偉い人に言われたからです。妻も両親も働かないでどうするのと怒りましたが、ペテロの「テヘ!」の一言で全てを赦してしまいました。


 偉い人は自分に従う大勢の中から十二人を選び出しました。その中にはペテロや彼の弟も入っています。

 ある夜、偉い人はこの十二人を無理やり舟に乗せて湖に漕ぎ出させました。

 湖は大荒れです。辺りは真っ暗で風も雨も強く、十二人は生きた心地もしません。

 その時、暗闇の中を、音もなく何かが近付いて来ます。


「幽霊だ!」


 恐がりのペテロが叫びました。途端に、大きな怒鳴り声が聞こえました。


「よく見るのだ、ペテロよ。私はおまえの主だ」


 なんとそれは湖の上を歩いて渡ってきた偉い人だったのです。ペテロは真相がわかって、いつものように、


「ホ、ホントだあ……テヘ!」


 と言いました。しかし、偉い人が水の上に立っていることは信じられません。実際に自分も水の上に立てるかどうか、確かめたくなったペテロはお願いしました。


「主よ、水の上を歩くよう、私に命じてください」

「ならばここへ来なさい」


 偉い人の命令を受けて、ペテロは船から飛び降りました。驚きです。立てたのです。そして歩けたのです。

 自分で自分にびっくりしながら、ペテロは歩きたての赤ん坊のように、一歩一歩偉い人に近付いていきました。


「でも、どうして人が水の上を歩けるのだろう」


 急にペテロは我に返りました。一旦、そう考えだすともう止まりません。

 強い風が顔に吹き付け、強い雨が体を打ち付け、強い波が足をすくい続けているのです。自分は沈んでしまうのではないか、そんな思いが頭の中で渦を巻き始めました。

 急にペテロは怖くなりました。そうだ、人が水の上を歩けるはずがない、偉い人は私を騙しているのではないか、そう考えた途端、ペテロの体は水に沈み始めました。


「アップ、アップ。主よ、御助けを」


 偉い人は呆れた顔で自らペテロを引き上げられました。


「なぜ私を疑った。なぜ人の世の常識に囚われた。なぜ己の信仰を捨てた」

「そ、それは……テヘ!」


 すっかり呆れていた偉い人でしたが、ペテロの「テヘ!」には勝てません。いつも通りの優しい笑顔をペテロに返されました。

 そしてペテロは知ったのです。信じることをやめた時ですら自分を引き上げて助けてくれたこの人は、本当に我らの主なのだと。世界を助けてくれる救世主なのだと。神の力を持つお方なのだと。



 こうしてペテロの偉い人への信仰はますます深くなりました。それでもペテロは相変わらず失敗ばかりで、みんなを呆れさせていました。

 ある日、ペテロは尋ねました。


「主よ、自分に対して過ちを犯す友人を、何度赦せばいいのでしょうか。大体七回くらいまで赦して、それ以上になったら赦さなくてもいいですか」


 偉い人は答えられました。


「友人が『テヘ!』と言う限り、あなたは何度でも、七度の七十倍でも赦しなさい。そもそも、私はあなたが『テヘ!』と言うたびに赦してきた、それは七回どころではないではないか」


 と言われたので、恥ずかしくなって、思わず「テヘ!」と言ってしまいました。


 こうして偉い人と十二人の弟子はあっちこっちで教えを説きました。が、日が経つにつれ、偉い人はなんだか気掛かりでもあるかのように暗く塞ぎがちになっていかれました。心配した弟子たちがその理由を訊くと、こう答えられました。


「私は大きな都へ行く。そこで権威ある者たちに捕らえられ、大きな苦しみを与えられ、無慈悲に殺される。そして三日後に復活する」


 これを聞いたペテロは驚きと同時に怒りが湧き上がってきました。自分が主と仰ぐ人がそのような辱めを受ける謂れはありません。そこで、偉い人の服の袖を引っ張って、弟子たちに見えない場所に連れてくると諌め始めました。


「主よ、そんなことを皆の前で言うものではありません。むざむざ捕らえられ殺される人に、付いて行こうとする者などいるはずがありません。それにそんなことがあってはなりません。そのような企ては必ず私たちが阻んでみせます。このような話は二度としないでください」


 それは弟子としては余りに身分不相応な口振りでした。

 偉い人はペテロの話を聞き終えられると、今まで決して見せたことのない、激しい口調でペテロに言われました。


「悪魔よ、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする。神のことではなく人間のことを思っている」

「悪魔……私を、悪魔と呼ばれるのですか、主よ、私はあなたのためを思って……」


 偉い人は何も答えずに行ってしまわれました。さすがのペテロも「テヘ!」とは言えませんでした。自分が間違っているとは思えなかったからです。


 ペテロは「テヘ!」と言えないまま、悶々とした日々を送っていました。そんなある日、偉い人はペテロの他に二人の弟子を連れて、四人で山へ登られました。

 頂上に着いた時、偉い人の姿が変わりました。顔は太陽のように輝き、服は白い光を発し始めたのです。

 そして、いつ現れたのでしょうか。二名の者と話をしておられるのです。その一人は預言者の祖であり、もう一人は立法の祖でした。この二人は、偉い人を捕らえ殺そうとしている権威ある人たちが崇拝している伝説的存在です。神々しいまでの光景を見たペテロは歓喜の声を上げました。


「主よ、もはや大きな都になど行く必要はありません。この栄光のお姿を永遠にこの地に留めておくべきです。私は主と、それからその二人の為に、ここに三つの聖所を築きます。誰もがあなたがた三人の為にここに来て、その足元にひれ伏すでしょう」


 その時、俄かに周囲に雲が立ち込めたと思うと、その中から、これまで聞いたことのない厳かな声が聞こえてきました。


「これは私の心に適う者である。人々に捕らえられ十字架の上で死ぬ為に、私がこの地に遣わしたのだ。私の声を聞くように、この者の声を聞け」


 心の奥底にまで響く、重々しい威厳のある声に、ペテロも他の二人の弟子もその場にひれ伏してしまいました。どれだけそうしていたでしょう。


「起きよ、恐れることはない」


 という、偉い人の言葉を聞いて、三人が顔を上げた時、偉い人は以前と同じ埃にまみれた姿となり、一緒にいた二人は消えてしまっていました。


「ペテロよ、あなたはもう私の行く手を阻もうとはしないであろうな」

「主よ……もちろんです、テヘ!」


 偉い人はペテロの「テヘ!」を聞いて、ようやく笑顔を見せてくれました。

 ペテロにはもう不安はありませんでした。たとえ権威ある人に捕まろうと、今、目の前で繰り広げられた奇跡を、皆の前で見せてやればいいのです。そうすれば誰もが驚き、無礼な真似をしようなどとは二度と思わないはずです。


 こうして偉い人と十二人の弟子たちは大きな都にやってきました。ちょうどお祭りだったので、一つの家を借りてみんなで御馳走を食べることになりました。

 全員席に着くと、突然偉い人は立ち上がり、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い始めました。誰もが驚きました。それは身分の低いことがする仕事だからです。さりとて偉い人のすることに異議を唱えることもできず、弟子たちはされるがままになっていました。

 やがてペテロの番になりました。ペテロは思わず叫びました。


「やめてください。主が私の足を洗うなど、あってはいけないことです」

「洗わなければ、私とあなたの繋がりは切れる。それでもよいのか」


 偉い人にそこまで言われてはペテロも引き下がらないわけにはいきませんでした。そこで、もっと大きなことを言ってみました。


「それなら、足だけでなく、手と頭も洗ってください」

「体は既に清いのだから、洗うのは足だけでよい。ペテロよ、調子に乗るのではない」


 偉い人はそう言われると、ペテロの足を軽く叩かれました。ペテロはいつも通り、


「テヘ!」


 と言うと、素直に足だけを洗ってもらいました。


 しばらくして、偉い人はあるひとりの弟子に一切れのパンを与えられました。その弟子が部屋を出ていくと、こう話されました。


「私は間もなくいなくなる。今夜あなたたちは私につまずく。誰も私には付いてこられない。が、後に付いてくることになるだろう」


 ペテロがさっそく口を挟みました。


「主よ、私はいつもあなたと一緒にいます。他の者がつまずいても私はつまずきません。今もこれからもずっと行動を共にします。一緒に牢に入って死んでもいいと思っているのです」

「ペテロよ、私のために死ねると言うのか。まことにまことに私は言う。雄鶏が時を告げるまでに、あなたは三度『テヘ!』と言って私をいなむだろう」


 その言葉はペテロにとって大きな衝撃であると同時に不満でもありました。主は自分を見損なっている、自分の信仰の大きさをわかってくれていない。これだけ付き従ってきたのに、まだ自分を信じてくれていないのだ。ペテロは顔を真っ赤にして否定しました。


「あり得ません。そのようなことを私がすると本当にお思いなのですか。たとえ命を落とそうとも、主を否むことなど決していたしません」


 ペテロの言葉に他の弟子たちも全員賛同しました。けれども偉い人はただ黙って悲しい顔をするだけでした。



 


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