カラス(三千字)(シリアス)
1
映画の後に公園に寄るのは、いつの間にか二人の習慣になっていた。
普段は会話しながら通り過ぎるだけの公園なのだが、今日は少し疲れていたのか、体を休めたかった。僕は彼女をベンチに誘った。
「映画の真似?」
「いや、そんなつもりじゃないけど」
忘れていた。確かに映画の中にそんなシーンがあった気がする。あるいは無意識のうちに、彼女の言葉通り、そのシーンを真似たのかもしれない。僕らは並んでベンチに座った。
「何か飲むかい?」
「要らない」
最近の彼女は素っ気なかった。本格的に付き合い始めて一年とちょっとで、もう倦怠期に入ってしまったようだ。
隣に座る彼女の横顔を眺める。真っ直ぐ何かを見ている。彼女の視線の先を見る。葉を落とした立木。茶色くなった芝生広場。そこを歩いている親子連れ。ありふれた公園の風景だった。彼女の注意を引くものは何もないように思われた。
「カラスがいるのよ」
僕の疑問を察知したように彼女は答えた。見れば、立木の枝に一羽のカラスがとまっている。
「本当だ。随分高い枝にとまっているね」
カラスは悪びれることなくこちらを見下ろしていた。僕ら二人が見詰めても逃げようともせず、不気味な黒さで羽を休めていた。
「あのカラスは私の全ての罪を知っているのよ。これまで犯した罪、そしてこれから犯す罪までも」
オーディンのカラスか、と僕は思った。今日見た映画は北欧神話をベースにしていた。最高神オーディンの下僕である二羽のカラス『思考』と『記憶』は、毎日世界を飛び回って、見聞きしたことを主に伝えている。彼女にもまだ映画の余韻が残っているのだろう。
「これまで犯した罪はわかっても、これから犯す罪なんてわからないだろう」
「そんなことないわ。運命は決まっているのだから。これから私が犯す罪だって知っているのよ」
「運命は変えられるよ」
「変えられないわ。たとえ明日、月曜日が来なかったとしても、明後日になれば火曜日がやって来る。月曜日が来たから火曜日が来るわけじゃないでしょう。火曜日が来ることは誰にも止められないわ」
「それは二つに因果関係がないからだよ。君が生まれなければ、今の君はなかった」
「生まれるというのはゼロ才の私が出現すること。ゼロ才の私が出現せずに二十才の私が出現したとして、どうしてそれが理不尽だと言える? いきなり二十才の私が出現して何がおかしいの?」
「君だけの問題じゃないよ。君を産んだ母親だって居るし、その前の先祖の存在だって関わってくるし」
「子と親の関係なんて、それこそ鶏と卵の話じゃない。鶏が結果で卵が原因なのか、卵が結果で鶏が原因なのか、堂々巡りよ。先祖も人類も地球も宇宙も、何が原因で出現したかなんて誰も知らないじゃない。ううん、その原因があるかどうかもわからない。この宇宙だって何の原因も理由もなく、いきなり出現したのかもしれない。だけどみんな平然とそれを受け入れている。それなら二十才の私が突然出現したとしても、何の不思議もないじゃない」
不毛な会話だと僕は思った。結論なんて出せるはずがないからだ。こんな風に彼女が理屈っぽくなるのは、その胸の中に何かを抱えている時が多かった。僕は彼女の肩に手を回してそっと引き寄せた。彼女は素直に従った。それでもその視線をカラスから外そうとはしなかった。
「君の犯した罪に対して与えられる罰も、カラスは知っているのかな」
「罰を与えるのはカラスの主人。そしてそれも、既に決まっているのだわ」
カラスは相変わらず僕らを見下ろしていた。ベンチから立ち上がり公園を出ても、カラスは飛び立とうとはしなかった。その後、僕らは僕のアパートへ行きひとつになった。僕の腕の中でも彼女は何かを見詰めていた。仄かな闇の中に漆黒のカラスを見るように、彼女の目は空虚だった。
2
次の休日はひとりで街に出た。「週末は田舎から家族が来るから行けない」それが彼女の返事だった。特に目的もなかった。狭いアパートに一人でいても仕方がない、その程度の理由で外に出た。
映画を観る気にもなれず、本屋で立ち読みをしたり、適当に飲み食いしたりして時間を潰し、夕刻が迫ってきた頃、電車に乗って僕のアパートのある駅に降りた。二人の姿が目に留まった。
「あれは……」
見間違いかと思った。しかし、女の服に見覚えがあった。彼女だった。一緒にいる男は高校三年の時の同級生。僕とも彼女とも同じクラスだったが、それ程親しくはなかった。大学も同じだったが、学部が違うので、入学以来一度も話したことがない。そんな二人がどうして一緒に……いや、そもそも彼女は「今日は田舎から家族が来る」と話していたはずなのに……
僕はそっと二人の後を付けた。声を掛けようかとも思ったが、困惑する彼女を見たくなかった。程なくして二人はスーパーへ入った。出口で待っている時間が妙に長く感じられた。仲良く袋を一つずつ持って出てくる二人。男に向ける彼女の笑顔が僕の胸を抉った。そんな表情はここ最近一度も見ていなかった。
彼女と男は住宅街の狭い路地を歩いていく。二人だけの会話を楽しみながら向かう先には、僕の住まいに似た学生向けのアパート。恐らくは男のアパートなのだろう。二人はその一室に消えていった。しばらく佇んだ後、僕は来た道を引き返した。
彼女は何も悪くなかった。この国では恋愛は自由である。僕と彼女は結婚も婚約していないのだから、彼女の行為は刑法上も民法上も条例にさえ違反していない。そして自分の恋愛を誰かに報告する義務も彼女にはないのだ。彼女には何の罪もない。
だが、そうやって自分を納得させようとすればするほど、僕の中には嫉妬の炎が広がっていった。今二人がしていること、そしてこれからするであろうこと、その情景を想像するだけで言い知れぬ憤怒が湧き上がってくるようだった。
幸福な二人、不幸な自分。その不平等さが僕の中の憎悪を更に大きくした。あの二人も僕と同じ不幸の中に突き落としたい、それが身勝手な考えであることは十分わかっていても、僕はそれを願わずにはいられなかった。
嫉妬と怒りと憎しみの炎が、僕の良心を焼き尽くすように広がり始めていた。誰の幸福も願ってはいなかった。僕もあの二人も共に不幸になればいい、もう自分には幸福になれる手段はないのだから。
夕陽はすっかり傾いていた。沈む太陽は最後の赤光を路地の上に投げかけている。僕はそこに砕けたガラスの破片を見つけた。割れて土に突き刺さったその鋭角の煌めきはナイフの刃そのものだった。その刃を赤い夕陽が染めている。血のように、胸を刺したナイフから滴り落ちる血のように、そのガラスは夕陽に塗れていた。そしてそれを握っている僕の右手もまた、赤く……
「はっ……」
僕は振り返った。それは街路樹の上に静かにとまっていた。黒い羽根に赤い夕陽を浴びて、黙って僕を見下ろしている一羽のカラス。それはあの日、公園で彼女と一緒に見た、最高神オーディンのカラスに違いなかった。
「あのカラスは僕の全ての罪を知っているんだ。これまで犯した罪、そしてこれから犯す罪までも……」