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Gショック(九千字)(夏ホラー2015)



 私がその廃校に移り住もうと思い立ったのは、しつこく残暑が続いている九月初めのことだった。五年前から始めた趣味の木工細工にすっかりのめり込み、同時に自分の仕事に不満と倦怠を感じ始めていた時、偶然目に留まった、廃校となった小学校への入居者募集の広告が、私の人生を大きく方向転換させたのだ。


 退職願を出すのに何の躊躇もなかった。既に私のウッドクラフトは趣味の域を越えていたからだ。作品はそれなりの値段で売れ、幾つかの注文も受けている。廃校の賃貸料は、都会の1Kのアパートよりも安い。それに独り身を通してきた自分にはそれなりの蓄えもあった。

 相手側から入居了承の返事を受け取るや否や、私は直ちに荷物をまとめて安アパートを引き払い、新しい生活が待っているその田舎へと旅立った。


「よく、おいでくださいましたな」


 駅の改札口で私を迎えてくれたのは、愛想の良さそうな老人だった。彼の車に乗り込み目的地へ向かう間、老人はこの土地や廃校になった経緯などを語ってくれた。それは、今の日本ならどこにでも転がっている、過疎化のひとつの典型に過ぎなかった。


「あの学校を出た者は、皆、この土地を去っていきよりました。そして誰も戻っては来ぬのです。嘆かわしいことですわ」


 かつて小学校の校長を務めていたというその老人の言葉は、寂しさと悔しさが入り混じっているように聞こえた。


 やがて私たちを乗せた車は目的地へ到着した。


「思ったより綺麗ですね」


 それが、車を降りて廃校の建物を見た時の第一印象だった。平屋建てのこぢんまりとした校舎。窓の数から推測すると、教室数は5~6部屋だろうか。屋根も壁も窓も壊れている箇所はない。廃校と呼ぶのが憚られるくらい、きちんとした建物だった。


「修理の必要な箇所はありませんですわ。これまで住んだ方がリフォームされましたからな」

「これまで? ここに住むのは私が初めてではないのですか」

「いえいえ、今までに何人もここに来られました。田舎暮らしを楽しみたい、陶芸のギャラリーにしたい、創作教室を開きたい、様々な方が様々な動機で来られましたが、皆、長続きしなかったのですわ。あなたさんも、せいぜい頑張ってみなさるがええです。わしもこの敷地内に住んでおりますから、困ったことでもあれば言ってくだされ」


 老人は校舎の鍵を渡すと、狭い運動場の向こう側にある、粗末な一軒家へと歩いて行った。そこが彼の住居なのだろう。


 過去の住人が長続きしなかった理由、それは一日目から明らかになった。ゴキブリだ。荷物の整理中も食事中も木工作業中もプロパンで沸かす風呂に入浴している時も、どこからともなくゴキブリが、それも一匹ではなく必ず複数匹、私の視界に入って来る。


「だから入居時のアンケートに、虫が苦手かどうか尋ねる項目があったのか」


 田舎だから蚊や蝿、蜘蛛などはその数も大きさも都会の比ではないだろうという覚悟はできていた。しかし、このゴキブリの傍若無人ぶりは、その覚悟を凌いで余りあるものだった。

 元来、私はゴキブリにそれ程嫌悪感は抱いていない。むしろ昆虫は好きな方で、夏休みには毎日網を振り回して、セミやバッタを追いかけまわしていた。ゴキブリ自体も他の虫と変わらない、親や周囲が嫌悪する姿を見て、子供も嫌いになっていくのだ、私はそう考えていた。だが、


「幾ら田舎とは言っても、これは多すぎるな」


 悪びれることなく動き回る奴らの姿は、さすがに気味が悪かった。ゴキブリと同居しているようなものだ。このままにはしておけないだろう。


 次の日、私は老人に相談した。もありなんという顔をして私の話を聞いている。


「以前の入居者が長続きしなかったのは。ゴキブリのせいなのでしょう」

「そうですな。それもあるでしょうな」

「あの数の多さから考えると、きっと校舎のどこかに巣があるに違いありません。徹底的に駆除してみてはどうでしょう」

「やったのですわ。業者にも何度も来てもらいましてな。それでも駄目なのですじゃ。都会でも同じでしょう。飲食店も小売店も一般の住宅も、奴らの侵入を完全に防ぐことは難しい。結局、出現するたびに対策を施す、それしかないのでしょうな」


 老人は完全に諦めきっていた。恐らくこれまでに相当の費用を計上してきたのだろう。どうやら自力で解決するしかないようだ。



 入居から数日が経った。引っ越しの後片付けも終わり、生活も軌道に乗って来た私は、本格的にゴキブリの駆除に取り掛かることにした。私の足は自転車だけだ。車の免許は持っていない。幸い自転車で三十分ほどの場所に食料品も雑貨も売っている小さなスーパーがある。

 私はそこでゴキブリ用の殺虫剤を買い込むと、校舎内のあちこちにトラップを置き、ホウ酸団子をばら撒き、全ての教室を燻製タイプの煙で充満させた。冷蔵庫と調理器具が置いてある理科室は特に念を入れた。


「これで少しは収まるだろう」


 完全な駆除は期待していなかった。少なくとも私の視界から消えればいい、それだけで十分だった。そしてその願いは叶えられた。とにかくも教室の中からはゴキブリの姿は消えた。私は満足して床に就いた。だが、その満足は一日だけで終わってしまった。


「うわ!」


 翌朝、米を焚こうとした私は驚愕の叫び声を上げた。ビニールの米袋がガサガサと音を立てている。そして半透明のビニールの中身が妙に黒い。私は米袋の中を覗き込んだ。そこでは数十の、いや、百匹近いゴキブリが、米粒に混じって這いずり回っていた。


「くそう!」


 私はビニール袋を両手で引き裂き中身をぶちまけた。ゴキブリたちは三三五五に散っていく。呆然とその光景を眺める私の目に、ただ一匹、逃げようともせずにこちらに対峙しているゴキブリが映った。


「なんだ、あの大きさは……」


 その巨大な体躯はゴキブリの常識を超えていた。体長は十五センチほど、触角も入れれば二十センチはあるかもしれない。目の前にいるゴキブリが放つ貫禄は、まるでひとつの悪夢のように思われた。


「こいつが、ボスか」


 私は履いていたスリッパを脱いで手に持つと、その巨大ゴキブリに向かって一歩踏み出した。途端に、そいつは向きを変え、理科室から出て行った。恐ろしいほどの速さだった。その時になってようやく自分の背中が冷汗に濡れているのを知った。


 私がゴキブリの駆除を開始したのを威嚇するかのように、その日からゴキブリの横暴は激しさを増してきた。米は自作の全く隙間のない木製箱に移したため被害を免れていたが、それ以外は完全に蹂躙されていた。

 鍋の蓋を開けるとゴキブリが飛び出す。ヤカンの中でガサガサと音がする。衣服を入れたタンスの中はゴキブリの糞だらけ。浴槽は水を抜くとすぐにゴキブリが入り込み這いずり回る。冷蔵庫のパッキンを食い破って中に侵入し、寒さに負けずノロノロと食品を物色する。木工細工は知らぬ間に齧られている。

 そして、私が暴れまわる奴らを追い払う時には、必ず少し離れた位置で、あの巨大ゴキブリが私をじっと見詰めていた。早くここから出て行けと言わんばかりに。


「効果なし、か……」


 仕掛けたトラップには数匹程度しか掛からない。ホウ酸団子もほとんど食われていないようだった。さすがの私も疲れてきた。過去の住人が出て行きたくなった気持ちがよくわかった。だが、全てを捨ててここに来た以上、簡単に出ていく気にもなれなかった。もう少し頑張ってみるしかない、私は自分に喝を入れた。そして喝を入れたのはゴキブリの方でも同じだったのだろう。彼らの威嚇は更にその激しさを増し始めた。


「おかしいな」


 風呂釜の点火ツマミを何度回しても火が点かない。釜は入居に合わせて新品と交換してもらったし、プロパンは残量がゼロになる前に業者が交換に来るはずだ。


「まさか……」


 私は外に出た。タマネギが腐ったような臭いがする。戸外に置かれている風呂釜と、プロパンからの配管とを繋いでいるゴムホースを調べる。思った通りだ。穴が開いていた。それも小さな無数の口によって食い破られたような穴が。

 私はぞっとした。もし、まだ周囲にガスが充満している内に点火しようとしていたら、大爆発を引き起こしていたことだろう。


「はっ!」


 言い知れぬ殺気を感じて私は振り向いた。そいつはそこに居た。私がボスと名付けた巨大ゴキブリ。十分安全な距離を取って、こちらを静かに伺っている。


「何がしたいんだ、お前たちは」


 私が吐き捨てるようにそう言うと、そいつは即座に向きを変え去って行った。やはりこのガス管は奴らの仕業に違いない、私はそう感じた。


 その夜、アパートから持ってきたLED電灯の下で、私は遅くまで木工細工に励んでいた。作業は完全に遅れていた。受注した幾つかの商品は納期を先に延ばしてくれるよう、お願いしなければならなくなっていた。それもこれもゴキブリに余計な時間を取られていたためだ。これからは多少の事には目を瞑って作業を進める必要がある。私は無心で手を動かした。


 バチン!


 と音がすると、周囲は闇に包まれた。停電のようだ。


「ブレーカーでも落ちたのかな」


 幸い満月だったので目が慣れてくると、灯りがなくても周りはぼんやりと見える。私は荷物の中から懐中電灯を探し出し、それを点けて配電盤のある裏口へ向かった。

 懐中電灯で照らすと、そこには予想外の光景が広がっていた。床に数匹のゴキブリが転がっている。死んでいるようだ。そして配電盤の蓋の裏にも数匹。表面には焼け焦げた跡。自らの体を使って電気をショートさせたのだ。


「またお前か」


 懐中電灯が照らし出した天井にはいつも通り、巨大ボスゴキブリが張り付き、私を無言で見下ろしている。気味が悪くなった。またしても奴らの仕業だ。しかも今度は命を懸けての行動だ。

 それほどまでに私が邪魔なのか。数匹の犠牲を払ってまで、私をここから追い出したいのか。不規則に上下するボスゴキブリの二本の触角を見詰めながら、私は心の中でつぶやいた。


 作業場のある教室に戻っても、懐中電灯の下で木工作業を続けるだけの気力は残っていなかった。私は憂鬱な気持ちを抱いて眠ることにした。だが、その眠りはすぐに破られた。

 両足に違和感がある。チクチクする痛み。何かが這い回っている感触。枕元に置いた懐中電灯に手を伸ばし、私は自分の足を照らした。真っ黒だった。その黒は揺れている。騒めいている。そう、もはや数も分からぬほどのゴキブリが、私の足先から太腿までを覆い尽くしていたのだ。


「うわー!」


 私は起き上がり、足踏みしながら両手でゴキブリを払い落とした。何匹かはズボンの中にも入り込んでいる。私はズボンもパンツも脱いで、ひたすら自分の体にたかるゴキブリたちを払いのけた。


「くそ、ここまでやるのか、お前たちは」


 ようやく最後の一匹が体から離れた時、窓から差し込む月明かりが教壇の上に陣取ったボスゴキブリの姿を照らし出した。黒光りする羽根、不規則に揺れる触角、その表情は笑っているように見えた。そして、そいつの前で、フルチン姿で立ち尽くす私は、もはや完全な敗者だった。



「そうですか、校舎を離れなさるか」


 翌日、私は老人に自分の決心を伝えに行った。十月の秋を感じさせる風に吹かれて、校庭の片隅に残っている半分埋まったタイヤに腰掛けながら話をした。


「都会に戻るわけではないのです。この村のどこか別の場所で作業がしたいのです」


 私の一番の気掛かりはゴキブリではなく作業の遅れだった。伸ばしてもらっている納期を、これ以上遅らせることは信用問題に関わる。とにかく今は作業に没頭できる環境が欲しかった。


「みなさん、そう言いなさる。そして結局は村を出て行かれるのですわ。あなたもね」


 老人の言葉を否定できるだけの自信はなかった。骨を埋めるつもりでやって来たこの学校から、今、立ち去ろうとしているのだから。この村の別の住居でも満足できなければ、立ち去る時が来ないとも限らない。それでも私はそんな自分を認めたくはなかった。


「寒くなればゴキブリの活動も収まるでしょう。そうすれば、またこの学校で作業を開始するかもしれません。まあ、ほんの一時、仮の作業場を確保するようなもので」


「ええのです。言い訳は聞きたくありませんからのう。出て行きたいのら出て行かれればええ。今の人は贅沢ですのう。都会もんは特にそうですな。昔はガスも電気もなかった。薪を燃やし水も井戸から汲んどった。それでも皆、それぞれの仕事をきちんとこなしていなさった。あの頃に比べりゃ、今のこの廃校でも遥かに恵まれとると言うのにのう」


 多少強めの口調と共に、老人は右足の草履で地面を踏みつけた。ゆっくりと上げた草履の下にはゴキブリが潰れていた。


「責任を押し付けられたこいつらも、たまったもんじゃねえでしょうな」

「責任って……」


 口ごもっているとまた一匹のゴキブリが通りかかった。老人は立ち上がった。何をしようとしているのかは明らかだ。私は彼の腕を掴んだ。


「おやめなさい」

「おや、なぜ止めなさる。憎いゴキブリを殺すのが悪い事かね」

「建物の中のゴキブリは殺されても仕方ないでしょう。しかし、野外のゴキブリを殺す理由はないはずです。コオロギやカブトムシと同じ、ただの虫に過ぎないのですから」

「ほほう、変わった理屈をお持ちですのう。まあ、わしにはどうでもよいことですじゃ」


 話しているうちにゴキブリはどこかへ行ってしまった。私が腕を離すと老人は無言で自分の家へと帰って行った。


「変わった理屈、か」


 確かにそれは不思議な理由だった。あれほど苦しめられているのに、自然の中で見るゴキブリは彼らとは別物のように感じられるのだ。これも小さい頃の虫好きが影響しているのかもしれない。私は可笑しくなった。


「はっ!」


 私は振り向いた。奴だった。あのボスゴキブリが校庭の黄土色の地面から私を見上げていた。こんな状況で奴を見たのは初めてだった。


「なぜ、こんな場所に……」


 だが、それはもうどうでもよかった。私はタイヤから腰を上げると、奴に背を向けて歩き始めた。ゴキブリも奴らの意図も、もう関係ない。戦う必要もない。私はここから去るのだから。


 その夜、眠入り端に右足がチクリとした。電気はまだ復旧していなかったので、私は枕元の懐中電灯を点けた。奴が居た。一匹だけだ。半身を起こすと奴は足から離れた。しかし逃げない。こちらをじっと見詰めている。私が眠ろうと横になると、また足にしがみつく。今度は立ち上がった。奴は足から離れて教室の出入り口まで移動し、こちらを見詰めている。今までとは全く違う挙動だ。


「何がしたいんだ?」


 昼間の出来事が思い出された。あの時も今も、これまでとは違った行動をしている。私は懐中電灯を手にして、教室の出入り口へ向かった。奴は廊下を進み三メートルほど先でこちらを伺っている。まるで付いて来いと言っているかのように。


「騙されてみるか」


 私は奴の後を付いて行くことにした。


 向かった先は意外な場所だった。校庭の隅に立っている老人の一軒家だったのだ。灯りは消えている。もう寝ているのだろう。奴は玄関の前でじっとしていた。


「こんばんは」


 声を掛けながら古ぼけた木戸を叩く。返事はない。引き戸に手を掛け横に引く。動いた。無施錠な点は如何にも田舎らしい。僅かに開いた隙間から、奴は素早く中へと入っていた。


「お爺さん、居ませんか?」


 やはり返事はない。天井からぶら下がった紐を引っ張り、蛍光灯の明かりを点ける。出入り口に直結した板間の右は炊事場。中央に小さなテーブル。そして古びた調度品があるだけの内部。住居と言うより小屋と言った方が相応しい簡素な造り。恐らく学校付属の用務員小屋として使われていたのだろう。奴は部屋の隅にある箱の上に乗って、じっとしている。


「なんだ、これは」


 私が手に取る前に、奴はそこから飛び降りた。一辺三十センチほどの金属製の立方体だ。ずしりとした重量がある。

 一部分だけ、細かい金網で出来た通気口のような部分があった。そこに耳を近づけると中から微かに物音が聞こえる。何か居るようだ。蓋と思しき箇所には南京錠がぶら下がっていて、簡単には開けられそうになかった。

 部屋を見回すと、奴は右側の壁に張り付いていた。そこには鍵束がぶら下がっている。私はそれを手に取って、幾つかの鍵を試した後、箱の南京錠を外した。


「うわっ!」


 蓋を開けた瞬間、私は大声を出してしまった。そこからゴキブリが、私をここに連れて来た奴とほとんど同じ大きさの巨大ゴキブリが飛び出してきたからだ。二匹は触角を動かして互いに相手を確かめ合っているように見えた。それは不気味ながらも、幾分心温まる光景ではあった。


「これがお前の目的か」


 どうやら仲間を助けて欲しかっただけのようだ。老人には後で謝ることにしよう。私は帰ろうとした。しかし、二匹は私の前に立ちはだかると、まるでこちらに来いと言わんばかりに、奥につながるガラス戸へと移動する。ここまで来たら最後まで付き合うかと、私はその戸を開けた。

 一段高くなった畳敷きの部屋だった。寝室なのだろう。靴を脱いで上がる。和室の向こう側には押入れの襖、そこに出来ている隙間から二匹は押入れの中へと消えていった。

 襖を開けた私は、自分の目を疑った。押入れの底に穴が開いていたのだ。良く見ると穴の中には木製の階段が下へと伸びている。二匹はその階段の途中でこちらを見上げている。従うしかなさそうだ、私もまた階段を降り始めた。


 階段の下は通路だった。天井と壁は木組みされているが下は土だ。私は一旦靴を取りに戻り、再びその通路を進んだ。身を屈めなければ通れないほどに狭く天井は低い。数メートル歩いたところで通路は終わり左に入り口があった。中へ入る。奥行きも高さも結構あるようだ。


「なんだ、この臭いは」


 鼻をつく不快な臭気。カサカサとなにやらうごめく音が無数に聞こえてくる。私は懐中電灯でその部屋を照らした。


「うわー!」


 叫び声をあげていた。真っ黒だった。闇ではない。壁も天井も床も真っ黒、いや黒い物体で埋め尽くされ覆われている。それらがうごめいている。カサカサと音を立てながら。


「ここが巣なのか」


 尋常ではない数のゴキブリが部屋の中を這いずり回っていた。私を連れて来た二匹は見当らない。懐中電灯で周囲を照らすと、いつの間にか、二匹は私の背後、部屋の出口に回り込んでいた。そしてこちらに顔を向けている。長い触角を動かしながら、もっと部屋の中へ行けと言わんばかりに。

 私は後ずさりしながら部屋の中へと進んで行った。何かを踏んだと感じたのと、ポキリと乾いた音が聞こえたのは同時だった。懐中電灯で足元を照らす。白く細長い何かがある。明かりに照らされたゴキブリが散っていく。そこに現れたのは骨、明らかに人間のものと思われる骨と頭蓋骨だ。


「まさか、お前たちの目的は」


 二匹が近付いて来た。天井のゴキブリも壁のゴキブリも私を狙っている。迂闊だった。どうしてこんな奴らを信じたのだろう。この骨は過去の入居者、そして私の未来。餌にするつもりだったのだ、この私の体を。万事休すと思った時、その声が聞こえた。



「こんな所に居なさったか」


 部屋の出口に灯りが見えた。懐中電灯を向けるとそこには老人が立っていた。


「教室には居らぬし、わしの家の灯りは点いとるし、まさかと思って来てみたら、ここを嗅ぎ当てるとはのう」


 助かったと思った。すぐに老人の元へ駆け寄ろうとした。が、その姿の奇妙さが私の行動を思いとどまらせた。


「お爺さん、どうしてそんな物を……」


 老人の左手にはランプ、そして右手には鎌が握られていた。ゴキブリ相手に鎌など何の意味もない。


「ここはのう、戦時中の防空壕じゃった」


 私の質問を無視して老人は話し始めた。


「多くの者がここに隠れて生き延びた。皆、この村が好きじゃった。じゃが、時が変わり誰も彼も村を出て行った。そして戻っては来ぬ。この小学校に住み始めた者も同じ。骨を埋めるつもりでやって来たと言っておきながら、結局は出て行こうとする。わしは最初の言葉通り、骨を埋めてやった、それだけのこと」


  聞いている内に老人への疑念が湧き上がって来た。何年も住んでいるのなら、押入れの階段も、ゴキブリの巣となっているこの場所も、とっくに知っていたはずだ。なのに、この老人は何もしなかった。そのまま放置していた。それはつまり……


「じゃ、じゃあ、この骨は……過去の入居者が居なくなったのは……」

「そうじゃ、わしじゃよ。所詮、ここに来るような奴らは世捨て人同然。行方不明になったとしても、心配する者も捜索願を出す者もおらん。引き払ってよそに移ったと言えばそれで済む」

「お爺さん、どうしてです。人を殺してもお爺さんには何の利益もないでしょう。なのになぜこんな事を」

「都会者はこれだから好かぬ。損得勘定でしか動こうとせぬ。村から一人として出て行って欲しくないというわしの気持ちが分からぬのかね。たとえ、それが死体となってしまったとしても」

「狂ってる、お爺さん、あなたは狂ってる」

「なんとでも言うがええ。すぐに何も言えなくなる。さあ、やれ!」


 ゴキブリたちが騒めき始めた。老人のランプに照らされた黒い波が、こちらに向かって押し寄せて来る。靴が黒く覆われ始めた。手も体も黒く染まる。口の中に何かが入ってくる。息ができない。私は両膝を地に着けた。


「ぎゃー!」


 叫び声。次の瞬間、体を覆っていた黒い波は私を離れ、老人に襲いかかっていた。


「馬鹿な、なぜ、わしに逆らえる」


 老人は鎌を振り回しながら抵抗を続けていた。驚愕と狼狽に彩られた老人の両目が、彼の前に居る二匹のボスゴキブリを睨み付けていた。


「二匹……そうか、お前が助けたのか、く、ぐぐ」


 老人の体が真っ黒に覆われていく。右手からランプが離れ床に落ちると、漏れたオイルに引火して赤い炎と煙が舞い上がった。私は夢中で部屋から走り出た。狭い通路を抜け、一軒家から飛び出し、校舎に戻るとスマホから警察と消防に電話をした。消火器を探したが見つからない。バケツに水を入れて老人の家に向かったが、もはや手の施しようがないほどに火は勢いを増していた。私は呆然と立ち尽くすしかなかった。


「あれは……」


 雲ひとつない夜空を黒い何かが飛んでいく。明るい月の下を悠々と横切る無数の黒い物体の群れ。その中に一際大きく羽根を広げた物体が二匹、まるで久しぶりに出会った旧友と会話をするかのように、寄り添いながら並んで飛んでいく。その姿が見えなくなるまで、私は夜空を眺めていた。


 ※  ※  ※


 年の瀬が迫っていた。私は廃校の一室で、今では本職となった木工作業に今日も精を出している。あの日以来、ゴキブリの姿はほとんど見かけない。作業に集中できたおかげで遅れは取り戻し、約束していた今年中の納期は、昨日までに全て終えることができた。

 良い年末年始を迎えられそうだと、心穏やかな日々が続く中、時折、あの出来事を思い出すことがある。

 最後の瞬間、私を助けてくれた二匹のゴキブリ。あの老人に仲間を捕らえられ、彼らは仕方なく老人の手足となっていたのだろう。そして私がその枷から解き放ってやったことで、老人に復讐を果たしたのだ。私に対する嫌がらせも、早くここから立ち去った方がいい、という警告だったのかもしれない。でなければ、私の命を奪うくらい、彼らには朝飯前のはずなのだから……そんな考えを抱くのは私の虫好きが為せる妄想だろうか。


 私は紙やすりを置いて、出来上がった木工作品を眺めた。本体は十五センチほど。触角を入れれば二十センチはありそうだ。艶やかな二枚の羽に似たマントを羽織り、逞しい六本の足がランプと鎌を握っている。その顔に刻まれた皺と表情は爺さんそっくりだ。作品名は……そう、Gショック。



2015年7月28日投稿

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