桃太と睡魔と三つのしもべたち 後編(三千字)(社内ファンタジー)
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「あ、キジ姫さん」
目を開けた桃太の前に居たのは、一ヶ月前にこの職場にやってきた、派遣OLのキジ姫である。
着任当日から、その清楚なルックスとテキパキと仕事をこなす優秀さに、一躍職場のアイドルになった女子社員。
彼女の出身地も出身校も好きな男の子のタイプも、桃太のそれとは全く異なっていたにもかかわらず、桃太はほのかな恋心をキジ姫に抱いていた。
(今日こそはキッチリと定時に仕事を終わらせて、彼女を食事に誘い、それからオシャレなバーで一杯やって、そ、それから、ちょっと休んで行こうよとか言って、あらぬ場所に彼女を誘って、そんでもって、十八禁なことを彼女と一緒に、ぐへへ)
などという実に不謹慎で身分不相応な妄想を毎日巡らせている桃太であったが、これまでキジ姫と口を利いたことは一度もなかったのである。それが今日、彼女の方から声を掛けてくれたのだ。桃太は感動した。
が、実のところは、眠ってばかりいる桃太に業を煮やした課長が、早急に彼を起こすよう、キジ姫に業務命令を下したに過ぎなかったのである。そうとは知らない桃太はすっかり有頂天になってしまった。
「こ、こんにちはキジ姫さん。何の御用ですか。えへえへ」
「何の御用ですかじゃないでしょ。もう、ドリンクの小瓶を咥えたまま眠るなんて、桃太さん、赤ちゃんじゃないんですから、シャッキリしてくださいよ」
「あ、うん、ごめん。でも、睡魔がこの会社を狙っているので、どうしても戦わなくちゃいけなくて」
「だから、それは単なる噂話ですよ。居眠りの言い訳はいいですから、仕事してください」
そう言われて我に返った桃太の耳に、睡魔の最後の言葉が聞こえてきた。「眠ければ眠るのが生物としての正しい行動……」思わず同意しそうになってしまった睡魔の言葉。桃太はそれとなくキジ姫に訊いてみた。
「ねえ、キジ姫さん、どう思う。眠るのを我慢してまでボクたち働く必要があるのかな。本能のままに行動するのが正しいんじゃないのかな」
「何を言っているんですか。人間は節度ってものが大切なんですよ。食欲のままに暴飲暴食を繰り返せば、体を壊すでしょう。物欲に負けて散財しまくれば、自己破産まっしぐらです。ねっ、睡眠欲に負けて寝てばかりいても、いいことはないんです」
「そうか、そうだよね」
桃太の中に再び闘争心が湧き上がってきた。危うく睡魔に騙されるところだった。さすが魔物、人の心を操る術に長けているなと桃太は改めて思うのだった。
「そうですよ。しっかり働かないとそのうち、課長に叱られますよ。はい、どうぞ」
どうぞと言ってキジ姫がデスクに置いたのは梅こぶ茶である。お茶なのでそれなりに眠気覚まし効果はあるだろうが、睡魔の新魔法、眠りの曲の前では立て板に水だ。桃太は少しがっかりした。
「ありがとね。でも、これじゃ望み薄かな」
「もう、仕方ないなあ。じゃあ」
突然、桃太は肩を掴まれた。掴んだのはキジ姫である。桃太の血圧が一気に上昇した。肉親以外の未婚の女性との接触なんて、高校の文化祭でフォークダンスをして以来だったのである。
「キ、キジ姫さん、な、何を……」
「眠気覚ましに肩を揉んであげますよ。ホラホラ、気持ちいいでしょ。私の特技のひとつなんです」
眠気は一気に吹き飛んだ。桃太の中で別の何かが目覚めたのである。
(うん、気持ちいいよ。じゃあ、今度はお返しにボクが揉んであげるよ。あ、肩じゃないところも揉んであげようか。肩なんかより、ずっと気持ちいいと思うんだ)
と言おうとした桃太であったが、セクハラと認定されるのは間違いないので言わなかった。
「はい、おしまい。もう眠っちゃだめだよ」
キジ姫は自分の持ち場へ戻っていく。名残惜しそうにその後姿を眺めながら、桃太は目を閉じた。
体が熱い。奥からマグマのように何かが湧き上がってくる。
勝てる、今の自分なら睡魔に勝てる。そう確信した桃太は、再び睡眠と覚醒の狭間へと我が身を投じた。
「おやおや、また来たのですか。せっかくあの可愛い女の子の声に助けられたと言うのに」
「黙れ、睡魔め。今のボクは眠りになど負けない。さあ、来るがいい」
「ふっ、強がりだけは一人前ですね」
睡魔は右指と左指を同時にパッチンした。漂い始める眠り粉。聞こえてくる眠りの曲。
しかし、桃太は動じない。手に持った梅こぶ茶の湯呑みを睡魔に投げつけると、大声で吠え立てた。
「目覚めよ、ボクの欲情。燃え上がれ、ボクのHいコスモ。睡魔を燃やし尽くすんだ」
「ケンケーン!」
桃太の体から放たれたコスモは雉の形となって睡魔に襲い掛かった。
ばら撒かれた梅こぶ茶が粉を消滅させ、鳴き続ける雉の声が眠りの曲を鎮静させる。
「どうだ、睡魔め。貴様の魔法はボクには効かないぞ」
「なんということだ、私の眠り魔法が完全に無効化されるとは……」
真っ赤に燃え上がる桃太を眺めながら、睡魔はその口元に笑みを浮かべた。潔く完敗を認めた笑みである。
「なるほど。毒を以って毒を制す。Hい欲で睡眠欲を打ち消したのですか。確かに人は睡眠時間を削ってまで、Hい行為をするものですからね。わかりました。今回は、あなたのHい力に敬意を表して引き下がりましょう。肩を揉まれただけで、そこまでHくなれるとは、あなたも大したお方だ」
どう考えても褒めているようには思えないので、桃太は顔を赤くした。
「う、うるさいな。別に若い女の子に触られて嬉しかったとか、そんなんじゃなくて、お前を倒すために仕方なくHい力を発動したに過ぎないんだからな」
「はいはい、今度は全裸を見ても微動だにしない、枯れた親父と戦うことにしますよ。では、御機嫌よう」
睡魔は去って行った。桃太は力を抜いた。同時に、全身を包んでいたHいコスモも消滅する。勝ったのだ。睡魔を追い払ったのだ。会社の危機を、自分の生活を守ることができたのだ。
「ふわ~」
勝利の喜びに感激する桃太は眠気を感じていた。睡魔の魔法による眠気ではなく、疲労と充実感に満ちた心地よい眠気。
睡魔に勝てたご褒美に、少しくらいこの眠気に体を委ねてもいいだろう。桃太はそう思いながら、熟睡の世界へと落ちていった。
* * *
「桃太君、起きなさい」
誰かに体を揺すられている感じがして、桃太は目を開けた。目の前におじさんが立っている。
「か、課長!」
叫ぶと同時に周囲を見回す桃太。誰も居ない。時計を見る。五時三十分。終業の時間はとっくに過ぎている。みんな帰ってしまったのだ。
「あ、あの、課長、こ、これは、あの」
「君、今日の午後、ほとんど眠っていたよね。一時から五時までの四時間、欠勤扱いにさせてもらうから」
「いえ、違うんです。会社のために戦っていたんです。睡魔と戦って、そして勝って、会社の危機は救われたんです」
「睡魔に勝ったって? 何を言っているんだね。睡魔に勝ったのなら、眠りに落ちるはずがないだろう。君は眠っていた、つまり睡魔に負けたんだ」
「いえ、眠っていたのは勝利した後の僅かな時間で、それ以外は睡眠と覚醒の狭間に居たので、眠っていたわけではなく……」
「君の夢の内容に興味はないよ。本来なら懲戒ものだが、その仕事を今日中に終わらせることで、なかったことにしてやる。ああ、無論残業はつかないよ」
桃太は自分のデスクを見た。イヌローに半分手伝ってもらったとはいえ、完全に手つかずの仕事がしっかり残っている。
「そう言えば、網走支社で人が足りないとか言っていたなあ。ここの部署から応援を出そうかな。それじゃよろしく」
「は、はい!」
課長は桃太の肩を叩いてオフィスを出て行った。
「会社の危機を、ボクが会社の危機を救ったのに……」
桃太は寂しかった。思わず涙が溢れそうになったが、泣いても仕方ないので仕事に取り掛かった。
省エネのため、終業後は全ての電源が落ちる。照明の消えたオフィスは薄闇に包まれ始めた。こんな時のための懐中電灯を引き出しから取り出すと、それを頭に括り付け、空調を切られてムンムンし始めたオフィスのデスクに向かう孤独な桃太であった。
以後、
第二章、飲み過ぎの午後。
第三章、夜遊びし過ぎの午後。
と続く予定でしたが、最初の一行が変わるだけで、他は一字一句同じ文章なので省略します。ではまた。




