消しゴム(二千字)(学園)
彼は歩いていました、地平線の近くを漂う太陽の薄光を浴びながら。時計も方位磁石も持っていなかったので、浴びている陽光が沈みゆく太陽の放つ黄昏なのか、昇りくる太陽の放つ暁光なのか、彼には分かりませんでした。
逆光になった松の木の影が歩いている道に続いていました。海沿いに植えられた防風林なのか、川の堤防に植えられた松並木なのか、彼には分かりませんでした。
遠くからは複数の鳴き声が聞こえてきました。ねぐらに帰り遅れた海猫たちが鳴いているのか、腹を空かせた山猫たちが威嚇しあっているのか、彼には分かりませんでした。
彼に分かるのは見知らぬ場所を、判然とせぬ時刻に、着慣れた高校の制服を着て、どこへ行くとも知れず歩いている自分自身だけでした。
「ボクはどこへ行くんだろう」
そうつぶやいた彼は、それが日常、自分の頭を占めている考えと同じだと気付きました。目的地を知らぬまま歩いている今の彼は、いつも通学し授業を受け帰宅する彼と、何ら異なる点はなかったのです。
「あら、こんにちは。それとも、こんばんは、かしら」
誰かが声を掛けてきました。それは彼の高校のクラスメートでした。やはり制服を着ています。
「一緒に行きましょうか」
彼女はそう言うと、横に並んで歩き始めました。そんな彼女の存在に彼は違和感を覚えました。これまで、ほとんど口を利いたこともない、隣の席の女子生徒。でも、彼女は……
「そうだ、君は死んだんじゃなかったっけ。確か一週間くらい前に」
「そうね。お葬式も来てくれたわよね」
「死んだ君と一緒に居るってことは、つまり、ボクも死んだってことなのか」
「そうとも限らないわ。生きているあなたと一緒に居るってことは、つまり、私が生き返ったってことかもしれないじゃない」
「それはあり得ないよ。だって人は必ず死ぬし、死んだら生き返ることはないんだから」
「どうして、そう言えるの。あなた、それを証明できるの?」
「これまで死ななかった人は居ないし、生き返った人も居ない。不可能なのは明らかだよ」
「それじゃ完璧な証明とは言えないわ。三角形の内角の和が百八十度であることを証明するのに、『ボクは千個の三角形を調べましたが、全て百八十度でした。一万個の三角形でも同様でした。百八十度でない三角形を見たことはありません。ゆえに三角形の内角の和は百八十度です』なんて証明が許されると思う? これまで居なかったという事実は、今も、そしてこれからもずっと居ないことの理由にはならないはずよ。人は必ず死ぬとか決して生き返らないとか、あなたが勝手に思い込んでいるだけなのじゃないの?」
彼女の饒舌に彼は少し驚きました。いつのも寡黙な姿とは別人のように思われたのです。
「なら、君は生き返ったのかい?」
「さあ、どうかしら」
それから二人は言葉も交わさず歩き続けました。太陽は地平線を漂い続け、それ以上沈む気も昇る気もないように見えました。
「これは、現実じゃなく、夢なんじゃないかな」
「そう? なぜそう思うの?」
「君とボクは隣の席同士ってだけで、これまで何の関係もなかったのに、こうして一緒に歩いているんだから」
「それも、あなたの思い込みじゃない?」
彼女は不意に立ち止まると、彼の手を掴み、何かを握らせました。見ると、それは消しゴム、どこか見覚えのある消しゴムでした。
「この消しゴム、半分だね」
「上着のポケットを探ってごらんなさい」
彼女に言われるままに、彼は制服のポケットに手を入れました。何かが触れました。取り出してみると消しゴムでした。
「ホラ、あなたと私が全然関係ない、なんてことはなかったでしょ。二人ともこうして消しゴムの片割れを持っていたのだから」
二つの消しゴムをぴったりと合わせて、彼はつぶやきました。
「まるで、存在していないみたいだ」
「存在していない? 何が?」
「ほとんど喋ったこともなかった君と、こうして話している自分が……」
机に顔を伏せて居眠りしている彼の背中を誰かが叩いています。目を覚まして顔を上げた彼は、更に頭を叩かれました。
「いつまで昼食後の惰眠を貪っているのよ。もうすぐお昼休みが終わるわよ」
それは一週間前に学校を去った彼女の、一番親しくしていた友人でした。彼は迷惑そうな顔をして大きな欠伸をしました。
「はい、これ」
彼女の友人が差し出したのは消しゴム、それも半分に切られた消しゴムでした。
「これは?」
「彼女に頼まれていたのよ。あんたに返して欲しいって」
どこかで見覚えがある、そう感じた彼の脳裏に二週間ほど前の出来事が蘇りました。美術の時間、向き合って互いの顔をデッサンしている時に、彼女の使っている消しゴムがひどく小さく、苦労して消している姿が気の毒で、彼は自分の消しゴムを半分に切って渡したのでした。驚いた顔をした彼女が「後で返すね」と言っても、彼は首を横に振って、そのままになっていたのでした。
「あの時の消しゴムか」
「この学校を去る前日に言われたのよ。一週間後の今日の昼休みに、あんたに返して欲しいって。あたしは彼女が翌日には居なくなるなんて知らなかったから、自分で返せばって言ったんだけど。どうしてもって言われて引き受けたのよ。ねえ、彼女、この消しゴムで何をしていたか、知ってる?」
彼が「知らない」と答えると、彼女の友人は顔を近付けて小声で言いました。
「あんたを消していたのよ。自分のノートにあんたの名前を書いて、消して、書いて、消して、書いて、消して。まるでこの世から居なくなって欲しいと思っているみたいに」
彼女の友人はそれだけ言うと、自分の席に戻りました。やがて午後の授業が始まり、彼は自分のノートを開きました。そのページの片隅には彼女が――消しゴムで消された彼女の名前の跡が、薄らと残っていました。そうして、彼は自分もまた、彼女と同じことをしていたのだと気付いたのでした。二週間前に彼女の名前を書き、この消しゴムで消したのです。
「彼女を消したのは、ボク自身だったのか。そして、ボクもまた彼女に……」




