彼女は便器 後編(五千字)(コメディ)
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ボクの決心は変わりませんでした。便器と言い争いをした日から、用を足すときは学校のおトイレを使用しました。休日は外へ出て、飲食店や駅のおトイレを使用しました。それでも夜間に用を足したくなった時は、ペットボトルを利用して処理しました。
おトイレを使わなくなった当初、便器はボクに向かって悪態をついたり、謝罪をしたり、しんみりした口調になったり、色々と話し掛けてきました。でも、それも一週間ほどで収まり、もう何も言わなくなってしまいました。
寂しくなかったと言えば嘘になります。これまで毎日便器とお喋りをしていたのですから。一人暮らしの寂しさを紛らわすことができたのは、そのお喋りがあったからこそでしょう。
でもその寂しさもすぐに忘れてしまいました。そもそも便器が喋ること自体、異常な出来事だったのです。全ては正常な状態に戻ったのだ、そう考えればなんてことはありません。
それに同級生の彼女との仲はどんどん進展していました。毎日放課後に会い、手作りのお菓子をもらい、休日毎にデートをし、最近では、夏休みには旅行をしよう、海外がいいかも、なんて話まで出るくらいです。
唯一のデメリットと言えば、彼女と遊ぶたびに、ボクの口座の残高がどんどん減っていくことでしょうか。でも、彼女の笑顔はお金では買えません。それにいざとなればお父様にお願いして、ボクのコレクションを換金すればなんとかなるはずです。ボクは全然気にしていませんでした。
そして、それはそんな風に、ボクが自分も自分の周囲も、すっかり見失っていた時に起きたのです。
偶然でした。その日の放課後も途中まで一緒に帰宅し、ボクはお惣菜屋さんへ、彼女は駅へ別れる場所にやってきました。
「はい、これ、今日のお菓子。勉強に疲れたら食べてね」
「うん、ありがとう、じゃあ、また明日」
こうして別れた後、ボクは今晩のお惣菜「豚バラとエノキ茸のジャージャー炒め」と明日の朝食「チーズ&オニオンブレッド」を買いました。便器に何も言われなくなった今でも、言い付けられた食習慣だけは律儀に守っていたのです。
「あっ、と」
なんてことでしょう。お惣菜とパンを専用のお買い物袋に入れる時、彼女から貰ったお菓子の包みを落としてしまったのです。ボクは慌てて拾い上げました。その時、綺麗にラッピングされている包み紙が少し破れているのに気が付きました。
「あれ、これは」
その破れ目から中が見えています。それはどう見てもお菓子ではないようでした。
ボクはその場で包みを開けてみました。驚きました。中から出てきたのはお菓子ではなく、豚のぬいぐるみでした。彼女は渡し間違えたのです。
ボクは慌てて駅に向かって走りました。別れてからまだそれほど時間は経っていません。もし、これが今日、誰かに渡す大事なものだったら困ってしまうに違いありません。ボクは体育の授業の時よりも気合いを入れて走りました。
しばらくして、ようやく道の前方に見えてきました。彼女です。でも……
「あれ、誰だろう」
一人ではありませんでした。二人で並んで歩いています。それも男子生徒です。うちの高校の制服ですが、後姿と時折見える横顔に見覚えはありませんでした。きっとよそのクラスの生徒なのでしょう。
「おかしいな、男の友人は一人もいないって言っていたのに」
さすがに声を掛けられませんでした。ボクは黙って二人の後ろを歩いて行きました。二人ともボクには気付いていないようです。
やがて、二人は駅の出入口前にある自販機でジュースを買うと、立ち話を始めました。電車が来るまで時間があるのでしょう。聞く気はなかったのですが、二人の会話が耳に入ってきました。
「もう、ホントちょろいんだから。あんなお菓子でだまされちゃってさあ」
「なっ、俺が言ったとおりだろ。結構な金持ちみたいなんだぜ、あいつの実家」
「これからもどんどん貢がせてやるわ。今はお金を使わせているだけだけど、そのうち、現金を持って来させるつもりよ」
「俺への礼金も忘れないでくれよな。情報は俺が提供したんだから」
「わかってますって、うふふふ」
「あの、これ。間違ってボクに渡したんじゃないですか」
いきなり現れたボクを見た二人の顔。まるで死んだと思った天敵に出会ったような表情でした。
「あ、え、ど、どうして、ここに……」
「さっき貰ったのはお菓子じゃなくて、ぬいぐるみだったんです。渡そうと思って急いで追いかけて来たんです」
顔を強張らせていた彼女は、ようやく状況を理解したようでした。いつも通り、にこやかな笑顔になると、つっかえながら言いました。
「あ、あらホントね。やだ。間違えちゃった。えっと、お菓子はこっちだったわ。あ、この人? こちらは幼馴染で、偶然、今、出会って、乗る電車が同じだったので……」
「そ、そう、偶然ってやつだ。こいつと話をするのなんて高校入学以来初めてでな。まあ、無視するのも悪いかと思ってよ」
二人の言葉はボクの耳には全く入ってきませんでした。ただ、どちらも嘘をついている、その事だけは勘の鈍いボクにもはっきりと分かりました。
「ボク、帰りますね。サヨナラ」
話の途中でボクは背を向けました。そして黙って歩き始めました。彼女と二人だけで楽しい時を過ごすことは、もう二度とないだろうなと思いながら。
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理由は分かりませんでした。帰宅したボクが最初に向かったのはおトイレだったのです。
制服を着替えもせず、力なく便座にお尻を下ろしました。自動で鳴り響く心地よい音楽。お花畑の香り。懐かしい情景です。ここに来なくなってもう何週間経ったでしょう。
「ボク、馬鹿だったよ」
便器は何も言いません。まだ怒っているようです。
「君が正しかった。今日、ようやくそれがわかったよ。あの子は男と一緒に歩いていた。ボクのお金が目当てだったんだ。何もかも君の言葉通りだった。どうして君を信じられなかったんだろう」
やはり便器は何も言いません。無理もないでしょう。疑われ、無視され、見捨てられたのですから。
ボクは両手を下ろして便器の淡い桃色の肌を撫でました。便座以外の部分も人肌の温度を保っているはずの陶器の表面は、凍えるくらいに冷たくなっていました。
「ねえ、お願いだ、声を聞かせてくれないか。謝るよ。心の底から謝る。ごめんなさい。本当にすまなかったと思っている。だから、赦してくれないか。一言でいいから声を聞かせてくれないかな」
沈黙でした。完全なる沈黙、それはこれまで便器から聞かされてきた、どんなひどい悪口よりもボクの心を抉りました。
同時にボクに無視され続けた便器の気持ちも理解できたのです。便器の彼女は毎日ボクに話し掛けていたのに、それに応えてあげようともしなかったのですから。
「これは……」
ボクは自分の指に付いているものに気が付きました。埃でした。立ち上がると、お尻にも便座にも埃が付いています。水溜り部分は、水平に黒い輪となって汚れています。そして、黄ばみや水垢……ボクは御通寺快丁斎先生の言葉を思い出しました。
『お前が便器に尽くせば尽くすほど、便器もお前に尽くしてくれる。逆もまた然り。もしお前の心が便器から離れれば、便器もお前を離れていくじゃろう……』
「まさか君は、本当に居なくなってしまったのか……」
ボクはおトイレを出ると、物入れからおトイレお掃除セットを取り出しました。手遅れかもしれない、でも、もしかしたらまだ間に合うかもしれない。
ボクは必死で便器を磨きました。心の中でごめんなさい、ごめんなさいと謝りながら、精魂込めて磨き続けました。
そうして一時間ほどもして、ようやく便器もおトイレの中も、元通りピカピカになりました。これで戻ってきてくれるはず、声を聞かせてくれるはず、ボクは呼び掛けました。話し続けました。謝り続けました。
でも、駄目でした。何の返答もありません。ボクは落胆しました。やはり便器の女神はもう居ないのです。それを認めなければいけないのです。
後悔、後に立つ。ボクは有名な格言をそんな風に捻じ曲げて覚えていました。そう、いつでも後なのです。知るのも、悲しむのも、悔やむのも、思い出すのも、涙を流すのも……全ては何もかも終わってからなのです。
ボクは便座の上で項垂れたまま、もうお尻を上げる気力さえありませんでした。
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カタカタカタ
細かい振動。はっとして顔を上げた瞬間、大きな揺れがボクを襲いました。
「地震!」
揺れていました。突き上げてくるような激しい揺れ。今まで経験したことがないような大きさです。
ボクの体は便座から転がり落ちてしまいました。その瞬間、大きな地響き。崩れ落ちてくる様々なもの。舞い上がる埃、砂煙。何が起きたのかすぐには分かりませんでした。
やがて揺れは収まり、静寂が戻ってきました。
「うっ、足が」
最初に感じたのは左足の鈍い痛みでした。ボクの体はおトイレの床に転げ落ちていましたが、左足は便座の上に残っていました。その上に何かが乗っています。
おトイレの照明は消えてしまい、暗い非常灯が点灯しています。時刻はもう夕食の時間をとっくに過ぎて夜になっていました。非常灯の薄明りの中、ボクの左足を押さえつけているのは、天井のボードや角材のように見えました。
「崩れたんだ、家が」
ようやく分かりました。築七十年のボロ屋が、今の地震に耐えきれず、遂にその寿命を終えてしまったのです。いくら内装は高級建材を使っているとは言っても、柱や基礎や梁、外壁などは当時のままです。無理からぬことでしょう。
唯一の救いはボロ屋が平屋建てだったことです。もし二階部分があったら、左足一本じゃすまなかったはずです。
「う、くそ、抜けない」
挟まれている左足以外は自由に動かせます。ボクはなんとか引き抜こうとしました。でも駄目です。体勢が悪くて力を出しにくいうえ、左足に乗っている板やら角材やらは非常に重く大きなものでした。
「これは困ったな。スマホはお掃除の邪魔になると思ってテーブルに置いて来ちゃったし。おーい、おーい。誰かいませんかあ。助けてくださーい。おーいおーい」
返事はありません。地震の直後と言うこともあり、まだ皆さん自分たちのことで手一杯なのでしょう。
ボクは努力するのをやめました。別に野中の一軒家というわけではないのです。そのうち、ご近所様が気付いて警察や消防署に電話、ついでにテレビ局なんかも嗅ぎ付けて、ここに殺到。ボクは無事救出される、そうなるのは目に見えています。
「それまで左足、大丈夫かな」
心配なのは左足の状態でした。命に別状はなさそうですが、すでに痛みさえ感じぬほどに押し潰されています。このままの状態が長引けば、切断も覚悟しなければならないでしょう。
ふと、御通寺快丁斎先生の言葉を思い出しました。
『大切に持て成さねばならぬ。逆らってはならぬ。……そんなことをすれば、ご利益どころか天罰が下るのは必定じゃ』
そうか、これは便器がボクに与えた天罰。
彼女を疑い、言い付けに逆らい、蔑ろにしたボクへの懲らしめなんだ。
ボクに信じてもらえなかった彼女の苦しみは、今のボクの比ではなかったはずです。誰も居ないおトイレの中から、ボクに向かって必死に謝罪の言葉を掛けていた便器の声が聞こえて来るようでした。どんなに寂しく辛かったことでしょう。ボクは目の前にある便器に頬を寄せて謝りました。
「ごめんね。君をひとりぼっちにさせて。でも今は一緒だよ、そしてこれからもずっと一緒だよ」
橙色の非常灯が淡く照らし出したおトイレの中で、ボクは一番大切なものを永遠に失ったことを悟りました。ボクの左足よりも、ボクの命よりも大切だった、ボクの彼女を……




