変身(前編)~クマムシを愛した少年(五千字)(SF)
●絶叫! お兄ちゃんはどこ
ある朝、昏五時座無座が、難問に翻弄されつつ解答した試験用紙を、シュレッダーに掛けて粉砕している夢から目覚めると、一匹の超巨大クマムシに姿を変えていることに気が付いた。
超巨大といっても、実際には百七十センチくらいである。そんなの巨大でも何でもないじゃないかと思う人もいるかもしれないが、あくまでクマムシを基準にした超巨大だ。
そもそもクマムシの全長はせいぜい一ミリ程度なのだから、全長百七十センチもあれば、超巨大と呼ばないわけにはいかないのだ。
「おお、これはなんてことだ」
と、座無座は言おうとしたが、クマムシに発声器官はないので言葉にならなかった。
ただ、何もかもクマムシそっくりだったわけではない。
八本ある脚のうち、頭部側二本は腕みたいに長くなっており、その先には指が五本付いていた。
頭部から一番離れた二本は足みたいになっていて、二足歩行が可能であった。
「あ、変な虫がいる」
いつまで経っても起きてこない兄を呼びに来た妹の第一声である。
「こら、変な虫、お兄ちゃんをどこへやった」
高校生のお兄ちゃんの部屋のベッドに、全長百七十センチのクマムシが横たわっていた場合、普通の中学生なら悲鳴を上げて逃げ出すものだが、この妹は怖いもの知らずだったので、平然とクマムシ座無座の体をポカポカと叩き始めた。
普段、滅多に取れない妹とのコミュニケーションの機会が持てて、座無座は内心喜んでいた。しかし、耳がないので妹が何を言っているのかさっぱり分からない。とにかくポカポカ叩かれるのを早急にやめさせる必要がある。
座無座はベッドから降りると、勉強机の引き出しからノートを取り出し、『ボクがお兄ちゃんだよ。声が聞こえないから字を書いて』と走り書きをして妹に見せた。
「え、じゃあ、お兄ちゃん、虫になっちゃったの?……あ、聞こえないのか。おい、そのノート貸せ」
妹は座無座からノートをふんだくると、『お兄ちゃん、虫になっちゃったの?』と書いて座無座に見せた。頷きながら返事を書く座無座。
『そうだよ』
『キモ!』
妹は吐き捨てるように文字を書くと、部屋を出て行った。
そこはかとない寂寥感に襲われる座無座であったが、無視されなかっただけでも良しとしようと思った。ムシだけに。
●激論! 早朝の家族会議
その日の朝、昏五時家では緊急の家族会議が開かれた。クマムシになった座無座をどのように取り扱うか、これが本日の議題である。さっそく活発な討論が開始された。
「やはり、背中にリンゴを投げつけるしかない」(談:父)
「座無座の部屋を三人の紳士に貸してお金を稼ぎましょう」(談:母)
「バイオリンを弾いてお兄ちゃんを感動させてあげちゃう」(談:妹)
「いや、感動させるだけじゃ何の解決にもならんだろ、ボケ」(ツッコミ:父と母)
などなど、どこかで読んだような解決策を提出する父、母、妹の三人ではあったが、結局、家に置いておくわけにもいかんだろうということで、国立クマムシ研究所に移送することに決定した。
国立クマムシ研究所は、クマムシの分野では最先端の研究実績とノウハウを誇る施設である。当然、所属する研究員は精鋭揃い。「あります。クマムシ細胞は絶対にあります」なんて泣きながら叫ぶ研究員は在籍していないので安心である。
この研究所なら幸福な余生を送ることが出来るだろうと、座無座に伝えたところ、まあ、仕方ないねと本人も了承したので、さっそく明日、月曜日に研究所に搬送することになった。
「あ、こんにちは、研究所からの依頼でお荷物を引き取りに参りました」
月曜日の午前にやってきたのは、普通の宅配業者である。てっきり、高級リムジンか何かが迎えに来てくれるものと思っていた座無座はちょっとがっかりしたが、贅沢を言える立場でもないので、素直に着払いのラベルを貼られてトラックの荷台に載せられた。
『送辞:ざむちゃん、元気でね~』
父は会社、妹は学校なので、お見送りしてくれるのは、送辞を書いたノートを両手に掲げて玄関に立っている母だけである。
これが今生の別れだというのに、なんとも薄情な家族ではあるが、無視されなかっただけでも良しとしようと座無座は思った。ムシだけに。
●爆誕! 地球最強生物
「素晴らしい、これはクマムシを凌駕しているぞ。見よ、助手君、この腕と足を。乾眠状態にあっても活動可能とは、信じられない」
国立クマムシ研究所は大騒ぎになっていた。誰もがこの現象に腰を抜かさんばかりに驚愕した。
研究所に連れて来られた座無座は、昨晩徹夜して書き上げた挨拶の言葉、
『どうも、初めまして。クマムシ初体験の座無座です。よろしくお願いします』
と書いたノートを所長に見せようと思ったのだが、ノートを開く間もなく実験室に拉致され乾眠状態にされてしまっていた。
乾眠とは、体内の水分を極限まで排出してカラッカラの体になることである。
当然縮む。全長百七十センチの体は、現在六十センチくらいにまで縮小している。その樽の如き体に両腕と両足は元のままで、ニョキッとくっ付いている。
普通のクマムシならば完全に活動を停止し、死んだように動かなくなるはずだ。それなのに座無座には意識があった。腕も足も動かせた。手には鉛筆とノートを持たされたままだ。
『座無座君、気分はどうかね』
『はあ、喉が渇いて牛乳を飲みたい気分です』
『ちょっと、足を動かしてみて』
『ちょちょいのちょい、っと』
筆談をしていた所長は歓喜した。乾眠中のクマムシの環境耐性は想像を絶するものがあるが、活動は不可能だ。しかし、座無座は乾眠状態でも活動可能なのである。これはとんでもない生物が誕生したと言わねばならない。
「それにしても、筆談が面倒ですね、所長」
「うむ、そうだな。よし、大発見を記念して、わしがクマムシ専用意思疎通会話装置を発明してやろう」
所長はノートを放り投げ、さっそく開発に取り掛かった。
声帯も鼓膜もないクマムシに発声させ、音声を認識させるなんて、そりゃ無理だろうと助手は思ったが、この精鋭揃いの研究所の所長である、二時間で作ってしまった。さっそく、座無座の頭部に取り付ける。
「よし、これでノートでのやり取りはせずに済むな」
「あ、ありがとうございます。でもせっかくなので、ボクが書いた挨拶文、読んでくれませんか」
座無座はノートを開いて、徹夜で書き上げた挨拶文を見せた。所長さんはふむふむと頷くと、ノートを取り上げて放り投げてしまった。
なんともつれない対応ではあったが、無視されなかっただけでも良しとしようと座無座は思った。ムシだけに。
●ファーストミッション 深海の大捜索!
クマムシは何でも飲む。歯がないので飲むことで栄養を吸収するのである。
座無座は牛乳を飲んでいた。初日にうっかり『牛乳を飲みたい』と書いてしまったので、それ以来、牛乳だけが与えられている。
ちょっと飽きてしまう食生活ではあるが、うっかり『青汁飲みたい』なんて書いていたら、もっと悲惨な食生活になっていただろうから、まあ、良しとしようと座無座は思った。
ところでいくら珍動物と言っても、いつまでもお客様気分でただ飯食らっていられるほど世の中は甘くないのである。金を稼いでこその座無座の能力。稼ぎがなければ、そこらの虫けら以下の存在である。
ということで座無座は乾眠状態にされて海にやって来ていた。場所は北太平洋西部マリアナ諸島の東にある、世界最深のチャレンジャー海淵の上である。助手が座無座に指示を与える。
「では、座無座君、これから海の底まで行って、水中カメラで撮影、および堆積物の採取、運よく深海魚とか見つかったら、それの捕獲。よろしく頼むよ」
「あ、はい。あの、それで、今、ボク、真っ裸なんですけど、潜水服とかないんですか」
「大丈夫だよ。十キロ潜ったって千気圧ぐらいの水圧しかないんだから」
「あ、でも酸素ボンベとか」
「何を言ってるの。肺がないんだから肺呼吸はしないでしょ。って言うか、そもそも呼吸器官がないじゃん。酸素ボンベなんか無意味。乾眠状態では基本的に酸素の代謝は停止するんだし。まあ、腕と足と頭の一部は動いているから、ちょっとは酸素が必要だろうけど」
「あ、でも水に濡れたら乾眠状態、ヤバクないですか。ふやけるような気がするんですけど」
「それは心配ご無用。水分子は通さず酸素分子だけを通す特別の透明皮膜で全身を覆ってあるから。さあ、レッツゴー!」
聞く耳持たない助手によって海に突き落とされた座無座は、海底深く沈んで行った。本当に大丈夫かなあと思いつつ沈んで行く座無座だったが、意外と快適である。乾眠状態のクマムシは七万気圧まで耐えられるので、これくらい平気のヘーなのであった。腕と足と思考回路を動かす為に必要な酸素は皮膚から直接取り入れているようだ。
そうして海底に着いた座無座はさっそくミッションをこなし始めた。明かりを点けて撮影開始。海底の泥を採取して袋詰め。そしてキョロキョロと深海魚探し。残念ながらこれは見つからなかった。
「これくらいでいいかな」
座無座は腰に結わえられた紐を引っ張った。引き上げてくれの合図である。待った。反応がない。おかしいな。また引っ張る。待つ。反応がない。
すると紐を伝って大きな岩が落ちて来た。岩には文字が彫られている。
『台風が近付いてきたので先に帰るよ。紐の先は船から外してブイに括り付けてあるので、自力で浮上してね。助手より』
自力で十キロ浮上なんて、考えるだけでもうんざりだったが、無視されなかっただけでも良しとしようと座無座は思った。ムシだけに。
●セカンドミッション 立ち入り禁止区域の大掃除!
「座無座君、次の仕事が来たよ~」
助手が嬉しそうな顔で走って来た。前回の深海大作戦は、海上に浮かび上がってから、荒れ狂う海の中で一時間も待たされたので、すっかりヤレヤレ気分の座無座である。
「今度は、もう少しマシなお仕事なんでしょうね」
「大丈夫だよ。地上の建物の中での簡単な作業だから」
まあ、それならいいかと座無座は車に乗り、助手と一緒に現地へ向かった。
到着したのは原子力発電所である。それも、一体何があったのか、派手にぶっ壊れている。キープアウトとか書いた黄色いテープがあっちこっちに張り巡らされている。
「じゃ、座無座君、これ以上は近付けないので、君一人で行ってね。なあに、ただのお片付けだよ。詳しい指示は頭に取り付けた有線連絡機で逐一報告するから」
座無座は気になった。助手はいつの間にか消防士みたいなゴツイ防護服を着ていたのである。しかも腰に取り付けられた黄色い箱がピーピー鳴り続けている。
「あの、その装置は何ですか」
「あ、これはガイガーカウンター。放射線量を測る装置だよ」
「えっと、さっきから鳴りっ放しなんですけど、大丈夫ですか」
「大丈夫、大丈夫、人間ならヤバイけど、クマムシなら大丈夫。じゃあ、この箱を持って、行ってらっしゃい」
こうして座無座はひとり、鋼鉄製の重たい箱を持たされて、今回も素っ裸で原子炉建屋へと侵入した。
辺り一面水浸し、しかもかなりやられている。遮蔽壁は崩れ落ち、原子炉格納容器は損壊し、原子炉圧力容器は穴が開いていた。
一応、座無座もガイガーカウンターを取り付けていたのだが、途中でデジタル表示が8888になったまま動かなくなった。壊れたらしい。
「もしもし、こちら座無座。原子炉に到着しました。どうすればいいですか、どうぞ」
「こちら助手。えっと、どこかに核燃料が落ちていると思うんだけどね、原子炉内部か、あるいは格納容器の底に。それを全部回収して、箱に入っている中性子吸収材とよく混ぜて、箱の中に詰めて欲しいんだよ、どうぞ」
「了解。それからえっと、ボクのガイガーカウンターが動かなくなっているんですけど、これってヤバクないですか、どうぞ」
「クマムシの半数致死線量は人間の千倍だから、それくらいの放射線じゃびくともせんよ、がっはっは。あ、わしは所長じゃ。んじゃ、よろしく」
どうして所長が出しゃばって来たのだろうと思わないではなかったが、余計なことを考えても仕方がないので、座無座は格納容器の底をあっちこっち走り回って、貯まっている核燃料を回収し、中性子吸収材にこねこねと混ぜ合わせ、せっせと箱の中へ詰めていった。周囲の水は熱湯になっていてちょっと熱かった。素っ裸で来てよかったなあと思った。
「終了しました、どうぞ」
「はーい、じゃあ、撤収ね。あ、箱のふたはキッチリ締めてね」
座無座は元来た道を引き返した。建屋の外に出ようとした時、連絡が入った。
「あー、ごめーん。所長さんが座無座君専用の除染装置をいじっていたら、壊れちゃったんだよ。しばらくそこで待機していてね。はっきり言って、今の座無座君、歩く放射能って存在になっちゃってるから、ふらふらされるとマズイんだ」
余計なことをする所長だと腹が立ったが、無視されなかっただけでも良しとしようと座無座は思った。ムシだけに。
こうして座無座はクマムシ研究所でそれなりにお仕事を片付けながら、それなりの人生を送ることとなったのであった。




