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波のようにやってくる(四千字)(ミステリー)


 1


 男は今晩もやってきた。ここに通いだしてからどれくらいになるだろう。百日、半年……覚えていないわ。でも、確かなことがひとつある。毎日、毎晩、夜の七時に必ずやってくる、これだけは決して違えることのない男の日課。


「ドライブを断られたので少し心配だったのですよ。体調を崩されたと聞きましたが大丈夫ですか?」

「え、ええ。でも夜になって娘の具合も随分良くなったようですよ」


 応対に出た母が困惑しながら答える。そんな母の素振りに気を遣うこともなく、男はにこやかな笑顔を投げかける。


「良い返事が貰えるといいのですが」


 そう言いながら靴を脱いで上がる。まるでそれが自分に与えられた当然の権利ででもあるかのように。眉をひそめる母などお構いなしにリビングに入る。ソファーに座る。緊張した面持ちで口を開く。


「これを」


 私に向かって差し出したのは花束。そこには手紙が添えられている。私は躊躇して母を見る。母が私の代わりに手を伸ばす。


「いったん私が受け取っておきます。娘には後で渡しますから」

「そうですか。では、お願いします。必ず渡してくださいね」


 母が小さく頷く。もちろん私に渡す気などない。読まなくてもその中身は分かっているのだから。

 母は立ち上がると、花瓶のあるチェストに花束を置き、添えられていた手紙を引き出しに入れた。その引き出しの中にはこれまで男が持ってきた手紙がぎっしりと詰まっている。捨てることも出来ずにこうして保管しているのは、母の優しさゆえだろう。


「あの、しばらく彼女と二人だけで話をしたいのですが」


 男の言葉に母は返事をせず、無言でリビングを出て行った。いつもと同じ行動。いつもと同じ言葉。何もかも昨日と一昨日と先週と先月と同じ。そしてそれは明日も明後日も来週も来月も続くのだろう。私と二人きりになった男の顔に笑みが浮かぶ。


「さあ、これで落ち着いて話が出来る。お母さんが居るとどうしても緊張しちゃってね」


 気がどうにかなりそう。もうやめて。ここには来ないで。私が嫌がっているのが分からないの? 二度と繰り返さないで。こんな事は今晩で終わりにして。男の顔も声も仕草も、私にとっては地獄の責め苦にしかならないのだから。今、私が抱えている闇の深さに早く気付いて!



 男の最初の日記


 彼女と初めて出会ったのは旅先だった。真冬にもかかわらず北国の凍り付くような海を見たくなった私は、休暇を取って寒風吹き荒れる砂浜を歩いていた。

 彼女はそこに一人で立っていた。人影のない冬の海に一人で。

 興味を抱いた私は声を掛けた。彼女はこちらに顔を向けただけで、何も言わなかった。手に持っているのは若い女性には不向きな実用的な水筒。

 私はそれを見て声をあげそうになった。私が愛用している水筒と色も大きさも全く同じだったのだ。興味は親近感に変わった。水筒には、きっと熱いお茶かコーヒーでも入っているのだろう、そう思った私は、一杯くれないかと頼んだ。彼女は首を振った。私は冗談めかして、まさか毒でも入っているんじゃないよねと言うと、彼女は、そう、これには毒が入っている、私はここに死にに来たのと答えた。そうして私はようやく彼女の持つ闇の深さに気付いたのだ。




 2


「君と出会ってからもう何年経つかな。お互い年を取ってしまったよね、ははは」


 男が明るい声で笑う。そう、この男は初めて会った時から陽気だった。それは今でも変わらない。楽天的でポジティブで物事の全てを前向きに捉える、典型的なお気楽男。私とは正反対。

 最初は全てが鼻に付いた。鬱陶しくて仕方なかった。けれどもこの男の持つ明るさは次第に私の闇を薄めていった。真っ黒だった山々が朝日に照らされてその緑を現し始めるように、闇に染まっていた私の本当の色が、私自身にも見えてきた。


「あの頃に比べると、君は随分と明るくなったよね」


 邪気を微塵も感じさせない男の言葉。私はいつものように意地悪を言いたくなる。


「そしてすっかりおばさんになってしまったとでも言いたいのでしょう」

「違いないね。そしてボクもおじさんになってしまったよ。ははは」


 子供みたいな笑顔。その笑顔は今の私に向けられるべきものではないはず。


「本当に私でいいの? あなた、私のこと、本当に知っているの?」

「そうだな……いや、多分知らないんだ。だからもっと知りたいんだ。一生、君の側に居て、君という人間を知りたいんだよ」


 ぞっとする。それは毎日聞かされている言葉。これだけの月日を掛けても、この男は何も変わらない。私への理解は一ミリも進まない。これ以上は無意味。この男はここに来てはいけない、ここに居てはいけない。こんな事は今日で終わりにしなくては。


「本当に、ずっと私と居たいのね」


 男が頷く。私は決心する。



 男の途中の日記


 それから私は彼女と話し合った。その結果、彼女の死への願望は幾分弱まったように見えた。だが、いつ再燃するとも限らない。

 私は彼女に連絡先を教えてもらい、旅が終わった後も、出来るだけ彼女と接触を持った。当初は冷たく拒絶されるだけだったが、何通も手紙を書き、何度も電話を掛けるうちに、彼女の心は解れていったのだろう、やがて、直接会うようになった。

 楽しかった。女性と付き合ったのは初めてではなかった。しかし、これほどの幸福感を味わえたのは彼女が初めてだった。

 会うたびに彼女は明るくなっていく。それは私に更なる喜びを与えると同時に、私の中の彼女への関心を愛情へと変化させていった。私はそれとなく彼女に対する私の気持ちを伝え、私に対する彼女の気持ちを尋ねた。肯定も否定もせず、微笑するだけの彼女を見て、私は決心した。




 3


「私の部屋へ来て」


 それは初めてのイレギュラー。昨日も一昨日も先週も先月も、私が一度も口にしなかった言葉。男が驚いた顔をした。


「君の部屋に? 驚いたな。いいのかい?」


 私はリビングを出て階段を上がる。男が付いてくる。


「ここよ」


 私が示した部屋のドアを開け、男が中へ入る。ベッドと本棚、そして小さな丸いテーブルがあるだけの殺風景な部屋。男が興味深げに見回している。


「君らしい質素な部屋だね、その、何と言うか、まるで人が住んでいないような……」


 想像通りの感想。私はテーブルの前に座る。男も向かい合って座る。テーブルの上には水筒とコップがひとつ。


「お喋りしたら喉が渇いたわ。飲まない?」

「ああ、そう言われれば何か飲みたいな。水筒の中身は熱いお茶、それともコーヒー?」

「ただの水よ」


 男は苦笑いすると水筒の蓋を開けて、コップと蓋に中身を注いだ。コップを私に差し出し、自分は蓋を持つと、いつも通りの陽気な声で言った。


「では、我ら二人の為に乾杯!」


 何の迷いもなく飲み干す男。終わった。これで何もかも終わるのだわ。それは同時に私たち二人の新たな出発。



 男の最後の日記


 私は計画を立てた。まずは盛大に豪華な花束。そしてありったけの美辞麗句を並べた手紙だ。もちろんそれらは彼女への求婚のための小道具だ。奇をてらったサプライズなど必要ないだろう。何事もストレートで単純なやり方が一番だ。

 準備が整えば車のトランクに入れ、彼女を誘ってドライブに行く。その後、家まで彼女を送り、母親に会い、花束と手紙を差し出し、彼女にプロポーズする。うん、計画に抜かりはないな。

 結果がどうなろうとも悔いはない。いや、拒絶されるはずがない。必ずうまくいくはずだ。

 私の容貌も経歴も他の男と遜色はない。両親は賛成してくれている。資産は遊んで暮らせるほど持っている。そして何より彼女に対する想いは、どんな男よりも大きく熱い。

 自信を持て! 自分を信じろ! 二人の新たなる出発に挑戦するのだ!





 テーブルの下に崩れ落ちる男。どうして簡単に口に出来たのかしら。それはあなたと初めて会った、あの時の水筒なのに。何の迷いもなく飲み干してしまうなんて。でも、これであなたはあなたの人生から解放されたのね。

 あの日、あなたは私とドライブに出掛けた。少し浮かれていたのでしょうね。あるいは興奮して眠れなかったのかしら、運転が乱暴だったわ。海沿いのカーブが続く道で、あなたは、はみ出してきた対向車を避けようとハンドルを切り過ぎて、ガードレールを突き破った。車は転落、大破して炎上。私は死んだ。あなたは奇跡的に助かった。でも後遺症が残った。

 更新されない記憶。あなたの記憶はプロポーズに出掛ける朝で止まってしまった。一日経てばあなたの記憶はその日の朝に戻る。あなたは何度もその日を繰り返す。何度も私に求婚する。まるで砂浜に波が押し寄せては引いていくように、何度も何度も。


「そして、あなたには私が見えていた」


 母にすら見えない私の姿も声も、あなたは捉えることが出来た。それは、あなたに自分の状況を理解させる大きな妨げになった。最初は私もあなたに合わせてあげた。でも、何度も繰り返すうちに、そんなお芝居は私の中で大きな負担になっていった。

 死んでしまった私のことなど早く忘れて欲しい。あなたに本当のことを話したこともあったわね、私は死んだのだと。けれどもあなたはそれを信じようとはしなかった。無理もないわ。姿も声も感じられるのですもの。

 そう、だから、もうこの方法しかなかったの。私があなたの世界に行けないのなら、あなたに私の世界へ来てもらうしかないのだわ。やがて母がこの部屋に来て、死んでいるあなたを見付けるでしょう。後遺症を悲観しての自殺、世間はそう考えるでしょうね。本当は私が殺したのに……


「違うよ」


 声が聞こえる。完全に絶命してしまった男の声。


「気付いていたよ、毒が入っていることくらい。知っていて飲み干したんだ」


 あなたの明るい声。変わらない楽観主義。私は困惑した。


「どういうこと? 私が死んでいるって分かっていたの? あれだけ説明しても信じてくれなかったのに」

「その水筒だよ。君とボクを結び付けた運命のアイテム。それを見た時、全ての記憶が蘇った。君は死に、ボクが生き残ったことも」

「それなら、どうして飲み干したりしたの。私は死んでいるのよ。あなたまで死ぬ必要がどこにあるの」

「そうだね。君は死んだ。緊張しすぎたボクの運転のせいで。ボクが君を殺したんだ。だから、ボクは君に殺されようと思った」

「そんな……」

「言ったろう、ずっと君と一緒に居て、もっと君のことを知りたいって。あれは嘘じゃないんだよ。たとえボクが死んでしまうことになったとしてもね」


 明るく無邪気な男の顔が、私の間近に迫って来た。


「受けてくれるね、命を懸けたボクのプロポーズを」


 私は小さく頷いた。喜びに満ち溢れた男の表情を見ていると、私まで嬉しくなる。

 窓が開かれた。私は男に抱かれてその窓から舞い上がった。月明かりが私たちを包む。

 窓に誰かが見える。母だ。穏やかな表情。きっと男の死体を見付けて、全てが終わったと悟ったのだろう。目元を濡らしながら、それでも安堵に満ちた顔で、旅立つ私たち二人を見送るように、窓辺の母は星空を見上げていた。




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