メダカの学校(四千字)(夏ホラー2015)
1
メダカたちは今日も元気です。水の中では子供メダカたちがお遊戯に励んでいました。
「さあさあ、みなさん。良いメダカの条件は上手に泳げることです。どんな流れの中でも自分を見失わずに泳げてこそ、一人前のメダカと言えるのです。お遊戯はそのための第一歩。では最初からいきますよ」
先生メダカの掛け声に合わせ、子供メダカたちは体を動かします。
「はい、上昇、下降。はい、右旋回、左旋回。ああ、こらこら、体がふらついていますよ。そこ、目を閉じない。ヒレは力を抜いて優雅にね。はい、では、もう一度。アップ、ダウン。はい、ライト、レフト」
子供メダカはワイワイ言いながら、体を動かしました。無駄口が多いのは仕方ありません。まだまだ幼いメダカですからね。こうして午前中は泳ぐ勉強で終わります。
午後からはお話を聞きます。最近の話題はすぐ近くに出来た人間の大きな施設についてでした。
「これがどんな施設なのかまだわかりません。皆さん、不用意に近付いてはいけませんよ」
「はーい!」
子供メダカたちの元気な声に先生メダカはにっこりと笑いました。みんな聞き分けの良い子ばかりです。こうして、その日の授業はそろそろ終わろうとしていました。その時、
「みんな、逃げろ。早く下流に逃げるんだ!」
大人のメダカが息急き切って教室の中に泳ぎ込んできました。みんな驚きましたが、先生メダカは冷静に対処します。
「落ち着いてください。一体、どうしたのです。何があったというのです」
「おかしくなったんだ、上流のメダカたちが。顔付きも行動も、あれはもうメダカじゃない。噂に聞く獰猛なピラニアと同じだ。メダカにも他の魚にも無分別に襲いかかる、齧り付く、言葉も通じない。そして噛みつかれたメダカは奴らと同じ魚になる。ぐずぐずするな。早く逃げるんだ。噛みつかれたらおしまいだ」
先生メダカはすぐには信じられませんでした。教室の子供メダカたちも同じです。何かの訓練ではないかと思う子もいました。
「でも、そんな事、今まで一度だって……」
「早く! 下流に逃げろ、このままでは、う、ぐぐ、ぐわあああー!」
大人メダカが突然苦しみ始めました。白目を剥き、ヒレで胸元をかきむしっています。先生メダカは大声を出しました。
「みなさん、すぐに教室を出なさい。運動場へ避難するのです!」
先生メダカの声を聞いて子供メダカたちは慌てて教室を出ていきました。全員が外に出たのを確認してから、先生メダカはもう一度、大人メダカの姿を見ました。ギロリと生気のない目、だらしなく開けた口、そこから見える牙。まるで死んだメダカが生き返りでもしたかのように、ノロノロとこちらに泳いできます。先生メダカは目を背けると、教室を、そして校舎を出て、運動場に集まっている子供メダカの元に泳ぎ寄りました。
「こ、これは……」
先生メダカは絶句しました。上流からたくさんのメダカが群れをなして泳いできます。そしてその更に上流には、恐ろしい姿となった異形のメダカたちが彼らを追って泳いでくるのです。
「先生、何が起こったの?」
「怖いよ、怖いよ」
子供メダカたちは怯えています。先生メダカは毅然とした態度で子供たちに言いました。
「何が起こっているのか、先生にもわかりません。とにかく今は、あの大人メダカの言葉通り、下流に逃げるしかないのです。いいですか、みなさん。これまでみなさんは毎日上手に泳ぐ練習をしてきました。今こそ、その成果を発揮する時です。さあ、先生に付いて来なさい」
「はい!」
こうして、先生メダカと子供メダカたちは他のメダカたちと一緒に下流目指して泳ぎ始めました。
「どうやら奴らは塩に弱いようだ」
それは物知りのメダカから得た情報でした。普通のメダカならば多少塩分の混じった水の中でも生きることは可能ですが、あの異形のメダカたちは完全な淡水中でなければ生きられないようなのです。
メダカたちは海を目指して川を下り続けました。少なからぬ数のメダカが捕まり、異形メダカへと変貌しました。その中には子供メダカも数匹含まれていました。悔しさと悲しみが先生メダカを襲いましたが、残されている子供メダカたちのためにも、必死で泳ぎ続けました。やがて、
「先生、なんだか、水の味が違ってきたよ!」
子供メダカの一匹が声をあげました。先生メダカは水面に飛び上ると、周囲を見回しました。池よりも広い川幅、川岸につながれた舟、そして遠くに広がる青い海原。遂に河口にたどりついたのです。
「見て、奴らの泳ぎが止まったよ」
彼らを追って来た異形メダカたちは、こちらに背を向けていました。これ以上、下流には行きたくないと言わんばかりに、尾とヒレを動かしています。あの情報は本当だったのです。先生も子供たちも一緒に逃げて来た他の大人たちも、喜びに満ちた歓声をあげました。
「助かった、助かったぞ!」
「これでボクたちは、もう逃げ回らずに済むんだね」
「みんな、よく頑張ったわ。そしてよく泳げたわ。もう立派に一人前のメダカね」
流れに任せて、更に下流へと漂っていくメダカたちは、次第に遠ざかっていく上流の異形メダカたちを眺めていました。これでもう苦しめられることはないのです。平穏な日々が戻ってくるのです。
2
不意に、子供メダカが声をあげました。
「あれ、先生、水の臭いが変わったみたい」
「海が近いからかしらね」
「なんだか水の色も変わったみたい」
「そう言われれば、赤っぽいかしら……変ね。海水はこんな水じゃないはずなのに」
先生メダカは眉をひそめました。臭いも色もとても不快です。そしてそれはどんどん濃くなっていくようです。気を付けて見ると、その不快な水は海の方からではなく上流からやってくるようでした。
「う、うう……」
子供メダカの一匹が苦しそうにあえぎ始めました。先生メダカが泳ぎ寄ります。
「どうしたの、しっかりなさい」
「先生、苦しい、痛い、う、うう」
子供メダカはひれで胸をかきむしり始めました。先生メダカははっとしました。それはあの時、教室に泳ぎ込んできた大人メダカと同じ仕草だったのです。先生メダカは叫びました。
「みんな、離れて!」
胸をかきむしっていた子供メダカの姿が変わり始めました。ギロリとした目、大きく開いた口。間違いありません。異形メダカになってしまったのです。
「ぐわー!」
大きな叫び声と共に、異形メダカの全身から体液が漏れ始めました。身もだえしていたその体は次第に大人しくなり、やがて力なく水面へと浮き上がりました。水中の塩分に耐えられず絶命してしまったのでしょう。
「どうして……噛まれてもいないのに、どうして……」
困惑する先生メダカの耳に、物知りメダカのつぶやくような声が聞こえてきました。
「水……、まさか、この赤く臭う水が……」
「う、くく」
「ああ、く、苦しい」
それまでなんともなかったメダカたちが苦しみ始めました。水、今、自分たちを取り巻いている不快な水……物知りメダカの言葉が正しいのなら、このままでは全滅だわ。そう考えた先生メダカは大声で叫びました。
「みんな、水面に飛び上りながら全力で海に向かって泳ぐのです。この赤い水に長く浸かってはいてはダメ。飛び上りながら下流へ急ぐのです」
けれども子供メダカたちは水面飛び上りの技を、まだ習得してはいませんでした。うまく出来る子もいましたが、ほとんどの子供メダカは下流へ泳ぐのがやっとです。そしてそれらのメダカたちは赤い水の中で異形メダカへと変貌し、塩水によって命を奪われていきました。
「ああ、ああ、なんてことなの。せっかくここまで逃げて来たのに」
「先生、助けて!」
一緒に水面に飛び上っていた子供メダカの声が聞こえてきました。水鳥です。水から跳ね上がった所を水鳥に捕らえられたのでした。先生メダカはどうすることもできません。
再び水の中に戻った先生メダカは、もう子供メダカは一匹も残っていないことを知りました。深い絶望に襲われながらも、先生メダカは水面に飛び上りながら無我夢中で海を目指しました。
「ああ、これは……」
気が付くと、先生メダカの下には地上の景色が広がっていました。あの子供メダカと同じく、先生メダカも水鳥の嘴に捕らえられたのです。水鳥はぐんぐん上昇していきます。先生メダカは初めて見る空からの景色に目を丸くしました。大きく青い海、そこから伸びる川。その川の水の色は赤く、ずっと上流まで赤く染まっています。そしてみんなでお遊戯をしていた懐かしい場所、その近くにある大きな人間の施設。そこまで眺めた先生メダカはようやく理解しました。
「そう、原因は、あれだったのね」
人間の施設より上流の川は赤くはなかったのです。みんなを変えた恐ろしい赤い水は、あの施設から放流されていたのでした。
先生メダカは大きなため息をつきました。理由がわかったところで、もうどうなるものでもありません。嘴に挟まれた体はやがて水鳥に飲み込まれてしまうことでしょう。
「みんな、守ってあげられなくてごめんなさい。先生もすぐにみんなの所へ行くからね」
それでも普通のメダカとして逝けるのだから、自分は少しは幸せなのかもしれない、先生メダカはそう思いながら、水鳥に飲まれていきました。
2015年7月31日投稿




