西風の話~4つの風の話その3(三千字)(童話)
西から風が吹いて来ました。西風がやって来たのです。
お日様はもう傾いて東の空は深い紺色に染っています。西風は自分がやってきた西の空を振り返りました。西の空は、まん丸のお日様を火元にして真っ赤に燃えています。いわし雲も橙色に焼けています。西風はため息をつきました。
「ああ、赤い。なんて悲しい色だろう。ひゅー」
西風は赤い夕焼けを眺めた後、今、自分が吹いている山の中を見回しました。山は赤や黄色や緑色でもうごちゃごちゃの美しさです。西風は用心して山の中をゆっくりと吹き進みました。
「ひゅー」
西風が通り過ぎると、黄色や朱色の葉がはらはらと枝から散ります。西風はそれを見ると、居たたまれない気持ちになるのでした。
「木枯しだ」
「木枯しが来たぞ」
森の中のひそひそ声が西風の耳に入ります。自分が歓迎されていないのは、西風にはわかっていました。どんなにゆっくり吹き進んでも、木の葉を落とすには充分過ぎる自分の風なのです。西風は立ち止まりました。
「ああ、葉を落とさないようにと、私はこんなに気を使っているのに、誰ひとり認めてくれない。ひゅー」
西風のため息でまた木の葉が一枚地面に落ちました。何かの赤い実が、枯葉の上で潰れています。
「私の行く所はいつでも悲しみでいっぱいだ。葉は落ち、実は落ち、草は枯れ、生き物たちは地面の下に隠れてしまう。木や草や生き物を悲しませるのが私の役目なのだろうか。だとしたら、なんて悲しい事だろう。ひゅー」
西風は今までに何度となく繰り返した独り言をまたつぶやきました。もう、慣れっこになっているはずなのに、それでも西風は辛い気持ちを捨て切れずにいるのです。
「木枯しだ、みんな隠れろ」
「なんて冷たいんだ、この風は」
森のあちこちから、こそこそした声が聞こえてきます。西風は耳を押さえて叫びました。
「ああ、そうだ。私は嫌われ者なのだ。みんなに好かれようとして、ゆっくり吹いたり、気を使ったりしたって無駄なのだ。それならいっそのこと……それ、びゅうぅぅぅー」
それまでのひっそりした吹き方をやめて、西風は森の中を思いっきり吹き始めました。強い風に吹かれて、木の枝からは一斉に木の葉が散り始めます。すでに地面に落ちている葉も舞い上げられて、森の中は沢山の色で、一層ごちゃ混ぜになりました。
「落ちる、落ちてしまう」
「みんな気をつけろ。西風が通り過ぎるぞ」
「早く行ってしまえ、この疫病神」
「ああ、ああ、憎まれている、恨まれている。私の居場所はどこにもない」
西風は狂ったような勢いでその森を駆け抜けました。みんなのひそひそ声や、悲しい嘆き声から逃れようと、何も聞かず、何も見ないで森の中を吹き過ぎました。
「私はどこへ行っても嫌われ者なのだ。何かを求めて吹いたりしてはいけないのだ。私はみんなに悲しみを味わわせるために吹いている。そんな私を好いてくれる者なぞあるわけがないじゃないか」
西風は山を通り過ぎてからも、同じ勢いで吹き続けました。耳を押さえ、目はしっかりと閉じたままです。そんな西風の背中に傾きかけたお日様の橙色の光が、冷たく当たっていました。
野原に一本の木がぽつんと立っていました。木の根元にはたくさんの茶色の枯葉が何枚も落ちて、枝にはもうたった一枚の葉が残っているだけです。
西風は野原の中に立っているこの木に気が付きました。そして、一枚だけ残っている葉を見て、自分の吹く力を弱めると、その木のそばをそっと通り過ぎようとしました。
「……」
その時、一枚だけ残っていた葉が音もなく枝から離れました。西風ははっとして振り向きました。
一枚の大きな葉が宙に舞ったと思うと、地面の上に散らばる枯葉の上にカサリと落ちました。西風は茫然とした顔で立ち止まり、頭を抱えて言いました。
「ああ、なんて事だ。また落としてしまった。それもこんなに緑の葉を。許して下さい。許して下さい」
西風はその時ひどく申し訳ない気持ちになっていました。それは自分の落とした葉がまだ緑で、とても生き生きとした葉だったからです。こんなに美しい葉に会ったのは初めてでした。
「気にしないで下さい。西風さん」
枯葉の上から緑の葉が優しく返事をしました。
「僕が落ちたのはあなたの所為じゃないんです」
「私の所為じゃない?」
西風は首をかしげました。
「どういう事ですか」
「僕が落ちたのはあなたに吹かれた為ではないのです。僕は自分で枝から離れたのです」
「自分で?」
西風は不思議そうな顔をしました。枝から離れるのを嫌がる葉はあっても、自分で枝から離れる葉があるとは、とても信じられませんでした。
西風は枯葉の上に乗っている緑の葉を見つめました。葉はそれ以上、何も言おうとしません。黙ったままです。夕日に照らされて、まるで枯葉みたいに少し赤くなっています。
西風は何とも立ち去りがたく、その場で少しふらふらしていましたが、思い切ってその葉に尋ねてみました。
「緑の葉さん、私は今までにたくさんの木の葉に会ってきましたが、あなたの様に自分から枝を離れた木の葉に会ったのは初めてです。もし、何か訳があるのでしたら、教えてくれませんか」
西風に問われて、緑の葉は静かに口を開きました。
「僕には約束があったんです」
「約束?」
「そうです。東風さんとの約束です」
緑の葉はゆっくりと話し始めました。
「東風さんと約束したのです。もう一度、東風さんがやって来るまで、木の枝に残っていて、緑に茂っている僕たちを見せて上げると。ああ、なんて馬鹿な約束をしたものでしょう。あのころ僕はまだほんの小さな木の芽だったので、何も知らなかったんです」
緑の葉は話すのを止めると、遠くを見るような目になりました。西風は何も言わずに聞いていました。
「みんな協力してくれました。僕の馬鹿げた約束を果たすために、この木も、僕の仲間の葉たちも、養分や水分を僕にどんどん回してくれました。そのお陰で僕はこんなに立派な葉になれました。しかし、どうでしょう。冷たい風が吹き始めると、みんな、すぐに枯葉になって枝を離れていきました。僕のために力を使い過ぎて、自分たちが大きくなれなかったからです」
緑の葉はまた口を閉ざしてしまいました。西風は何と言っていいのかわからず、木の根元の枯葉を少し吹きました。枯葉は西風に吹かれてカサコソと音を立てました。
「僕は一人でこの木にしがみついていました。みんながここまで協力してくれたんです。何が何でも次の春まで枝に残ってやる。僕は一所懸命頑張りました。けれども、やはり駄目でした。この木がもう限界なのです。僕を活かし続けるためにこの木は力を使い続け、このままでは枯れてしまいそうなのです。僕は思いました。僕の約束を果たすためだけに、この木を枯らしてしまってもいいのだろうか。だって、そうでしょう。この木が枯れればもう来年からは、きれいな緑の葉を、この木に生い茂らせる事はできなくなってしまうんですから。それも、僕なんかの我儘のために。だから、僕は……」
「枝から離れたのですね。」
西風は小さくつぶやきました。緑の葉は返事をせず、小さく頷くだけでした。葉の緑色が少し暗く見えるのは、お日様がだいぶ沈んでしまったからだけではないようでした。
「でもね」
緑の葉が幾分明るい声で言いました。
「僕はまだ諦めてないんです。来年の春までこの枯葉の上で頑張ってみるつもりなんです。だって、まだこんなに緑色なんですから。木には付いていないけれど、こうして立派な緑の葉になっている僕の姿を見れば、東風さんも喜んでくれると思うんですよ」
西風は何も言えませんでした。それが如何に難しいかは、この葉もわかっているに違いないからです。けれども、明るく振る舞う木の葉に合わせて、西風も明るい調子で言いました。
「そうですね。頑張って下さい。私もこれから東に向かうので、もし東風さんに会ったら、早くここに来るように言っておきます」
「ありがとう、西風さん」
緑の葉はそう言ったきり、すっかり黙ってしまいました。西風はそれ以上何も言わずにその木から離れました。緑の葉も何も言わずに見送りました。
「ひゅー。ああ、悲しみばかりだ。ひゅー」
大分進んだ後で、西風は後を振り向きました。野原の木はもう小さくなり、夕焼けの逆光の中で黒い影となって浮かんでいます。この野原が冷たい冬に覆われるのも、もう間もなくでしょう。
西風はひゅーと息を吐きました。その息は西風も驚くほど冷たいものでした。けれども西風の心は、以前よりもほんの少しだけ温かくなっていました。




