オイラと兄貴の安全保障(三千字)(自分語り)
はあはあ、駄目だ、もう走れねえ。オイラの命運もここらで尽きるのかもな。
「くそ、どこへ行きやがった。おい、お前はあっちを探せ」
声が聞こえてくる。何人で追いかけてんだ。しつこい奴らめ。
はあはあ、ちくしょう、どれだけ走っても振り切れやしねえ。もう膝も肺も心臓もガクガクだよ。
いいや、一旦休もう。ノソノソ走り回るより、同じ場所に隠れていた方が、案外、奴らも見逃しちまうかもしれないしな。
ああ、大の字に寝っ転がると気持ちがいいな。都会にしちゃキレイな星空じゃないか。田舎を思い出すぜ。
この街に出て来たのはもう何年前のことだったかな。あの時のオイラは馬鹿みたいにトンがっていて、ちょっとでも気に障ると、誰彼構わず、喧嘩を吹っ掛けていたっけな。
うん、オイラは強かった。喧嘩には自信があったんだ。田舎では一度も負けたことがなかったし、この街でもそうだった。それがいけなかったんだな。すっかりいい気になっているオイラに忠告してくれた恩人を逆恨みして、オイラはいきなり襲い掛かった。それこそ奇襲と言ってもいいくらいだ。
初めはいつも通りさ。相手は簡単にぶっ倒れた。オイラはすっかり油断していた。奇襲は一撃必殺でなくちゃ意味がねえ。そうさ、相手は起き上がってきた。それからはまるでサンドバックさ。コテンパンにやられちまった。それこそ死をも覚悟したくらいにな。だが、相手は一味違っていた。
「技も武器も持たない素人にしちゃ、やるじゃないか。おい、お前、俺の弟になれよ」
そうだよ、それが兄貴さ。すげえだろう。奇襲を仕掛けた相手を簡単に赦しちまうんだぜ。すっかり惚れちまった。オイラはもっと強くなると言った。だが、兄貴はこう言うんだ。
「いいよ、お前は強くなる必要はない。俺がお前を守ってやる。俺の傘の下で、お前は自分の稼業に精を出しな」
オイラはその頃、この街で小さなうどん屋を始めていたんだ。田舎の実家もうどん屋で、小さいころから毎日手伝いをしていたから、腕には自信があった。兄貴はオイラの店に足を運んで、色々と世話を焼いてくれたさ。
「うどんにしちゃ、値段が高いな。小麦は? こんなのを使っているのか。そりゃ駄目だぜ。この街は薄利多売が基本だ。よし、小麦は俺が調達してやる」
兄貴の忠告に従って、オイラはこれまでの自前の仕入れルートを全部断ってしまった。それくらい信頼の置ける男だったんだよ、兄貴は。
店にゴロツキが来ても、兄貴の息の掛かった店だと知ると、みんな大人しくなった。おかげで、オイラは見ず知らずのこの街でも、安心して金を稼ぐ事が出来た。全部、兄貴のおかげだ。
数年も経たないうちに、二軒目の店を持つことも出来た。全てが順風満帆。兄貴の傘の下に居れば、何も怖くない。オイラはすっかり天狗になっていたさ。
「なあ、ちょっと話があるんだがな」
ある日、兄貴が真剣な顔でこう言ってきた。オイラは何事かと思って兄貴を見上げたさ。
「俺はこれまでお前を守ってきた。けれども、お前だっていつまでも甘えていては一人前とは言えないだろう。そこで相談だ。これからは俺が困った時には、お前も俺を助けて欲しいんだ。お前の店やお前自身に直接危害が及ばないような時にも、俺の為に全てを捨てて尽力して欲しいんだ。どうだ、引き受けてくれるか」
兄貴の話を聞いて、オイラは無性に情けなくなっちまった。そんな当たり前の事をわざわざ頼むなんて、水臭いにも程がある。オイラは二つ返事で引き受けた。当然だろう。兄貴が倒れれば、この店も倒れるんだ。オイラと兄貴は一蓮托生。兄貴が危機に陥れば、頼まれずとも助ける覚悟だ。オイラは何の迷いもなく兄貴の連帯保証人になってやったさ。
「感謝するぜ。言ってみりゃあ、これは、俺とお前の安全保障だな」
兄貴との絆が一層深くなった気がした。オイラは嬉しくて仕方なかった。
「おい、あそこに誰かいるんじゃないか」
ちっ、見つかったか。オイラは立ち上がると、素早く物陰に隠れた。息を潜めたオイラの前を二人の男が走り過ぎていく。まずいな。このままじゃ、見つかるのも時間の問題か。兄貴……兄貴は今頃どうしているんだろう。オイラは今でも兄貴の事を信じている。いや、信じていたいんだ。
あんなに強かった兄貴。この街では兄貴が法だった、兄貴が正義だった。どんないざこざも、兄貴の強さの前では沈黙せざるを得なかった。けれども、時代は変わっていく。金と力で相手をねじ伏せるやり方は、もう通用しなくなっていたんだ。
ちっぽけな蟻にたかられた巨象のように、兄貴の力は弱っていった。やがて兄貴からの小麦の供給がストップした。オイラの食材の自給率はゼロに等しい。もう店もやっていけない。同時に借金取りが押し掛けて来た。兄貴の借金だ。オイラは兄貴に助けを求めた。だが、兄貴の返事は冷たかった。
「悪いな、こっちもそれどころじゃないんだ。お前の問題はお前自身で解決してくれないか」
その時、オイラはようやく安全保障の意味がわかった。太く重い棒と、細く軽い棒が互いに支えあった時、最初に折れるのは細く軽い棒の方だ。もっと強くなっておくべきだった。だが、兄貴に頼り切っていたオイラは、いつまで経っても田舎にいた時と何も変わらない、弱っちい棒にすぎなかったんだ。
オイラは夜逃げ同然に店を捨てた。田舎には帰れない。既に手が回っているはずだ。行く当てはない。逃げ惑うだけだ。捕まればやられる。オイラには多額の生命保険が掛けられているんだ。事故と見せかけて命を奪い、保険金を借金返済に充てるくらいの事、奴らなら朝飯前だろうからな。
「いたぞ!」
足音が近づいてくる。オイラは物陰から出ると、路地を走った。とにかく最後まで抵抗してやる。こんな所で終わってたまるか。
「ぐふっ!」
背中に衝撃。地面に転がるオイラの体。
「手間、掛けさせやがって。オラ乗れ」
問答無用で車に押し込められる。ああ、捕まったか。人生なんてあっけないもんだ。
兄貴、オイラは兄貴を恨んでなんかいないぜ。でも、たったひとつだけ、言いたかったことがあるんだ。兄貴は常に正義だった。悪には力と金で立ち向かい、それを排除し続けていた。そうだ、それはまるで手術で悪いモノを全て取り除く、西洋医学のやり方だ。
でも、本当にそれは正しかったのか。どんなに悪くたって、自分の身体の一部なんだぜ。悪いものは悪いと認めて、それと付き合いながら養生した方が、幸せな人生を送れそうな気もするんだ。
全く悪の無い人間なんているだろうか。肉体にも心にも、人知れず悪を抱えているからこそ人間なんじゃないのか。そうだな、それを言えなかったのが、まあ、唯一の心残りってとこか。
「なんだ、震えているのか。安心しろよ。苦しみも痛みも感じずにあの世に送ってやるぜ」
車の窓から見える星空が、妙に懐かしくオイラの胸に染みた。
じゃあ、兄貴、お先に……




