東風の話~4つの風の話その1(四千字)(童話)
東から風が吹いて来ました。東風がやって来たのです。
「やあ、みんな。久しぶりだね。僕はまたやって来たよ」
東風は自分の下に広がる大きな野原に向かって、明るい声で言いました。野原には茶色い枯草がまだ残ってはいるのですが、青い草や小さな花があちこちに見えます。
東風に吹かれて枯草がカサコソと音をたてました。地面から伸び出たばかりの細長い草も、みんなでゆらゆら揺れました。東風はそれを見て嬉しそうに笑いながら、野原を西に向かって吹いていきました。
しばらく行くと野原の中に、きらきら光りながら静かに動いていくものが見えてきました。小川です。小川は野原の中を北から流れて来て、ちょうどこの地点で西へと向きを変えています。東風は小川を見つけると、大きな声で呼びかけました。
「小川さーん、こんにちは。びゅううー」
東風はあいさつと一緒に、小川に向かって勢いよく吹き付けてやりました。小川の水面が揺れて、水面の光があちこちに飛び散りました。水もちゃぷちゃぷ言っています。
小川は突然流れを乱されたので、ずいぶんびっくりした様子です。慌てた声で言いました。
「だ、誰ですか。いきなり」
「はは、小川さん、驚かせてしまったみたいだね。僕ですよ、東風ですよ」
東風は愉快そうに言いました。その声を聞いて、小川の表情が変わりました。
「ひ、東風さん。本当に東風さんですか」
小川の声は嬉しそうです。東風は返事の代りに、小川に向かってまた吹き付けてやりました。小川の水面が大きく揺れました。
「おおっと、東風さん、久し振りです。そうですか、もう東風さんが来る季節になったのですねえ。それにしても東風さんは相変わらずですね」
「そう言う小川さんも、元気がよさそうじゃないですか」
「ええ。何と言っても、今年は雪解け水がたくさん流れて来てくれたものですから」
小川はそう答えながら、水をざぶざぶ言わせました。東風はそれを聞いてにっこり笑いました。
「小川さん。それじゃあ今年もまた、しばらくの間ご一緒させてください。もしお邪魔じゃなければ」
「邪魔だなんてとんでもない。私はね、東風さん。この時期にこうしてあなたと一緒に流れて行けるのが本当に嬉しいのですよ。それに私も東風さんに吹かれて、とても気持ちがいいのです。さあそれじゃあ、さっそく行きましょう」
東風はこの野原を通る時には、西に向かって流れているこの小川と一緒に行くことにしているのです。こうして小川と東風は、野原の中を西に向かってのんびりと進んで行きました。
青い空にはお日様がぽかぽか照っています。東風も小川も何も言いません。聞こえてくるのは風に揺れる草のざわざわする音と、水の流れるさあさあする音だけです。
「ああ、どうしよう」
川岸から小さな声が聞こえてきました。東風は吹き方を緩めて耳を澄ましました。小川も流れを少し遅めました。
「ここは枯草ばかりだ。これじゃあ、すぐに死んでしまう」
東風は声のする辺りをじっと見つめました。川岸に枯草が丸く固まっています。その中で一匹の虫が、なにやらもぞもぞ動いています。東風は虫に声を掛けました。
「虫さんどうかしたのですか」
「あれっ」
虫は周りを見回しました。けれども誰も見当たらないので、不思議そうな顔をしました。
「おかしいな、気のせいかな。確かに誰かの声が」
「虫さん、私です。東風です」
東風はもう一度虫に声を掛けました。虫はちょっと驚いた顔をしましたが、すぐに嬉しそうな顔になりました。
「東風さんでしたか。あなたのおうわさは伺っていますよ。するともう春がやって来たのですね。ああ、それにしても」
虫の顔はまた曇ってしまいました。東風は尋ねました。
「それにしてもどうしたのですか。何か困っているようですが」
「やあ、実はね、この場所なんですよ。ほら、この周りを見てください。枯草ばかりなんですよ。これじゃ食べ物が無くて、いずれ餓死してしまいそうです。本当になんだってこんな所に出てきてしまったんだろう。ああ、困ったなあ」
虫は枯草の中でもぞもぞと体を動かしました。東風は虫の困った様子を見ても、にこにこ笑っているばかりです。
「ふふ、虫さん簡単なことですよ。むこうの野原ではもう青い草がはえかかっているのですから」
「え、東風さん、それはどういう」
虫が言い終わる前に東風は思いきり吹きました。
「そおれ、虫さん。僕が一吹きで向こうまで飛ばしてあげますよ。びゅうううー」
東風の一吹きを受けて、虫はあっというまに空高く舞い上がりました。
「うわあー、ほんとだ。向こうには青い草が生えている。東風さんありがとう」
嬉しそうな声が空高くから聞こえてきました。やがて虫の姿は見えなくなってしまいました。
「虫さん、無事に大きくなれるといいですね」
小川が虫の消えていった空を見上げながら言いました。
「ねえ、東風さん、あっ」
小川は東風に同意を求めたのですが、すぐに言葉を切ってしまいました。東風は相変わらずにこにこしています。
「ごめんなさい、東風さん。東風さんは」
「いいのですよ、小川さん。確かに僕は大きくなった虫さんを見ることはできません。虫さんだけじゃない。ここにある枯草がやがて緑の草になるのも、それから青い草が一面に広がる野原を見ることもできません。僕が見られるのは、まだそんなのよりはずいぶん前の景色ばかりです。でもね、それでもいいのですよ」
東風はまたゆっくりと吹き始めました。小川も一緒に流れ始めました。
「みんなの無事な姿を見られればそれでいいのです。僕が吹いて来るのを見て、みんなが元気になってくれればそれでいいのです。それにね、小川さん」
東風は小川の水面に息を吹きかけました。小川の川面が少しゆらゆらしました。
「みんなが無事に大きくなったことは、こうして小川さんに聞けるじゃないですか。また今年もお願いしますよ」
「ああ、そうでした。東風さん。いや、今年もいろいろありましたよ」
小川は今年あった出来事を東風に話し始めました。話しながら、水をじゃぶじゃぶ言わせたり、時々流れを遅めたり早めたりして東風を驚かします。東風はふんふん聞きながら、時には驚いたような大風を吹かせて進みます。二人はそうやってどんどん西へと進みました。
「やあ、もうこんな所まで来てしまいましたか」
東風が言いました。まっすぐ西へ流れていた小川は、ここから流れを南に変えているのです。
「おや本当だ。もうこんな所まで来てしまいましたか。では今年もここでお別れすることにしましょう。東風さん、御機嫌よう」
「小川さん、さようなら」
東風は小川にそう言うと、また西へと吹き始めました。
野原に一本の木がぽつんと立っていました。葉はすべて落ちて灰色の枝が空に伸びているだけなのですが、枝には小さな芽が幾つも付いています。東風は野原に立っている小さな木に気付くと、空から舞い降りてきました。
「こんにちは。また今年も無事に会えましたね」
東風は木の枝を揺らしながらそう言いました。木は何も言わずに立っています。東風は小さな木を見つめました。
「君もやがては緑の葉に覆われて、この野原に涼しい木陰を作るのでしょうね。けれども僕が見られるのは小さな芽のついた枝ばかりです。それは君だけじゃなく、どこへ行っても同じ風景ばかり」
東風は野原を見回しました。東風が吹くのをやめているので、野原は静かにしています。
「小川さんにはあんな事を言ったけれど、僕はいつでもなんだか不安なのです。この木は本当に緑の葉をつけるのか。それから、虫君は本当に大きくなるのか。この野原は本当はずっとこんなふうに枯草に覆われたままなのじゃないのかって。だって僕はこんな景色しか見たことがないのだもの」
東風は木の根元を見つめました。そこにあるのは土と石ばかりです。東風はため息をつきました。
「東風さん、どうしたんですか。あなたらしくもない」
木の枝についている芽の一つが東風に話し掛けました。
「さっきから聞いていましたよ。東風さん。東風さんは僕たちが緑の葉っぱになっているところを見たいんでしょう。そんなの簡単ですよ」
「簡単?」
「そうですとも。簡単な事です。また東風さんが吹いて来る来年の春まで、僕はこの木の枝に残っていてあげますよ。そうすれば、東風さんも納得するでしょう」
小さな木の芽が元気な声で東風にそう言いました。東風はなんだか悲しそうな顔で、木の芽の話を聞いていましたが、やがてにっこり笑うと、
「ありがとう、木の芽さん。それを聞いて僕も安心しましたよ。僕のためにそんなことを言ってくれるなんて、とても嬉しいです。本当にありがとう」
とお礼を言いました。
「お安い御用ですよ、それぐらい。じゃあ、来年もまた吹いて来て下さいね。約束しましたよ」
自信たっぷりな木の芽の言葉に、東風はもう一度にっこり笑うと、少し寂しそうな顔をしました。それからゆっくりと空に舞い上がりながら言いました。
「さようなら、木の芽さん。来年まで元気でね」
「東風さーん、約束ですよー。必ず吹いて来てくださいね」
小さな木の芽は舞い上がる東風に向かって大きな声で叫んでいましたが、やがて聞こえなくなってしまいました。東風はまた西へと吹き始めました。
「ああ、お日様。あなたのおかげで、みんなとても元気です。僕もみんなの元気な姿に会えて、とても嬉しかったです。これからもあなたの明るい日差しでこの野原を照らしてあげて下さい。そして僕の代わりに、緑の葉に覆われた立派な木や、大きくなった虫たちを見守ってあげて下さい」
東風は空の上で輝いているお日様を見上げました。それから勢いよく西に向かって吹き始めました。




