大きな鳥(五千字)(童話)
1
「今度はよく狙えよ、それ」
髭のおじさんにそう言われて、男の子は石ころを投げました。今度は岩に描かれた標的の真ん中に当たりました。
「うん、腕を上げたな。よし、もう一度」
「えへへ、ね、ボクって良い子だよね」
「ああ、良い子だ。もっともっと良い子になれば、石ではなく銃も持てるようになるぞ」
男の子は髭のおじさんに見守られて、岩に描かれた標的に、もう何度も石ころを投げていました。周囲は岩と砂ばかりの荒れ地。照り付ける陽射しが肌を焼き、時々巻き上がる砂塵が目と鼻を襲います。そんな場所でも男の子は幸せでした。髭のおじさんに良い子だと褒められる時は更に幸せでした。それから週に一度はもっともっと幸せになれました。
「うん、今度もいいな。さあ、これくらいにしておくか」
「ね、おじちゃん、今日は金曜日だよね」
「ふっ、それだけは忘れないな。付いて来い」
二人は石投げの練習をしていた荒れ地を離れ、居住区へ足を向けました。粗末な家と倉庫が点々とする居住区。住んでいるのは男の人ばかり。髭のおじさんは腰に下げた鍵束から一つを掴むと、大きな食糧庫の前に立ちました。
「ここで待っていろ」
戸を開けて中に入る髭のおじさんを見守る男の子。その目は期待でキラキラ輝いています。しばらくして中から出てきた髭のおじさんの手には、干し肉と水のボトルがぶら下がっていました。
「今週も良い子だったな。さあ、大事に食うんだぞ」
「ありがとう!」
男の子はお祈りをすると、水のボトルに口を付けました。いつも飲んでいる水とは全然違う、新鮮で少し甘味さえ感じられる水。それから干し肉。いつも食べている堅いパンよりもっと堅いけれど、噛めば噛むほど美味しくなる干し肉。でも、それらはどちらもすぐに無くなってしまう量でした。男の子は空になったボトルを髭のおじさんに返しながら言いました。
「ね、もっともっと良い子になれば、もっともっと沢山の美味しいお水や干し肉が貰えるんでしょう」
「ああ、そうだとも。倉庫の中には食べ切れないくらいの水や干し肉があるんだからな」
それを聞いて男の子は嬉しくなりました。そしてもっと上手に石を投げられるように頑張ろうと思いました。
2
昨日から檻の中に一人の若者が入れられていました。髭のおじさんの言うことには、若者は、ここからずっと離れた遠くの居住区で、ひどいことをしたらしいのです。
「あの人、悪い人なの?」
「ああ、そうだ。近付くんじゃないぞ」
髭のおじさんにはそう言われていました。けれども男の子は妙にその若者が気に掛かりました。
ある日の夕暮れ、石投げの練習が終わった後、男の子はそっとその檻に近付きました。よく見ると、他の男の人と違って髭がほとんど生えていません。やがて男の子に気が付いたのか、若者はこちらに顔を向けました。
「えっ……」
それは男の子にとってひとつの驚きでした。若者は男の子に向けて目を細め、口を少し開けて、頬を緩ませたのです。そんな表情を見るのは男の子にとって初めてでした。周りの大人はいつも厳しく険しい顔ばかりしているからです。
けれどもその表情は、男の子の心を不思議なほど穏やかにしてくれました。美味しい水や干し肉を食べる時の気持ち、それと同じ気持ちでした。
それはほんの一瞬の出来事でした。若者はすぐに男の子から目をそらすと、その視線を地に落としてしまったのです。男の子はなんだか少し寂しくなって自分の寝泊りする小屋へ帰りました。
自分の寝床へもぐりこんでからも、男の子の脳裏からは、あの時の若者の顔が消えませんでした。あの表情、今まで体験したことのない安らぎを与えてくれるあの表情をもう一度見てみたい、男の子はそう思いました。
3
しばらくしてまた金曜日がやってきました。いつも通りに水のボトルと干し肉を貰っても男の子はすぐには食べませんでした。
「なんだ、腹が減ってないのか」
「ううん。ね、これ後で食べてもいい? ボトルは明日返すから」
「それは構わんが。腹が痛いのならドクターに診てもらえよ」
髭のおじさんは少し心配そうな顔をすると、居住区の中心へ歩いていきました。
男の子は日が暮れるのを待っていました。これからすることを誰にも見られたくなかったのです。やがて日が傾き、辺りが薄暮に包まれ始めた頃、男の子はそっと檻に近付きました。若者は膝小僧に顔を埋めて静かに座っていました。男の子がそばに寄っても気付かないようでした。
「ねえ、起きてる?」
声を掛けられて若者は顔を上げました。その頬はこけ、うっすらと髭も生え始めていました。男の子は檻の鉄格子の間に手を入れると、水のボトルと干し肉を若者に差し出しました。若者の目が大きく開きました。立ち上がり、男の子に近付くと、かすれた声で言いました。
「これを、私に?」
「うん」
若者の目が細くなり、頬が緩み、小さく開いた口元から白い歯が見えました。それは男の子の脳裏にずっと焼き付いていたあの表情でした。男の子の心の中に、最初に会った時と同じ、不思議な安心感が広がり、同時に喜びの感情が湧き上がりました。やっぱりここに来てよかった、大事な水と干し肉を若者にあげてよかった、男の子はそう思いました。
「ありがとう」
そう言って若者が受け取った水と干し肉は、一口にも満たない量にしか過ぎませんでした。それでも食べ終わった後、その顔に浮かんだ表情は、男の子に更に大きな安らぎを与えてくれました。飲み終わった水の容器を受け取りながら、男の子は訊きました。
「ねえ、お兄ちゃんは悪い人なの?」
そう問いかけられて、若者の顔が少し暗くなりました。
「悪い人……そうだね。いくら命令だったとはいえ、君たちにあんな事をしてしまったのだから……でも」
若者の両手が鉄格子の間から外へ伸び、男の子の体を抱きしめました。
「君みたいな子が生きていてくれてよかった、本当によかった」
抱きしめられた男の子は少し恥ずかしくなりました。それですぐに若者の両手を振りほどきました。
「お兄ちゃん、今は悪い人でも、頑張ればきっと良い人になれるよ。そしたら美味しいお水も干し肉も、貰えるようになるんだよ。だから頑張って」
若者は返事をしませんでした。ただ黙って男の子を見ているだけでした。
「ボク、もう行くね」
「待って」
若者の手が男の子の腕を掴みました。
「いいかい、もうすぐ大きな鳥が飛んでくる。そしたらすぐにここを離れるんだ。そして大きな鳥の飛んでいく方へ向かうんだ」
「大きな鳥? ハゲワシのこと? ボク、何回か見たことあるよ」
「いや、違う、もっと大きな鳥だ。そしてその鳥は羽ばたかない。流れ星のように飛んでいく。その後を追うんだ。たった一人になってもね」
男の子には若者の言葉がすぐには飲み込めませんでした。でもそれはとても大切なことのように思われました。
「わかった、覚えておく」
そう言うと、男の子は自分の小屋へと帰っていきました。
4
その日はいつもよりも殊更暑く感じられました。太陽は空の頂上から容赦なく照り付けてきます。痛いくらいの陽射しの中、檻から出された若者は砂地の上に座らされていました。その周りを大勢の男の人たちが囲んでいます。もちろん、髭のおじさんも男の子もいます。
「今こそ裁きの時、さあ、石によってこの者に罰を与えるのだ」
みんなが若者に石を投げ始めました。体に、腕に、顔に、みんなの投げる石は若者を責め立てます。男の子は苦しくて仕方がありませんでした。この若者が悪い人だとはどうしても思えなかったのです。
「どうした。なぜ投げない」
髭のおじさんが言いました。男の子は石を握りしめたまま黙っていました。
「なぜ投げない。なぜこの者を罰しない」
男の子はうつむいたまま何も言えませんでした。逆らうことも従うことも、どちらもしたくありませんでした。髭のおじさんは怒ったように言いました。
「投げないお前は、もう良い子などではない。悪い子だ」
男の子の心が戦慄きました。悪い子……それは男の子にとって、何よりも辛い言葉でした。
「悪い子には罰が与えられる。いいのだな」
嫌だ! 心の中でそう叫ぶと男の子は顔を上げました。目の前には石に打たれている若者、その顔は赤く腫れ、血も出ています。男の子は石を持った右手を上げました。投げなくちゃ、ボクは悪い子じゃない、良い子なんだ、投げなくちゃ……しかし、男の子の右手は振り上げられたまま動こうとしませんでした。
この人に石を投げるのは本当に正しいの? 本当に良いことなの? もしこの人が悪い人ではないのなら、石を投げるボクは悪い子だ。投げたくない。でもおじちゃんは投げろと言う。ボクはどうすればいんだろう……男の子の胸は何かが詰まっているかのように、ひどく痛みました。
その時、若者の目が男の子を捕らえました。今はもう輝きを失い、ガラス玉のような若者の瞳。その瞳に男の子の苦しそうな姿が映った時、若者の表情は変わりました。紫色に腫れた目は細くなり、傷だらけの頬が緩み、口元は血を滴らせながら薄く開きました。最初に会った時、そして水と干し肉をもらった時、男の子に見せてくれた表情でした。
『大丈夫。君は悪い子なんかじゃない。たとえ私に石を投げたとしても君は悪い子なんかじゃない。君はいつだって良い子なんだ。さあ、その石を私にお投げなさい』
男の子の腕が力なく振り下ろされました。石は弧を描いて若者の膝の上に落ちました。
「もう一度だ」
髭のおじさんに言われて、男の子は石を取ると、今度は力を込めて投げました。その石が若者の額を打った時、男の子の額は誰かにぶたれたかのように痛みました。
やがて若者は前かがみにさせられると、その頭を切り落とされました。男の子は自分の眼前の光景が信じられませんでした。人間ではない、まるで人形のようなその姿に、男の子は恐怖と悲しみを感じました。ここに、こんな光景の中に、自分は居たくない……気が付くと男の子は走っていました。目から涙が流れていました。この場から逃げたい、遠ざかりたい、男の子はただそう思うばかりでした。
5
大きな音で目が覚めました。男の子は目を開けました。もう日が暮れて辺りは暗くなっています。岩に描かれた標的も闇に紛れてほとんど見えません。あの後、石投げの練習場まで走ってきて、そのまま眠ってしまったようでした。
ドドーン!
低く、地を揺るがすような大きな音。その音のする方に目をやった時、男の子は驚きの声をあげました。
「燃えてる!」
燃えているのは居住区でした。大きな音もそこから聞こえてきます。男の子は立ち上がると走り出しました。何が起こったのか、今、どうなっているのか見当もつきません。
「あっ」
走る男の子の頭上を大きな何かが爆音を立てて通り過ぎていきました。
「鳥……大きな鳥」
しかしそれは一瞬で見えなくなりました。男の子は気になりましたが、とにかく今は居住区を確かめるのが先です。そのまま走り続けてようやくたどり着いた時、その余りの惨状に男の子は息が止まりそうになりました。
「これは、どうしてこんな事に……」
満足に残っている建物はひとつもありませんでした。倉庫も小屋も集会所も、壊れたり燃えたりしています。男の人が何人も倒れています。みんな血を流していました。その中に髭のおじさんを見出した男の子は、かがみこんで体を揺さぶりました。
「おじちゃん、どうしたの、何があったの」
「お前か、ここは、もう駄目だ。これを持って、逃げろ」
髭のおじさんが差し出したのは腰につけていた鍵束でした。
「おじちゃん、一緒に逃げよう。おじちゃん、おじちゃん!」
男の子は何度も体を揺さぶりました。しかし髭のおじさんはもう返事をしませんでした。男の子は立ち上がると、言われた通り食糧庫へ向かいました。
鍵は必要ありませんでした。すでに壊れていたからです。中に入ると沢山の箱と革袋。けれどもその中身はほとんど空でした。わずかに残っている水のボトルと干し肉を革袋に入れて、男の子は外に出ました。
その時、また大きな何かが爆音とともに男の子の頭上を横切りました。今まで見たこともないくらい大きく、力強く、まるで流れ星のように彼方へと去っていく……
「大きな鳥、羽ばたくことなく飛ぶ、大きな鳥……」
男の子は革袋を肩に担ぐと、それが飛び去った地平目指して、しっかりとした足取りで走り始めました。