戻らぬ鮭(四千字)(童話)
秋は食べ物が美味しい季節ですね。茄子が美味しいです。栗が美味しいです。それから秋刀魚も大変美味しくいただけます。食べられる方にとっては秋なんてたまったものじゃない季節でしょうが、食べる方にとっては思わず頬が緩んでしまうのが秋なのです。
四季のある場所なら秋は必ずやってきます。とある海にも秋が来ました。その海には、気の毒にも我々人間に食べられる方に属する生物が一匹いました。
秋鮭君です。
鮭は子供の頃は川で過ごし、大きくなると海で過ごし、成熟して卵を産みたくなると、また川に戻っていくのです。実は、この秋鮭君、こういった鮭たちの行動に大変な疑問を抱いていたのです。
「なんだよ、何で卵産むだけの為に、わざわざ川に戻らなくちゃいけねえんだよ。面倒くせえ。しかも聞くところによると、産卵行動の後は一匹の例外もなく命を落とすって話じゃねえか。馬鹿だよ。死にに行くのと同じじゃないか。でかい魚に食われないように逃げ回って、せっかくここまで立派な鮭になったのに、死ぬ為に自分で川に戻るなんて、アホらしい事この上ないぜ。俺はそんなことはしない。一生、海に留まって、自由気ままに生きてやるんだ」
まあ、この秋鮭君の言い分ももっともですね。人間でも、責任を負わされる社会人になるのが嫌で、敢えて日陰の道を歩む方々も沢山いるわけですから。
そんな秋鮭君を見て、周りの鮭たちは一応説得を試みたようです。同じ川で生まれて一緒に大きくなった幼馴染鮭君や、大海原を回遊するうちに知り合った紅娘鮭ちゃんなど、秋鮭君のお友達は考えを改めるように言い寄りました。
「なあ、考え直せよ。川に戻らない鮭なんて、端午の節句に竿に括り付けられず、一年中、押入れの中に入れっぱなしになっている鯉のぼりと同じで、生存意義が皆無に等しい存在じゃないか」
「川に戻って産卵行動をすれば、その存在さえなくなっちまうんだ。意義がなくても生存しているほうがよっぽどマシだぜ」
「ねえ、一緒に川に行きましょうよ。あたし、あ、あなたと一緒に、その、あの、卵を……ポッ!」
「悪いな、紅娘鮭ちゃん、俺がこんな甲斐性のない男で。お前には俺なんかよりもっと相応しい男がいるはずさ。この海での出来事はソーダ水のあぶくが消えちまうみたいに、きれいさっぱり忘れておくれ」
と、彼らの説得も空しく、秋鮭君は自分の決心を翻そうとはしませんでした。仕方なく、仲間の鮭たちは秋鮭君を海に残して、川に戻って行ったのです。
「ふっ、これで俺もひとりぼっちか。せいせいすらあ。これからは自分のことだけを考えて生きていくのさ」
こうして秋鮭君は冬鮭になり春鮭になり夏鮭になって、広い大海原の中で何度も四季を繰り返しました。当然、老います。産卵行動をすれば死にますが、しなかったからと言って死なないわけじゃないですからね。今では体全体がブナの木のようなまだら模様に覆われ、銀色だっだ鱗には水カビが生えて、もう、何の魚か分からないくらいに、すっかりボロボロになってしまいました。
「ゴホゴホ。好き勝手に生きてきたけど、俺もそろそろ年貢の納め時か。さて、どこで死ぬかな」
こうして死が自分の身近に迫り、それでも自分の居場所を見つけられぬままだった秋鮭君は、不意に故郷が懐かしくなりました。塩水とは違う爽やかな淡水の肌触り。水藻の香り。水面に映る山々の紅葉。全てはとっくの昔に捨ててしまったはずのモノでした。なのに、今、それらが恋しくて堪らなくなってしまったのです。そうして秋鮭君はいつの間にか生まれ故郷の川の河口付近に来ていました。
「ふ、ふん。別に川が懐かしくて来たんじゃないんだぜ。鱗に生えちまった、いまいましい水カビを退治するには、塩水よりも淡水の方が治りが早いって聞いたからさ」
なんて独り言を言いながら、秋鮭君は川の遡上を開始しました。ところが何という事でしょう。遡れないのです。どんなに頑張っても川の流れに押し戻され、秋鮭君は同じ場所で力なく尾びれを揺り動かすばかりです。
「ふっ、俺も老いたな」
自嘲気味につぶやく秋鮭君。そんな彼に声を掛ける者がいました。
「あれ、もしや、あなたは秋鮭さんじゃありませんか」
声を掛けて来たのは、若くてピチピチの鮭です。秋鮭君はその鮭を眺めました。初めて見る鮭です。しかし、どこかで見たような気もします。ずっと昔、いつも一緒にいた、懐かしいこの姿……
「ま、まさか、お前……」
「そうですよ。秋鮭さんの親友だった幼馴染鮭はボクの父。紅娘鮭はボクの母です。こんな所で会えるなんてまるで夢みたいです。これも運命なのですね」
秋鮭君は驚きました。若鮭君の言葉通り、不思議な巡り合わせの妙を感じずにはいられませんでした。
「えっと、失礼なお尋ねかもしれないですけど、もしかして、秋鮭さん、川に戻ろうとしているのですか?」
図星を突かれて秋鮭君は動揺しました。
「ん、ああ、まあな。いやなに、鱗に生えた水カビは淡水の方が治りが早いって聞いたんでな」
「丁度よかった。ボクたちもこれから卵を産みに川に戻るところなのです。よかったらご一緒しませんか」
「そ、そうか。そうまで言うなら一緒に行ってやるかな」
若鮭君は仲間を呼ぶとみんなで秋鮭君の体を取り囲みました。こうして鮭たちに手助けをしてもらいながら、秋鮭君は川を遡り始めました。変わっていく景色、水の匂い、流れの肌触り。秋鮭君の心は次第に穏やかになって行きました。
「両親はあなたのことをずっと気に掛けていましたよ」
川を泳ぎながら若鮭君は生まれた頃の話をしました。卵から孵化した時、父も母もまだ生きていたこと。親友の秋鮭君が心配で、自分たちの子供にそれを伝えるために、頑張って命を保っていたこと。
「我が子供たちよ。もし海に行って親友の秋鮭に会ったら、力を貸してやって欲しい。そして出来るなら、この川に連れてきてやってくれ」
こう言い残して両親は息絶えたそうです。その話を聞いて秋鮭君は二匹の友情に今更ながらに感謝しました。
鮭たちは川の上流を目指しました。秋鮭君の体はすっかり衰えていました。もう若鮭君たちに手助けしてもらっても、泳ぐのが困難なほどでした。
「おい、若鮭、すまねえが、俺はここでしばらく休むことにするよ。お前たちは先に行ってくれ」
「えっ、でも、こんな場所に置いていくのは……」
「別に産卵場所へ行くのが目的じゃねえんだ。水カビ退治はここでも十分ってことさ。お前たちこそ、俺の為に力を使っちまったら、卵を産めなくなっちまうだろう。さあ、行ってくれ」
「……そうですか。わかりました。秋鮭さん、ここまでご一緒出来て本当に嬉しかったです」
これ以上迷惑を掛けたくない、そんな秋鮭君の気持ちは若鮭君たちにも理解できました。流れの淀んだ岩陰に秋鮭君の体を横たえると、若鮭君たちは上流を目指しました。
「ふっ、またひとりか。俺にはお似合いの最期だな」
秋鮭君は遠ざかっていく若鮭君たちの後姿を眺めていました。勢いよく、水しぶきを跳ね上げながら、川の上流を目指していきます。
「あいつら、死ぬとわかっていながら、どうしてあんなに元気で生き生きとしていられるんだろう」
その姿は昔別れた親友、幼馴染鮭君と紅娘鮭ちゃんの姿と重なりました。あの二匹も喜々として、死出の旅である川の遡上を開始したのでした。秋鮭君は水の中から空を見上げました。秋晴れの澄んだ青空。それは海から見る空とは違う、木々や山や土に彩られた青空でした。自分の故郷、自分の生まれた場所、そして今、死のうとしている場所……
「そうか、俺は考え違いをしていたのか」
ひとつの考えが秋鮭君の頭に閃きました。雷に撃たれたかのような衝撃。これまでの自分を否定する思考。そう、鮭たちは卵を産んだから死ぬのではないのです。死ぬから卵を産むのです。
「俺たちは生まれた時から、死に場所を持っているんだ。他の生物のように、死に場所を求めて流離う必要はない。決められた死に場所。運命づけられた死に場所。その場所で天寿を全うするのが俺たち鮭にとって最大の幸福なんだ」
秋鮭君の体に喜びが満ち溢れてきました。そしてそれに気づかせてくれた幼馴染鮭君と紅娘鮭ちゃんの友情に、改めて深く感謝しました。
「幼馴染鮭、紅娘鮭、ありがとうよ」
死して尚、自分をここまで導いてくれた二匹に、秋鮭君はもう一度礼を言いました。もはや思い残すことは微塵もありません。秋鮭君は静かにその目を閉じました。やがてその体は岩陰から流れ出ると、海に向かって下って行きました。
それから秋鮭君がどうなったのかは分かりません。貪欲な人間が仕掛けた網に捕まったのか、冬眠前の腹を空かせた獣に襲われたのか、そのまま海まで流されてしまったのか。いづれにしても秋鮭君は幸福であったに違いありません。死ぬべき場所で死ねたのですからね。
そんな幸福な秋鮭君に想いを馳せながら、私たちも美味しい鮭料理をいただくことに致しましょう。今晩は西京焼きにしてみました。味噌の風味とパリパリの皮が絶妙のハーモニーでございます。では、召し上がれ。




