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遊ふた地や田を見めぐりの神ならば(四千字)(時代物)

 


 壱



「今年の夏は暑うございますな。汗っかきの身にはいささか辛い毎日でございますよ」

「おまけに雨も少ないとくれば、天道に岩でも結わえて、朝になろうとも、上って来られぬようにしたくなるわい」


 隅田川を下る船の上で、其角は忌々しそうに言った。西の空に居座っている太陽は、まだまだ強烈な輝きを残している。其角の横に座る白雲も、顔をしかめて額の汗をぬぐった。

 元禄六年の夏は日照り続きだった。梅雨の時期もほとんど雨は降らず、たまに降ったと思っても半時もせずにやんでしまう。夏も終わろうとする六月の末、沼も池も枯れ始めていた。

 だが、船の上の二人は水不足など、どこ吹く風である。それを気に病むのは百姓の仕事と言わんばかりに、他愛ない会話を楽しんでいた。


「水がなければ酒を飲む、まったく其角殿の酒好きにも困ったものですな」

「そう言う白雲殿の色好みとて相当なものであろう。同じ穴の貉じゃ」


 其角は芭蕉の高弟にして、江戸一番の俳諧の宗匠である。連れ立つ白雲は其角の門人。廻船問屋を営みながら俳諧を嗜む風流人。懐の金に不自由はしない。今日は、これから吉原へ繰り出そうと、舟を用意して川下りと洒落こんでいる二人であった。


「うむ、それにしても喉が渇く。どこぞで休みたいものだな」

「ならば、少し先に三囲みめぐり神社があるはずです。境内には手水舎てみずやもありましょうから、そこで手と口を清めましょう」


 白雲の提案に其角は大きく頷いた。



 弐



 三囲神社は隅田川東岸にある稲荷神社である。昔、この地から見つかった老翁の像の周りを、白狐が三度巡ったことから、その名が付けられた。


「なにやら騒がしいな」

「これは太鼓と鉦の音でしょうか」


 船は船頭に任せて、岸に降りた其角と白雲は神社を見やった。いつになく人が大勢いる。火も焚かれている。音はそこから聞こえてくるのだ。


「はて、何かの祭りでもしておるのでしょうか」

「行けばわかるであろう」


 怪訝な顔の白雲を置いて其角は歩いていく。慌てて白雲も後を追った。


 理由はすぐにわかった。長引く干ばつに心を痛めた小梅村の農民が、神社に集まり、雨請い祈願をしていたのだ。焚火の前で雨請い踊りを舞う老若男女の真剣な表情に、さしもの其角も心引き締められる思いであった。

 二人は無言で境内に入り、目当ての手水舎で顔と手を清め、口をそそいだ。時折、木の葉を揺らす風には川遊びとは違う涼味がある。其角と白雲は木陰に腰を下ろし、しばしの間、農民たちの雨請い踊りを眺めていた。



 参



「そこのお方、もしや、和尚様ではありませぬか」


 ひとりの老人が二人に近づき、腰をかがめて話し掛けてきた。其角の坊主頭を見て僧侶と勘違いしたようだ。


「本日は参拝にお越しになられたので?」

「う、うむ。ここ数日、この神社で雨請祈祷が行われていると聞き及んでな」


 其角は言葉を濁しながら返答した。神妙な顔つきの老人を前に、吉原に行く途中、渇きを癒すために立ち寄ったとは、さすがに言い辛かったのだ。

 返事を聞いた老人は、いきなりその場に正座すると、頭を地に着けんばかりに平伏して言った。


「それではお願いでございます。かつて高僧、弘法大師様はその霊験あらたかな妙法により、水に苦しむ農民たちを何度も救ったと聞いております。和尚様も仏に仕える身なれば、雨請祈祷の請願文を発し、奉納していただけませぬでしょうか。されば、我ら農民の願いも必ずや聞き届けられましょう」


 老人の真摯な言葉を前にして、己が僧侶ではないと言い出すことは出来なかった。加えて、吉原へ向かう途中であるという若干の後ろめたさもあった。白雲は其角に耳打ちした。


「このような場に出くわしたのも何かの縁です。ここは発句のひとつも詠んでみてはいかがでしょう」


 其角は立ちあがった。奥の拝殿へと歩いていく。


「ご老人、今すぐ雨請い踊りをやめて奥へ集まるよう、皆に伝えなされ」


 白雲は老人にそう言い置くと、其角の後を追った。



 肆



 其角は拝殿に向かって立っていた。その横に白雲。そして、二人の後には小梅村の農民たちが集まっている。祈祷に疲れたのか無駄口も叩かず、皆、口を閉ざして其角の背中を眺めていた。

 天を仰いでしばし黙考していた其角が、両手を胸の前で組んだ。同時に大声で言葉を発した。


「江戸座宗匠、其角。かしこみて発句を奉る。夕立や田をみめぐりの神ならば!」


 これを聞いた白雲は、即座に感嘆の声を上げた。


「おお、これは能因法師の……」


 能因法師は藤原氏が権勢を誇っていた時代の僧である。伊予国、大山祇神社にて雨請いの儀を行った時、

『天の川苗代水にせきくだせ天下ります神ならば神』

 と詠んで奉納した。其角の発句はこれを踏まえてのものであった。


「おまけにゆ・た・かの三文字を詠みこんだ折句で五穀豊穣を祈願し、三囲と見巡りを掛けた洒落まで利かせておられるとは、さすがは其角殿」


 白雲の賛辞に満更でもない顔をしながら其角は振り向くと、こちらに向かって立っている農民たちを見回した。

 もう何日も雨請い祈祷を続けているのだろう、誰の顔にも疲労の色が浮かんでいる。その表情は先刻と何ら変わりはない。其角の発句を聞いても、その真価がわかる者はひとりもいないのだ。

 彼らが望んでいるのは雨、それだけだ。雨が降らなければ、どんな有難い言葉も妙法も、その心を動かすことは出来ぬのだ。

 其角は決意した。再び両手を胸の前に組み、大声で言った。


「我と共に、今ひとたび、発句を詠まれようぞ! 夕立や田をみめぐりの神ならば!」

 


 伍



 一瞬、周囲が揺らいだように白雲は感じた。何が起きたのか確かめようと境内を見回す。変わりはない。敷石も手水舎も遠くの鳥居も目の前の農民たちも……農民たち、いや、それは全員ではない。明らかに先ほどよりも数が減っている。


「あれは!」


 誰かが声を上げた。同時に皆の顔が南の空に向けられた。恐るべき速さで入道雲が盛り上がっていく。あっと言う間に空を覆い尽くし、灰色の雨雲に変わると、万雷の拍手のような音を立てて土砂降りの雨を落とし始めた。


「雨じゃ、雨が降ってきよった」

「有難や、和尚様のお言葉のおかげじゃ」

「まこと、弘法大師様じゃ」


 農民たちは口を開け、両手を上げ、喜びに顔を輝かせて、落ちてくる雨を受け止めている。其角は満足そうにそんな光景を眺めていた。

 一方、白雲は浮かぬ顔をしている。


「其角殿、もしや、あのわざを」

「言うな、白雲殿。一瞬でも夢を見られるのなら、それでよいではないか」


 本当にそうだろうか、と白雲は思わないではなかった。これは一時の夢、その後には現実が待っている。夢を味わってしまった現実は以前よりも一層辛くなるのではないか……

 白雲の胸は少し痛んだ。その想いを悟ったのか、其角は小さくため息をつくと、再び胸の前で手を組んだ。


「其角、挙句を申し上げる。天の川より水せきくだせ!」


 ――やはり、そうであったか。それにしてもこれだけの数の農民をよくも――再び揺らぎを感じながら、白雲は其角の持つ力の大きさに、改めて戦慄を抱かずにはいられなかった。

 


 陸



 そこは以前と同じ神社の境内だった。西の空は赤く染まり、まだ蒸し暑さが残っている。ただ、農民たちだけが違っていた。互いに言い争いを始めている。


「今、雨が降ったと思ったが」

「何を言う、雨など降っておらぬぞ」

「いや、間違いなく、あの灰色の空から」

「空は青いままじゃ。狐に化かされたのか」

「皆の衆、それはわしの言葉によるものだ!」


 農民たちの騒ぎを諌めるように、其角の大声が轟いた。


「言葉とは不思議なもの。梅干しと聞いただけで、それを口の中に放り込まれでもしたかのように、酸っぱさを感じ、唾が湧き出る。言葉とは奇妙なもの。好いたおなごの名を聞いただけで、あたかも目の前にいるかのように、胸は高鳴り、顔が赤くなる。されば此度も同じことよ。我が雨請いの発句を、その胸の内で心の底より唱えた者だけが、降り注ぐ雨を感じることが出来たのだ」


「なるほど」

「それは、そうかもしれぬが」


 其角の言葉に、農民たちは一応の納得をしたようだった。その中の数人はまだ狐に摘ままれたような顔をしてはいるが。


「さて、白雲殿。そろそろ参るか」


 其角はすたすたと歩き出した。白雲はそれに従う。

 先ほど声を掛けてきた老人が、二人に向かって深々とお辞儀をした。其角と白雲は笑顔を返すと、鳥居を抜けて境内の外へ出た。



 漆



「其角殿、あれだけの人数に業を使うのは感心致しませぬな」


 船に乗り込んだ白雲は、眉間に皺を寄せて注進した。其角は平気な顔をして、柔らかく吹いてくる川風に身を任せている。


「しかも、みだりに使ってはならぬと、芭蕉翁よりも言われておられるはず。もし耳に入りでもしたら、厳しく叱責されましょうぞ」

「ははは、それはいい。芭蕉翁は三月に甥の桃印殿を亡くされて以来、牙を抜かれた虎のように腑抜けておられる。わしの悪戯で腹を立てるほどの元気が出るなら、願ったり叶ったりじゃ」

「また、そのような憎まれ口を……」


 そう言いながらも、白雲にはわかっていた。農民の喜ぶ顔が見たい、ただその一心で其角は業を使ったのだ。それは純粋に其角の優しさの表れである。

 しかし、その人数があまりにも多すぎた。いかに其角といえど、相当な力を使ったに違いない。それが其角の心身にどれほどの影響を与えるのか、業を持たない白雲には見当もつかなかった。


「心配を掛けておるようだな。済まぬ、白雲殿。だがな、わしにはわかっておるのよ。このような業を使う者が天寿を全うできるはずがない。早晩、わしはこの業によって命を落とすことになるだろう」


 それは不吉な予言だった。白雲はもう何も言わず、其角が眺めている西の空を見やった。そこには富士が――こんな日照り続きでも白い雪を冠している富士の山頂が、不気味な静けさを保ちながら幽かに見えていた。





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