砂山(三千字)(恋愛)
十月の海辺は思ったより眩しかった。浜風は肌寒さを感じさせるのだが、照り付ける陽光は夏の日射しの強烈さをまだ隠し持っているようだった。
「長くいると日焼けしそうね。帽子を持ってくればよかったわ」
四才になる娘と手をつないで歩いている妻が、空を見上げてそう言った。私は二人と離れて閑散とした海水浴場を歩いていた。
十代の頃は毎年泳ぎに来ていた地元の海。就職してこの地を離れてからは、夏になっても来ることはなかった。こうしてこの砂浜に足跡を残すのは何年振りだろう、九年、いや十年振りか。
「ねえ、お母さんも手伝ってよ」
「いやよ、砂だらけになるから」
娘はしゃがみこんで砂山を作っている。砂を高く積み上げることの何が面白いのだろうと思いながら、私の頭の中に古い情景が浮かんだ。
それは高校二年の夏のことだ。当時、なんとなく気が合った同じクラスの男女六人でグループを作っていた。学校でも放課後でも、私たちは一緒に行動していた。夏休み、彼らと一緒にこの海水浴場に遊びに来たことがあった。
「ねえ、砂山、作らない」
一人の女子が私にそう声を掛けた。それは私が密かに好意を抱いていた女子だった。声を掛けられた私は少なからぬ動揺を覚えた。彼女は非常に無口で自分から何かを提案するようなことは、これまで一度もなかったからだ。よく見ると、夏の日射しの下でも、彼女の頬が紅潮しているのが分かった。きっと、ありったけの勇気を振り絞って、私に話し掛けてきたに違いない。
「え、うん、いいよ」
私の返事に彼女は嬉しそうに笑った。
それから他の仲間から離れた場所で、私たち二人は浜辺に砂山を作った。彼女の提案で山の中に貝殻を入れながら砂を積み上げていった。
「どうしてこんなに波打ち際に作るの? 今はボクらが波を防いでいるからいいけど、立ち上がったら波が来るよ」
「ここがいいの」
作っている場所の砂は濡れていた。寄せて来る波を体で防ぎながら、私たち二人は砂を固めた。最後に大きな巻貝を砂山の頂上に突き刺した。
「出来たね」
彼女は満足そうだった。私たち二人が立ち上がると、砂山は波に襲われた。しかしすぐには壊れなかった。波が届くギリギリの場所だったので、砂を削られながらも山はその形を留めている。
「ふたつ、みっつ……」
彼女はやって来る波を数えているようだった。そんな彼女と砂山を、私はぼんやりと眺めていた。
「いつつ、むっつ、あと一回」
その時、一際大きな波がやって来た。これまでとは比べ物にならないほど大きな波。砂浜で寝転んでいる海水浴客が驚くほど波は浜の上まで打ち寄せ、私たち二人の足を濡らし、その波が引いた後には、砂山はもう跡形もなくなっていた。
彼女は凍り付いたように砂山があった場所を見詰めていた。濡れた砂の上に転がっている、頂上に突き刺した巻貝だけが、かつてあった砂山の記憶をそこに留めていた。
「壊れちゃったね」
そう言葉を掛けても彼女は無言だった。俯いて、こちらに顔を向けようともしなかった。
「作った場所が悪かったんだよ。今度はもっと海から離れた場所に作ろうよ」
「ううん、もういいの」
そう言って、彼女は落ちている巻貝を拾った。その仕草がひどく寂しそうだった。私はどうすればいいか分からず、彼女をそこに残して仲間の元に戻った。彼女はいつまでも砂山があった場所に立ち尽くしていた。
それからも私たち六人は機会あるごとに一緒に行動したが、彼女だけは親密さが希薄になっていくような気がした。やがて三年になってクラスがバラバラになると、私たち六人が会うことはほとんどなくなった。受験勉強に追われて、彼女のことも私の頭から消え始めた。学校で時々擦れ違っても挨拶をする程度だった。卒業してからは一度も会っていない。
「あーん、壊れちゃったあ」
娘が叫んでいる。大きな波が娘の作った砂山に襲い掛かったのだ。
「もういいでしょ、行きましょう」
「やだ、もう一回作る」
娘は海から少し遠ざかった場所に、またしゃがみこんでいる。私が二人の元に戻ると、妻が言った。
「そう言えば、昔、浜辺の恋占いって流行ったのよ、知ってる?」
「いや、知らないな」
「片思いの男の子と一緒に砂山を作るの。波が来るギリギリの場所にね。砂山には七つの貝を入れて、頂上には必ず巻貝を立てる。そしてその砂山が七度の波に耐え抜いて巻貝を頂上から落とさなかったら、その恋は必ず実る。こんな占い、誰が考えたのかしらね」
妻は口の端で笑った。あるいは妻もまたこの占いをやったことがあるのかもしれなかった。
私はもう一度思い出した。砂山が崩れた時の彼女の落胆。今になってその意味をようやく知ることが出来た私は、少なからぬ後悔の念に襲われた。何故あの時、あの砂山の意味を彼女に尋ねなかったのだろう。あの時の彼女は確かに全てを諦めてしまっていた。
「そんな占い、本気にする子がいるんだろうか」
「どうでしょうね。多感な十代の女の子なら、結構、気にするんじゃない」
「砂山が崩れただけで、自分の想いを捨てるなんてことがあるかな」
「崩れた方がいいのよ。占いをすること自体、自分にも自分の恋心にも自信がないってことですもの。逆に砂山が崩れずに恋は叶うという結果になって、振り向ていくれるはずのない相手に、自分の時間と努力を消費させられる方がよっぽど悲惨よ」
「そんなものかな」
「そうよ。それに本気の恋なら、占いの結果がどうだろうと、諦めたりしないでしょう」
妻の言う通り、私も彼女もお互いに想いを抱きながら、それは本気ではなかったのだろう。だが、もし七回目の波があれほど大きくなかったら、もし巻貝が最後まで砂山の上に立っていたら、私と彼女はもっと違った関係になれていたのかもしれない。今、こうして私と話をしている相手は、別人だったのかもしれない。
「もし、今、君とボクが砂山を作って、それが壊れてしまったら、君はどうする?」
「どうもしないわ。砂山が壊れることと私たちの仲が壊れることは、全然無関係なんだから。そうでしょ」
妻らしい答えだった。私にも、あの時の彼女にも無い強さだった。そしてそれはその通りなのだろう。もし七回目の波に壊れないほど砂山が固く作られていたとしても、だからと言って、私と彼女の仲が固く結び付けられた保証はない。あの時の私も彼女も、直接、手を握り合うのではなく、間に砂山を介してしか、互いに触れ合うことが出来なかったのだから。
「ね、今度は上手に出来たよ」
娘が自慢げに言いながら、私のズボンの裾を引っ張った。富士山のような砂山が浜辺に盛り上がっている。
「おお、うまく作れたね。じゃあ最後に仕上げを」
私は浜辺を歩いて、それを探し出し、砂山の上に突き刺した。あの時と同じ形をした砂山。
「いつまでもこうして波に壊されないといいね」
無邪気な笑顔で娘はそう言った。それは冷えていた私の心には夏の太陽のようだった。既に新しい砂山は築かれているのだ。それをいつまでも守っていこう、娘の手をつなぎながら、私はそう思った。




