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朝雲暮雨(五千字)(思い出話)

 

 雨か。秋の夜の雨ほど侘しいものはないんじゃないかな。吹雪のような冷酷さも、スコールのような激しさもない。肌に触れた雨粒がじわじわと内側に染み込んで、微かに燃えていたはずの意欲を知らぬ間に燃えカスのような怠惰へと変えてしまう。やり切れねえな。


 こんな夜は思い出話でもするか。よかったら聞いてくれよ。


 そうだな、あれは今日みたいな雨の夜だった。街の灯が雨粒に乱反射して、俺はちょっとした眩暈を感じながら、一人で通りを歩いていた。そう、一人で。だけど、通りを歩いているのは俺一人だけじゃない。やっぱり都会だな。こんな雨の夜でも傘を差して大勢の人間が歩いていく。だがそいつらは俺とは無関係の奴らばかりだ。無関係なら俺にとっては存在しないのと同じ。ただの動き回る障害物に過ぎない。つまり、この街を歩いているのは俺一人だけなのさ。それらの邪魔っけな移動体を避けながら、俺は夜の街を一人で歩いていた。


「ん、何だ、ありゃ」


 思わず声を出しちまったよ。道端に何かが転がっていたんだ。まあ都会だから、「トンでもない、嘘だろ、あり得ねえ」って叫びたくなるモノはあっちこっちでよく見掛けるから、道端に何かが転がっていたとしても、別段驚きはしないのだが、よく見るとそれは人間、しかも女、しかもなかなかの美女風お姉さん、ときたもんだ。ここに至って、それまでこの街で俺一人だけだった人間という存在が、その女も含めて二人になっちまったわけだ。これは放ってはおけないだろう。


「おい、どうしたんだ。びしょ濡れだぞ。風邪ひくぞ」


 声を掛けたが返事がない。体育座りをして両手で抱えた両膝の間に顔を埋めたまま、女は何の反応も示さない。寝ているのか気を失っているのかとっくに昇天してしまったのか、いや、それよりなにより、他の通行人がどうしてこの女に構わずにいられるのか、それが一番の不思議だ。まさか俺がこの女の発見者第一号ってわけでもないだろうに。俺はしゃがみこむと、女の肩を揺さぶった。


「おい、風邪をひくだけじゃなく、このままじゃ悪い奴らにひどい目に遭わされるぞ。起きろ」

「うーん、なによ」


 女が顔を上げた。想像通りの別嬪さんだ。思わず伸びてしまった鼻の下に力を入れて、俺はあくまで親切なお兄さん風に説教を続ける。


「なによじゃないだろ。君みたいな若い女がこんな時間にこんな場所でこんな事をしていたら危ないって言ってんだよ。ホラ、いつまでも座ってないで家に帰りな」


 女は酒に酔ったようなトロンとした目で俺を見上げている。俺の言葉を理解しているんだかいないんだか、どうにも判別がつかないが、とにかく女の返事を待つ。こちらが恥ずかしくなるくらい色っぽい目が俺を凝視した後、更に色っぽい声が聞こえてきた。


「家は遠いのよ。今日はもう帰れない。どこかに泊まりたいなあ。ねえ、あんたの家に泊めてよ」


 な、なんだ、この安物のラノベみたいな展開は。出来過ぎだろう。いや、待て。こんなに簡単に話が進むのはおかしい。もしかして悪い奴らにひどい目に遭いそうになっているのは、この女じゃなく俺自身なんじゃないのか。この女、俺を騙す気かもしれないぞ。ここは用心した方がいいだろう。


「ああ悪い。生憎、俺の家は狭いんでな。泊めるのは無理だ。とにかく、早く帰んな」

「あら、そう。じゃあ、私を泊めてくれる人が現れるまでこうして居ようっと」


 女は座ったまま立ち上がろうとしない。どうする、このまま見捨てていくか、敢えて火中の栗を拾うか。くそ、この女の容姿がもう少し俺の好みから外れていれば、迷うこともないんだが。


「あーあ、誰か来ないかしら。簡単に付いて行っちゃうのになあ」


 俺は動けない。迷い続けている。結論が出ない。結論……そうだ、このまま立ち去って、この女の結論を見届けないままじゃ、最終章を読まない小説と同じじゃないか。どんなバッドエンドでも結論を読まずに途中で小説を投げ出したんじゃ、一生悔いが残るに違いない。俺は決めた。


 *  *  *


 俺の住まいは安い五階建て賃貸マンションのワンルーム。その玄関にびしょ濡れの女と一緒に立っている。そうだよ、連れてきちまったよ。一緒に歩いている間、色々質問したが、満足な答えは返ってこなかった。駅から徒歩二十分、女と出会って徒歩十分の雨の中を歩いて帰宅した俺は、いつもの二倍くらいの重力をクタクタの体に感じていた。


「とにかく風呂に入れよ。着替えは俺のを貸してやるから」

「お風呂、いいわね。でも着替えは要らない。あたしは濡れたままがいいの」

「いや、だからそれじゃ風邪をひくって、ここへ来るまでに何度も言っただろ」

「風邪なんてひかないわ。だって私、いつでも濡れているのだもの」

「いつでもってなんだよ。君は海の中に住んでいる人魚姫とでもいうのかい」

「うーん、惜しい。海じゃなくて雨の中よ」

「雨の中? なんだよそれ」

「私は雨の中に住む女。人間なんかじゃない、雨女なのよ」


 あちゃー、やっちまったよ。電波さんでしたか。こりゃトンデモない女と関わっちまったもんだ。こういう場合、頭ごなしに否定するのはよくないだろう。取り敢えず、話を合わせて、会話を重ね、矛盾点を見つけ出し、相手を糾弾する、うん、この戦法だ。まずは下手に出て様子を見るか。


「そうですか、雨女さんでしたか。それじゃビショビショなのも已むを得ませんね」

「そうよ、止むを得ないのよ」


 いや、雨が止むって意味じゃないんですけど。まあ、いいや。ここでツッコンでも仕方ないし。


「えっと、俺、体が冷えたので風呂に入って熱いハーブティーなんかを飲みたいんだけど、雨女さんはどうするのかな」

「私はベランダで雨に当たっているわ」


 自称雨女は濡れたままワンルームを横切り、安っぽいサッシの戸を開けて外に出た。俺はもう止める気力もない。この冷えた体と心に、一刻でも早く温もりを与えたいものだ。そこでひとまず電波な雨女のことは頭の隅に追いやって、いつも通りに風呂に浸かり、湯を沸かしてノンカフェインのハーブティーを作り、一週間かけてチビチビと食べている貰いものの高級輸入ハムとチーズをつまみながら、パソコンに繋げた外部スピーカーから流れてくるお気に入りの楽曲に包まれると、ようやく人心地が着いた俺は、あの自称雨女のことを気に掛ける余裕が出来た。


「おい、そろそろ中に入らないか」


 声を掛ける。返事がない。聞こえないのかな。少し心配になってベランダに出ると、女は手すりにもたれて眼下に広がる雄大な秋の夜の都会の風景を眺めていた。と言っても、二階からの眺めなので、かなりしょぼい雄大だ。


「部屋に戻ってもいいの? 私、ビショビショだから、床も椅子もビショビショになっちゃうわよ」

「覚悟の上で連れて来たんだ。それが嫌なら部屋に上げたりなんかしない。いいから入れよ」

「そう、それじゃ遠慮なく」


 女は平然と部屋に戻った。俺は新品のゴミ袋を何枚か出し、床の上に敷いた。防水性のある敷物と言えば、それくらいしかなかったのだ。濡れるのは覚悟していると言ってはみたが、一応、それなりの対策は施しておきたいと思うのが人情というものだろう。女もこちらの意図を察したようで、素直にその上に座る。

 これで尋問の準備は完了だ。こちらはハーブティーのおかげですっかり頭が冴え返っている。ここも下手に出て、親切口調で訊いてみよう。


「えー、さて、雨女さん。少し質問してもいいかな」

「いいわよ」

「君はどこから、何をしにこの街に来たのかな。そしてどうしてあんな所で体育座りをしていたのかな。この雨は君が降らせたのかな。これからどうするつもりなのかな」


 立て続けに疑問をぶつける。先制攻撃は派手な方がいい。


「ちっとも少しじゃない質問ね。でもいいわ。親切にしてくれたお礼に、全部答えてあげる。この雨は私が降らせたのよ。夕暮れの私は雨になる。北の遠い場所から雨となってこの街に来たのよ。勿論人間の地図になんか載っていないから、地名を言ったところで誰にも分からないでしょうけれど」


 ううむ、ツッコミ所が見当たらない。ファンタジー要素が絡むとどうしようもなくなるな。


「で、その人間ならざる雨女が、わざわざこの街に来た目的は?」

「それは、男と寝るため」

「寝るため!」


 寝るためって、もしかして十八禁的な寝るって意味? それはまずいよ。俺の思い出話は一応中学生も安心して読める内容なんだから。


「えっと、ああ、そうか。そのような職業を生業にしている女である、と、君はそう言いたいのだね」

「職業!? 失礼ね。お金なんか取らないわよ。取るのは……そうね、いわゆる、生気」


 一瞬、精●と聞き間違えたのだが、そこは俺の理性が素早く修正してくれた。


「せ、生気を取るって、それって、雪女的な感じなのか」

「あら、良い例えじゃない。そうよ。雨女は人間の男と寝ると若返るの。最近、ちょっと老けてきたから若返ろうと思ってね、こうしてわざわざやって来たってわけ。どう、これで全て納得できた?」


 う~ん、話の辻褄は合っているが、だからと言って真実を語っているとは到底断言できない。やはり単なる妄想女なのではないか。


「えっと、それじゃ、君と寝た男はどうなるんだ。生気を取られるってことは……」

「ふふっ、どうなるのかしら」


 床に座った雨女の両目が、ソファーに身を沈めている俺の顔を見上げた。最初に見た時と同じ妖艶な輝きに満ちた光を放ちながら。


「あなたも試してみる? そのつもりで私をここに連れてきたのでしょう」


 俺の背中がゾクリとした。確かに下心はあった。その点については言い逃れは出来ない。だが、女と言葉を交わし、女の内面が分かった今、その下心は雲散霧消してしまっていた。雪女のような妖怪ではないにしても、尋常な人間の女とも思えない。俺は首を振った。


「いや、いい。遠慮しておくよ」

「でしょうね。あーあ、最近のこの国の男は本当にダメね。草食系って言うらしいじゃない。これじゃ私も、いつまで若返りが可能か知れたものじゃないわ」

「それで、君はこれからどうするつもりなんだい」

「私は朝になれば雲になる。雲になって新しい街に行くか、今回は諦めて私の場所に戻るか……どうやら後者になりそうね」


 朝雲暮雨、逢引きを意味する言葉か。こんな熟語を知っているのなら、それほど愚かな女でもなさそうだ。きっと自分を雨女に見立てた、ちょっと寂しい肉食系女子なのだろう。まあ、これ以上ツッコムのも可哀相だ。


「わかった。とにかく、今晩は泊めてやるよ。風呂に入るなり毛布に包まるなりして眠ればいい。なんなら俺のベッドを貸してやってもいいが」

「言ったでしょう。私は雨女だって。お風呂も毛布もベッドも不要。私と寝ないんならもう放っておいて。あなたも好きに寝なさいよ」


 女はそう言うとまた安物のサッシ戸を開けてベランダに出てしまった。強情な女だ。このままじゃ本当に風邪をひいてしまうぞ。ここは無理やりにでも風呂に入れて、濡れた服を着替えさせるべきか……


「いや、やめておこう」


 俺はここまでもう十分に親切にしている。これ以上の親切は有難迷惑かもしれない。そう考えた俺は頭の中から雨女を追い出して、灯りを消し、ベッドに横になると眠りに就いた。女が部屋に戻って来るかと思ったが、その気配はなかった。


 *  *  *


 翌朝、雨は止んでいた。しかし晴れてはいなかった。空一面、灰色の雲に覆われていた。

 女は居なくなっていた。床に敷いたビショビショのゴミ袋や玄関の水溜りなどが、あの奇妙な女の記憶を留めていた。


「夕暮れは雨になり、朝明けは雲になる、か」


 本当に雲となって去ったのか、風邪をひいて医者に行ったのか、腹が減ってビショビショのまま牛丼屋に行ったのか、その後の女の行方は分からない。雨の日に通りを歩いてもあの女に会うことは二度となかった。この国の男に見切りをつけて、外国まで出張している可能性も無きにしも非ず、だ。英語なら、レイン・ブリンガー。干ばつに苦しむ人々には喜ばれることだろう。ただし、その見返りに生気を差し出せねばならないが……





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