表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/52

彼女は便器 中編(六千字)(コメディ)


 それは唐突にやってきました。このボクが同じクラスの女子と一緒に帰宅することになるなんて、一体、誰が予想し得たでしょうか。


 学校からの帰宅途中、いつものようにお惣菜屋さんで、本日の夕食「比内地鶏のカレー南蛮」と明日の朝食「手作り酵母のクロワッサン」を買って家に向かっている時でした。

 ひどい雨でした。アスファルト道路の凹んだ箇所には、水が溜まっています。ボクは水たまりを踏まないように、下を向いて歩いていました。それがいけなかったのです。誰かとぶつかった、と思った時には、相手は道路に尻もちをついていました。


「あいたた」


 声を出している相手を見てびっくりしました。ボクのクラスで一番かわいいと評判の女子生徒だったのです。その子が制服を雨に濡らしながら、尻もちをついてボクの前にいるのです。ドギマギしてしまいました。


「あ、あの、ごめんなさい。大丈夫ですか、怪我はないですか」

「う、うん、平気。でも、こんなに濡れちゃったら電車に乗れない」


 お惣菜屋さんは駅の近くにあるのです。そこからの帰り道、駅に向かう彼女とぶつかってしまったようでした。


「そ、それじゃ、ボクの家で服を乾かしていったらどうですか、すぐ近くです」

「え、悪いよ。脇道から飛び出した私も悪いんだし」

「でも、制服は濡れているし、ソックスは泥で汚れちゃったし、そんな恰好じゃ帰れないでしょ」

「う~ん、それなら、お言葉に甘えて」


 我ながら大胆な提案をしたものです。毎日便器と会話をしているので、女子への抵抗が少なくなっていたのかもしれません。

 ボクと彼女は並んで歩きました。なんだか夢みたいでした。御通寺おつうじ快丁斎かいちょうさい先生の言葉が頭に浮かびます。


『便器を大切にすれば、必ずご利益がある』


 ああ、きっと、この出会いがそのご利益だったのでしょう。口うるさい便器の相手をしてきた甲斐があるというものです。

 そうこうするうちにボクの家に着きました。


「え、これが、あなたの家……」


 彼女はそう言って、絶句してしまいました。まあ、無理もありません。築七十年ですから。

 太平洋戦争が終結した年、戦後のどさくさに紛れて、焼け野原に適当に建てたと聞いています。壁も基礎も屋根も当時のまま。あちこち崩れたり朽ち落ちたり、外見はそりゃひどいものです。

 ボクの家を眺めていた彼女の顔が、まるで毒虫を噛み潰したように苦々しく歪んでいきました。


「こんな家に住んでいるなんて、もしかして君って、苦労人?」

「い、いや、そんなことないんだけど」


 ボクは口ごもって玄関を開けました。雨の日は特に動きが悪くなります。ガタピシ言わせながら戸を開けて、中へ入って、またピシガタ言わせながら戸を閉めました。


「あら、家の中は綺麗!」


 リビングに入った途端、表情も声も変わりました。女の子って単純ですね。

 さっそく浴槽に湯を張って、入浴していただきました。壁面に三十二型テレビ、四ミリ厚のアクアフィール付きマイクロバブルのジェットバスです。おトイレに比べれば極めて簡素な浴室なのですが、中からキャーキャーと歓喜の叫びが聞こえてきます。それなりに気に入ってもらえたようです。


 その間に着ている物を全て洗濯、乾燥させていただきました。ドライクリーニング対応自動アイロン掛け機能付き全自動洗濯乾燥機なので、放り込んでスイッチを押すだけです。ボクも彼女の制服もすっかり元通りになりました。

 ただ、ソックスの片方だけは元通りにはなりませんでした。転んだ拍子に何かに引っ掛けたのでしょう、破れ目があったのです。


 お風呂から上がって乾いた制服を身に着けた彼女に、破れたソックスを差し出しながら、ボクは頭を下げました。


「ごめん、これ、破れちゃったみたい。ボク、裁縫は得意じゃないし、どうしよう」

「いいよ、それくらい目立たないから」


 そうは言ってもどうにも心苦しく思えてなりません。貸しはできるだけ作らない、なぜなら、その後で何倍にもして返さないといけなくなるから。これが我が家の信条でもあります。


「でも、それじゃボクの気が」

「う~ん、じゃあ、次の日曜日、一緒に新しいソックスを買いに行こうよ。それならいいでしょ」

「う、うん。それでOKです」


 な、なんとデートの約束までしてしまいました。女神様の御利益、効きすぎです。


「じゃ、電車の時間があるから、私、帰るね。あ、そうだ」


 次に彼女が言った言葉に、ボクはギクリとしました。


「おトイレ、貸してくれないかな」





 最近の二階建て新築住宅は、一階だけでなく二階にもおトイレがあるんですよね。でも、我が家は平屋。当然、おトイレは一か所、あのお喋り便器が鎮座するおトイレのみです。


「ね、おトイレ、どこ?」

「あ、う、うん。廊下を出て突き当り、にあります」


 あのお喋り便器が沈黙を守ってくれるとは思えません。さりとて貸すのが嫌だとも言えません。返事を聞いた彼女が「了解」と言ってリビングを出ていくと、ボクは考えました。どうやって言い訳しようかと。


「君の気のせいだよ。便器が喋るわけないじゃないか」とシラを切り通す。

「あれは最新式の便器でね。会話システム搭載なんだ」とハイテクをアピール。

「実は女神が宿っているのです」と不思議ちゃん回答。でもこれが真実。


 ああ、どう返答すれば一番まともに思われるだろう。ボクは悶々として言い訳を考え続けました。そうこうするうちに彼女が戻ってきました。


「ありがと。じゃ、日曜日にね」


 拍子抜けでした。まるで何事もなかったような顔をしています。


「あ、あの、おトイレで何もなかった?」

「何もって? 音楽やいい香りがしたこと? 足裏マッサージされたこと? 三カ所からの温水と二か所からの温風にお尻を弄ばれたこと?」

「いや、その、何か変な声がしたこと、とか」

「声? ううん。声は聞こえなかったよ」


 彼女はそう言って帰って行きました。信じられませんでした。あのお喋り便器が沈黙を守り通すなんて。もしかして、眠っていたのでしょうか。ボクは恐る恐るおトイレを覗き込みました。途端に不機嫌な声が聞こえてきました。


「何よ、あの女」


 怒っています。これはかなり怒っています。


「あっ、眠っていたんじゃないんだね。えっと、珍しいね、誰かに座られても何も言わないなんて」

「どうして、あたしがあんな女とお喋りしなくちゃいけないのよ。それより説明しなさいよ。あの女とどーゆー関係なの」

「え~っと、同じ高校の同級生なんだ。ちょっとボクのせいで雨に濡れちゃってね。服を乾かさないと風邪をひいちゃうし。それでここまで来てもらったんだ」

「ふん、嘘が下手ね。下心満載で家に入れたくせに」

「そ、そんなことないよ。純粋に濡れたままじゃ気の毒だったから」

「どうだかね。そのくせ手も握れなかったんでしょ。意気地なし」


 ひどい言われようです。嫉妬しているのは間違いなさそうですが、ここまで悪態をつかれる謂れはありません。ボクはちょっと頭にきたので、そのままドアを閉じて、その日はおトイレには行きませんでした。

 さりとて朝になれば用を足さないわけにもいきません。入った途端に、浮気者とか軽薄男とか二股疑惑とか、そりゃもうひどいものです。こんなに嫉妬深いとは思いもしませんでした。

 ただ、そんな便器からの悪口も、ボクの心を完全に腐らせることはできません。日曜日には彼女とデートなのです。こればっかりはどんなに便器が頑張ったところで真似のできないことなのですから。





 ボクと同級生の彼女は、すっかり仲良しになりました。それと言うのも、次の日の放課後、彼女はボクに手作りのお菓子をプレゼントしてくれたからです。


「昨日、親切にしてもらったお礼」


 という理由でした。しかも一日だけでなく、次の日もその次の日も、毎日、違った手作りのお菓子をくれるのです。これまで一度も口を利いたことがなかったのが嘘みたいな変わりようです。

 ボクはすっかり舞い上がりました。遂に春が、人生初めての春がやってきたのです。日曜日、初デートへの期待は否応なしに高まっていました。


 そうして迎えた約束の日曜日。駅前で待ち合わせたボクと彼女は、電車に乗って買い物に行きました。最近、この町に完成した大型のショッピングモールです。

 どんな理由か知りませんが、入り口に陶器製の巨大招き猫が鎮座しています。聞くところによると、この招き猫製作には、あの御通寺快丁斎先生も力を貸しているとのことです。


「うわー、初めてみるけど、噂通り大きいね」


 彼女は目を丸くして招き猫を見上げています。ボクはと言えば、初めて見る彼女の私服姿にすっかり惚れ込んでしまっていました。幸福とはこういう些細な日常にこそ潜んでいるものなのですね。

 ところで、いざ買い物をしようとして、ボクは自分で服を買ったことが一度もないことに気が付きました。と言うのも、実家に居る時には、洋服ダンスの中に、いつもその季節に合った服がぶら下がっていたからでしす。きっと、お手伝いさんが用意してくれていたのだと思います。今の家にも一ヶ月毎に、服や小物や日常生活用品が宅配で送られてきます。ボクが買い物をするのは食べ物だけなのです。


「あ、これがいいかなあ」


 彼女がソックスを選んでいます。価格が五千円。なんだか高い気がします。


「結構、するんだね、女の子のソックスって」

「え~、これくらい普通だよ。二足組だし」


 そんなものかなと思いました。まあ、高いのか安いのかさっぱりわからないし、手作りのお菓子も貰っていることだし、それに決めました。

 支払いはデビットカードです。口座にはお年玉とお小遣いを貯めたお金が一千六百万円ほど入っているので、余程のことがない限り、足りなくなる恐れはないはずです。

 お金持ちにしては少ない額ですよね。なんでも一年間の贈与の額が百十万円を超えると税金が掛かるらしいので、これだけしか貯まらなかったのです。二十才になったら、これを元手に投資でもしようかと思っています。


「ねえ、実はハンカチも汚れちゃったんだ。買ってもいい」


 かわいい顔でおねだりされると、嫌とは言えません。今度は一万円でした。女の子ってお金がかかるんですね。

 その後は、彼女の希望でホテルのランチ・バイキングに行きました。こちらは一人五千円。安く済んでちょっとほっとしました。

 こうして楽しい時はあっと言う間に過ぎていきました。もう夕暮れです。彼女ご推薦のオシャレなカフェでスイーツセットをいただきながら、お別れ前の談笑を楽しむボクと彼女です。


「今日は楽しかったあ。ありがとね」

「いえいえ、ボクの方こそ」

「ねえ、よかったら来週も会ってよ。今度はそうねえ、遊園地に行こうよ。限定グッズとか欲しいから」

「えっ、ボクなんかと一緒でいいの」

「全然大丈夫だよ。これから週末はいつも一緒に過ごそうよ。いろんな所に遊びに行って、たくさんお買い物しよう!」


 春ですっ! すっかり春です。ボクは有頂天になっていました。





「今日は一日中どこに行ってたのよ」


 帰宅するなり、おトイレから声が聞こえます。最近は便器に座らなくてもお喋りするようになってきました。ボクは知らんふりで隣の洗面室へ入り、手を洗い、うがいをしました。


「あの女と会っていたんでしょ」


 その通りですが、答える義務はありません。ボクは無言で手と顔をタオルで拭きました。


「今まで言おうかどうか迷っていたんだけど、言うわ。あの女と付き合うのはやめて! あんたはあたしの彼氏なのよ、わかっているの? あんな女に彼女面されるなんて我慢できない」


 カチンと来ました。たかが便器風情に彼氏呼ばわりされたくありません。ボクはおトイレに入ると便器に対峙しました。


「言っておきますが、君は便器であって人間ではないんです。なのに人間であるボクの彼女になれるなんて、本気で思っているんですか」

「あんたに相応しい女の子なら、あたしは何も言わないわよ。でも、あの女はダメ」

「どこがダメなんですか。いい子じゃないですか。手作りのお菓子は作ってくれるし、気が利くし、清純だし、ボクが初めての男の友人だって言っていたし。君は嫉妬心に駆られて、ありもしない悪口を言っているだけなんじゃないのですか」

「ふん、騙されているのも知らないで何を言っているの。手作りのお菓子ですって。嘘ばっかりよ。どうせ百均で売ってる添加物まみれの駄菓子に決まっているわ。綺麗なパッケージにでも騙されているんじゃないの。最近のあんたの食生活、乱れ始めているわよ、気付いてないの」

「う、嘘はやめてくれないかな。そんなことでボクと彼女の仲を引き裂こうとしても無駄ですからね」

「嘘をついているのはあたしの方だって言うの? あんたの汚いもの全てを受け入れているあたしを疑うの?」


 ボクは返答に困ってしまいました。確かに口は悪いですが、便器が嘘を言ったことは一度もなかったのです。迷い始めたボクに止めを刺すように、便器が言いました。


「いいわ、じゃあ、とっておきの秘密を教えてあげる。あの女が清純な娘なんて思い違いもいいところだわ。あんたが初めての男の友人なんて真っ赤なウソ。ここで用を足している時にわかったのよ。あの女は遊びまくってる。それも相手は一人や二人じゃない。あんたは遊ばれてるのよ。だまさ……」

「馬鹿なことを言うな!」


 ボクは完全に逆上していました。抑え切れない怒りがボクを襲ったのです。これまで喋ったことのない汚い言葉が、ボクの口から飛び出しました。


「軽蔑するよ。本当でも嘘でも、それは言ってはいけないことだ。そうだろう。どうして人は何の躊躇もなく、おトイレでパンツを脱げるのか。それはおトイレが秘密にしてくれると信じているからだ。どんなに恥ずかしい事でも、自分の胸に中に秘めておいて、決して口外したりしないと信じているからだ。なのに君はその信頼を裏切った。おトイレとして絶対にしてはいけない事をしてしまったんだ」

「そ、それは……確かに言い過ぎだったかもしれない。でもあたしのせいじゃない。あんたが悪いのよ、あんたが信じてくれないから、仕方なく……」

「そうかい、あくまで自分は悪くないと言い張るんだね。わかった。決めたよ。ボクはもうこのおトイレは使わない。秘密を守ってくれないおトイレの中で、安心してパンツを脱ぐことなんかできるはずがないからね」

「ま、待ってよ。ちょっと待って。あたしはあんたの秘密は絶対守る。あんたを裏切るようなことはしない。だから、あたしの言葉を信じて。今まで通りに、あたしを……」

「サヨナラだ。もう君と話すことは二度とないと思うよ」


 ボクはおトイレを出ました。便器は謝罪の言葉を繰り返しているようでしたが、もうボクの耳には入りませんでした。


 こうしてボクと不思議な便器のお付き合いは、一ヶ月も経たずに終わりを告げたのです。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ