6 懐かしの学び舎
*
クーシャと分かれ、人だかりから逃げるようにして裏道を抜けるセル。だが、裏道を超えた場所にも人は大勢いる訳で。
「皇子?」
「おお、皇子様だ!」
「セイルド皇子、ばんざーい!」
「セイルド! セイルド! セイルド!」
「ソラト! ソラト! ソラト!」
「だー! 別にそんな盛大に叫ばなく良いってばさー!?」
酒も入って気分が良くなった者達が口々にセルを称える歓声を上げる。急いで城に戻ろうにも、人だかりが凄くて一気に抜けられない。どうしたものかと考えていると、見知った顔がそこにあった。
「あれ? 皇子じゃん。まったくどこ行ってたんだよー」
「ヨカイさん!? やっと見つけた……って、なんでおれがはぐれたみたいに言ってんですかあなたは!!」
片手に串焼き、片手にビール。場末の酒場にいそうな出で立ちで現れた血迅騎士団団長。なぜか責める様な視線をセルに向けている事に納得が出来ない。女性の尻を追っかけて迷子になったのはあんただろうに。
だがここで彼女を見つけられたのは幸いだ。もう城を抜け出して結構な時間が経っている。そろそろ戻らないと、本気でノゾミの雷が落ちるだろう。
「とにかく戻りますよ? もう十分楽しんだでしょう?」
「えー、まだまだ遊び足りねーんだけど。そだ、なんならこれからあたしのオススメの店に行かねえ? これが結構可愛い子が面倒見てくれる訳よ。色々とさあ」
それはいわゆる大人のお店なのでは?
確かにセルとて年頃の男の子。そう言ったお店には多少なりとも興味はある。だが、今は興味よりも恐怖の方が勝っていた。
ブンブンと首を横に振り、自分は無関係ですとアピールする。
「い、いやいや、おれは遠慮しときます、マジで!」
「ちぇ、お堅いんだから。ま、いいや。それならあたしは――」
誰に――?
「ほう。何処へ行くつもりなんでしょうね? 血迅」
「はぁ? そりゃおまえ、可愛い女の子をペロペロしに……ん? 今の、声は……」
――ヨカイの後ろでどこまでも冷たい視線を送っているノゾミに対して。
「…………」
「おや? どうしました清華様。どこかへ遊びに行くのでは無かったのですか? 貴女の与えられた任を忘れ、享楽に沈むのでは?」
ニコニコとした表情なのに、目だけは少しも笑っていない。それが余計に恐怖を引き立て、その場に冷たい空気が流れた。周囲の民衆も異様な空気を察してか顔を逸らしている。
何とか言い訳を考えようと頭を回転させているヨカイ。
「あ、あー。そのだな、あたしはちょっと大切な用事が――って、うぉっ!?」
にへらと笑って宥めようとするも、無言のまま剣が振るわれる。ノゾミはヨカイの持つビールと串焼きを的確に斬り飛ばし、笑っていない瞳のまま問いかけた。
「それは皇子を放って遊ぶ程に大事なのですか? 先ほどの事があったにも関わらずすぐに皇子から目を離し、あまつさえ自分だけが楽しむ事が許される程の?」
「そ、それは、だな……」
チラリと助けを求めるヨカイの視線。だが無茶を言わないで欲しい。こんな触れれば即斬れるような殺気を放つノゾミに対して口を挟める程の度胸はない。そんなものがあればお披露目パーティーの度にゲロを吐く事など無かっただろう。
とは言えこのままにしておけば市街地で二体の聖獣がぶつかり合う事態になりかねないなのも確かだ。流石にそれはセルも勘弁願いたい。
「……もう結構です。やはり貴女に皇子を任せたのが失敗だったようですね。この方がどれほど重要なのかも分からぬ愚者など、彼の周りには相応しくありません」
「ハァ? おいおいちょっと待てよ、確かにちょっとは悪かったけどそこまで言う事は……」
「ちょっと? 皇子の守りを疎かにして、ちょっとで済ませる気ですか? まったく、白斗光様と言い清華様と言い――死なねば分かりませんか?」
「――ッ!?」
ゾクリとする殺気と共に彼女の頭上に魔鳥が召喚される。白と黒の羽をはためかせ、敵意の込められたガラス玉のような目がヨカイへ向く。それに反応し戦闘態勢を取った。
ヨカイの召喚獣はノゾミのニヒトと同じく幻獣種、エキドゥナ。その巨体はニヒトの比では無く、こんな街中で喚び出していい代物ではない。だがキレたノゾミを相手に召喚獣抜きでやり合うのは自殺行為だ。喚び出さざるを得ない。
そうなっては皇都が壊滅的な打撃を受けてしまうだろう。
「ノ、ノゾミさん!」
そんな事は誰も望まない。セルはありったけの勇気を振り絞りノゾミに声をかけた。
「こ、これをどうぞ!」
「えっ?」
手に持っていた物を差し出す。それは先ほど、占いと共に購入した銀の髪飾りだ。
羽を模した一対のヘアピン。ノゾミはパチクリと目を瞬かせ、そろそろとそれを受け取った。
「まあ、綺麗……えっ? も、もしかして皇子……これを、私に?」
「え、ええ、まあ……その、あんまり高いものではないですけど、ノゾミさんに似合うかな、なんて……」
信じられないと目を見開いているノゾミに、コクコクと頷くセル。ボーっとそれを眺めた後、彼女は顔を真っ赤に染め上げた。
「お、お、皇子が、私のために……」
ぷしゅう、と煙が頭から噴き出すのが見えた気がした。
ノゾミ程の美貌を持つ者ならば贈り物を受け取る事など沢山ありそうなものだが。セルは少し疑問を浮かべながら彼女の反応を見守った。
「私に、似合う……皇子が、私に、似合うって……」
硬直しているノゾミ。召喚獣であるニヒトもどうしていいのか困惑しているように見える。チラリとヨカイへと視線を向けるが、そちらも目の前の事態に付いていけないのか混乱中だ。余程彼女の今の姿に驚いているのだろう。
しかし良く考えれば今がチャンスだ。
「ノゾミさん!」
「は、はい!?」
「勝手に出かけたのは悪いと思っています! でもおれもこの国の空気を直に肌で感じて見たかったんです! 本当におれが皇子で良いのか、本当におれを歓迎してくれているのかを。こうして変装して、色々見て回って、少しですけど分かりました。皆、楽しんでいたのが。だから……」
とにかく勢いだ。良さ気な雰囲気に持って行って、ヨカイを何とか許してもらおう。もしくは、忘れて頂きたい。
「帰りましょう。後の事は皇城に帰ってから決めれば良いんですから」
「皇子……そう、ですね。いつまでもこのような所に皇子をお待たせするなど許されませんね」
必死に笑みを見せ、余裕を持った態度だと思わせる。見事にその術中にハマったのか、顔を赤くしたノゾミがコホンと咳払いをしながらニヒトを戻した。
「清華様。取りあえずは保留にしましょう。貴女の処遇は国皇に判断して頂きます。よろしいですね?」
「ゲッ――親父さんにかよ……仕方ねぇな」
ふん、と顔を背けるヨカイ。そちらへは視線を向けず、ノゾミは深々と頭を下げた。
「それでは皇子。お戻りになりましょう。浴場の準備はさせておりますので、まずは身をお清めになって下さい。そのような薄汚いお召し物に肌をつけていては、気分も悪くなりますでしょう?」
ジロリとヨカイを睨みつけながら、棘のある言葉を口にする。セルとしてはそこまで悪い服ではないと思うのだが……。まあ、確かに皇族が着る様なものではないか。
周囲を警戒するノゾミを先頭に、興奮冷めやらぬ民衆の視線に晒されながらその場を後にするのだった。
「……で、何であたしはこんな所でデッキブラシ持ってんのかね?」
皇城へと戻ったセルと分かれてから、ヨカイはノゾミの有無を言わさぬ命令を受け城の手洗い場にいた。そこで手渡されたバケツとブラシ。さらにトイレ用洗剤や掃除用具を押し付けられた。どうしようかと思案していると、トイレの扉が開き誰かが現れる。
「むっ、貴様も来たのか」
「ハッ? なんでセイジュウロウがここに?」
縁無しの眼鏡をかけた美丈夫の姿に、思わず可笑しな声が出た。しかも現在の彼の出で立ちはヨカイと同様、エプロンに三角巾を身につけている。
ヨカイの言葉が不快だったのか、ムッとした表情のまま苛立ち交じりの声をあげた。
「貴様には私がここで訓練をしているように見えたか?」
「んにゃ、どう見てもトイレ掃除してるようにしか見えねえ」
「ならばそれが正解だ。それ以上でも以下でもない」
ハァ? と疑問の声を出すヨカイだが、それ以上の説明はないようだ。ただ黙々とデッキブラシでトイレの床を磨いている。
「何をボーっとしている。貴様もこの任務を与えられたのだろう? 騎士ならば例えどんな任務だろうとやってみせろ」
「任務って……これ、単なる罰だろ? あ、もしかしておまえも……」
ヨカイがシグルド皇に与えられた罰則は、トイレ掃除である。そしてセイジュウロウが犯した先ほどの失態の罰則もまた同様であった。
わざとらしい咳払いをして、無理やり誤魔化した。
「ンホンゴホン! 早くしろ、今日中に終わらなくなるぞ?」
「ハァ? 終わらなくって……トイレ掃除なんてすぐ終わるだろーが」
確かに皇城のトイレは広いが、それでもそう多くの時間が掛かる程ではない。だがそれは、トイレ一つであると言う前提の話である。
「何を言っている? 罰則は皇城のトイレ全てに決まっているだろう?」
「……へ? ちょ、ちょっと待てよ! 全部? この皇城の!?」
「そうだ。大方、話半分にしか聞いていなかったのだろう? なんなら空翔にでも聞いて来たらどうだ? 何と答えるか、容易に想像できるがな」
「うぐっ……!」
空時国の皇城はかなりの広さがある。それと同様に、トイレの数も二桁はあるだろう。それら全てを掃除するとなると、二人だけではそれこそ一日掛かりの大仕事だ。もちろん、掃除夫には手出しを禁じており、他からの助けなど期待は出来ない。
「ク、クソッタレ! なんつー性格の悪さしてやがんだあの冷血女!?」
「……まあ、そこには同意するがな。結局貴様は何をやらかしたのだ?」
さっさと終わらせて夜の街に足を運ぼうとしていたヨカイはセイジュウロウの言葉など耳にも届かず、掃除中ずっと恨み事を吐き出し続けるのだった。
そんな恨み事など露知らず、ノゾミは自室にて書類整理を行っていた。隊から出た報告書や、課題、果ては不満や小さな愚痴すら細かに見ていく。一区切りがついたのか、紙束からフイと視線を外した。
そこには銀製の羽を模した髪飾り。
「~~ッ!」
ヘアピンを視界に収め、何を思い出したのか顔を真っ赤にする。思わず手に持っていた報告書をグシャ、と握りつぶしてしまった。
「ふぅ……」
数秒かけて落ち着きを取り戻し、ヘアピンを手に取る。キョロキョロと周りを見渡し、殺風景な部屋の中から鏡台を見つけてそこへ移動した。
全身を見る事の出来る大きな鏡に顔を寄せ、ヘアピンをバツの字に付けて自分を客観視する。
髪は汚れていなく、健康状態は問題ない。少々疲れているのか魔力に乱れが生じているが特に大きな弊害にはならないだろう。
「……ダメですね、私は」
無意識に自分のコンディションをチェックしてしまうあたり、騎士として長く過ごし過ぎた。もう少し年頃の少女のように振る舞えれば、彼女の主も困惑しないのだろうが。
とは言え、今さら性格を変えられるはずもないので如何ともし難い。
「こんな時、彼らならば……」
彼女らしからぬ気弱な言葉が口をついて吐き出される。ノゾミの頭には慣れぬ生活に身を置くセルの姿があった。
机に戻り、パラパラと書類を眺めていく。
「おや? これは確か……」
目に止まった一枚の紙を持ち上げ、上から下まで熟読していく。書かれているのは何と言う事の無い招待状。今までも貴族の間からパーティーの誘いは来ていた。重要なものはこの三日で回りつくせる程度しかなく、これも同じだろうと後回しにしていたのだ。
だが良く考えて見れば、この場所は今のセルならば是が非でも行きたい場所だろう。
「……そうですね。これなら、多少は息抜きになるかもしれませんね」
備え付けられた通話機を手に取り、部下への番号を押した。それが終われば、国皇への伺いを立てねばならない。今が重要な時期だとは分かってはいるが、いつまでも元気の無い主は見ていたくないのだ。
「キリエですか? ええ、少し確認したい事があるのですが……」
天蓋つきの広いベッドでうつ伏せになりながら、セルは疲れた顔をしていた。それでも何処となく楽しそうだったのは、祭りの気に当てられたのだろうか。昔ならば祭りの後は一晩中騒いでいたため、どうにも熱が冷めないのだ。
よっ、と声を出しながら立ち上がり、首に提げられた銀のアクセサリーを目の前まで持って来る。
「不思議な人だったな」
軽い感じの女性だった。商人とはとてもではないが見えず、かと言って僧侶とか職人と言った雰囲気ではない。強いて言うとすれば、やはり占い師だろうか?
「何だかんだで、あの人の言う通りにはなったし」
アクセサリーを二つで良いと言ったセルに対し、彼女は三つを勧めて来た。そのおかげでノゾミの怒りを街中で爆発させずに済んだのだ。これはやはり、偶然では無かったのだろう。
「……」
『貴方と心を分かちし者達は絶望の淵から足掻き出しました。ですが、黒き底から逃れられずにいる者がいるのもまた事実。このままではその者との再会は為し得ない』
だとしたら、彼女が自分に行った予言はどのような意味なのだろうか。聞く限り、良い意味と悪い意味の二つが読み取れる。
「心を分かちし……これ、多分皆の事だよね? ……いや、どうだろう? 何かちょっと不安に思えて来るんだけど、まあ取り合えずそう仮定しておこう」
何かしたら大体こちらになすり付けるようにしていたクラスメイト達を思い浮かべ、無理やりながら納得しておく。その仮定が正しければ、絶望の淵から逃れられた事になる。これはやはり、あの幻想種悪魔、アバドールの事だろう。
「やっぱり、皆生きてるんだよね?」
自らに言い聞かせるようにセルは強い口調で口にする。だが、その後の予言を思い出し、僅かに顔を曇らせる。
「逃れられない者……どう言う事だろう? 全員が逃げられたって訳じゃないのか? それに、このままではって……」
分からない事だらけだ。やはりもっと深く聞いておくべきだっただろうか。
チャリ、とアクセサリーを持ち上げ、睨むようにして見つめる。
「鍵はこれが握ってる、って事で良いのかな? って言っても、そもそも今のおれじゃあ何も出来ないんだけどさ」
ポイ、とベッドに放り投げ、力無く横たわる。現状、セルは外に出る事が許されていない。そもそも一国の皇子がそう簡単に外へ出ていけるのだろうか。何となく、勝手に抜け出してそうなイメージがあるのだが。
流石にノゾミの許可無く外へ出る訳には行かないだろう。そもそも、今彼が行きたいのは杯羅地方だ。徒歩で行くとなると何日かかるか分からない。先日は天馬車だった為比較的早く到着したが、鬱蒼と茂った森を超えるには相応の準備が必要となるだろう。
ならばいっその事ノゾミに直接頼んでみてはどうだろうか。
(……今日の感じからして、ちょっと無理そうだよなぁ)
先程目にした大激怒ノゾミさんを前に、遊びに行っても良いかい? など言える勇気は、生憎とセルには持ち合せていなかった。
「はぁ……」
行き詰まればため息だって自然とこぼれる。結局答えは出ないまま、ボーっとしながら長い時間を過ごしていた。
するとそこへ控えめな扉を叩く音が聞こえて来た。
「皇子、少しよろしいでしょうか?」
「へっ? あ、はい、どうぞ!」
透き通るような声はこの数日で何度も耳にした、ノゾミの声。ヨカイへと向ける冷たいものとは違い、とても温かい声がセルの胸に染み入る。
セルの了承を得て扉が開き、そこからはメイド姿のノゾミが現れた。
「夜分に突然失礼します。少々お耳に入れておきたい用向きがありまして」
「用? おれに?」
皇子とは言われてはいるが特別な才能がある訳でもない。そんな自分に一体何の用があるのだろうか、疑問に首を傾げながら顔を向ける。
「はい。実は皇子をご招待したいと申請されている場所があるのですが、こちらとしてはあまり重要
な案件でないので招待に応じようか迷っているのです。ですので、ここは皇子に参加するか否かをお決めになって頂こうかと」
「え、えぇ!? そ、それってどう言う……」
彼女の言葉に驚きと共に目を見開いた。今までも招待と言われてパーティーのようなものに参加した事はあったが、その時はほぼ無理やりだったはずだ。何故今になって決定権を与えて来るのだろうか。
疑問に思い次の言葉を待つ。
「それでその相手なのですが……杯羅地方にあります杯羅騎士養成学校。そこの学園長並びに教員生徒一同、皇子のご帰還をお祝いしたいとの事です」
「っ!?」
杯羅地方。しかも騎士養成学校。ちょうどセルが行きたいと思っていた場所である。ノゾミの言葉に目を丸くし、次いで彼女がクスリと小さく微笑んだ事に気付いた。
(もしかしてノゾミさん……おれのために?)
今日まで沈んでいたのは彼女が一番近くで見ていたため分かっていたのだろう。それを察して、こんな形で故郷の帰還を認めてくれたのではないか。推測でしかない考えだが、何にせよ、彼にとっては渡りに舟のこの状況。賛成しない理由が無い。
「もちろん行きます! えっと、お願い出来ますか、ノゾミさん?」
「御意に御座います。皇子の御心に従うのが臣下の役目ですから」
にっこりと笑って頷くノゾミに、思わず抱きつきそうになる程喜ぶセルであった。……もちろん、そんな事は出来るはずもないのだが。
「ど、どうしてこうなった……」
人のいない巨大な廊下を歩きながら、セルはグルグルと回る頭を抱えていた。目の前には巨大な一室の扉。その豪奢っぷりから見てもそこが誰の部屋なのか、すぐに理解出来る。
何故こうなったのか、それはつい先ほどの話である。
杯羅へ行く日は二日後の明朝に決まった。色々と準備があるのは理解しているので素直に了承し、セルはベッドに倒れ込もうとする。だが、それを止めたのはノゾミだった。
『杯羅地方へと向かわれる皇子へ国皇様からお話があるようです。何やら大切な話があるのでお一人で部屋に来るようにと。それが今回、杯羅へと行かれる事への条件なのだそうですよ?』
メイド姿で小首を傾げて言うノゾミ。可愛いらしい、と思うよりも先に話の内容に耳を疑った。
国家元首が。一対一で。自分なんかとお話。
字面だけで吐きそうになった。
それから先は簡単で、追いやられるように部屋を出され、ノゾミに途中まで案内された。今も恐らく後ろからこちらの様子を見守っているのだろう。彼からすれば監視されているようなものだが、それはともかく。
廊下に設置された鏡に自分を映す。嫌だなー、と表情が雄弁と語っている。流石にこれで国皇と対面は出来ないだろう。無理にならない程度の笑みを浮かべてみせ、よし、と気合を入れる。作り笑いならば自信はあるのだ。良く教師の嫌味にもこれで対応していたのだから、問題は無い。
「こ、国皇陛下! セイルド・無・空時、参上いたしました!」
ビシリと直立不動で声を張り上げる。
一秒、二秒。少しの間をおいて、部屋から威厳のある声が聞こえて来た。
「そうか。入るが良い」
「……(ひぃいん)!」
最早涙目である。
それでも必死に顔を繕い、扉を押した。大きさの割にはすんなりと開き、国皇の寝室へと入室する。
「ほ、本日はお日柄もよろしけれけ……えぇと、お久し振りです、国皇陛下!」
上手く言葉が出て来ないため、ほぼ勢いでやり過ごす。それも仕方ないだろう。ベッドから体を起こしセルを見る国皇の眼差しはとても強く、眼光だけで心臓の弱い者など殺してしまいそうだ。
事実、セルは既に半死半生である。
「おお、久しいな、我が息子よ。この三日、あまり会えず済まなかった。生憎と体を壊していてな。不自由は無かったか? 無礼な者がいれば四慈陽にでも言うと良い。明日には全てすげ変わっているだろう」
(こ、こえぇえええ!?)
ハッハッハッ、と笑ってはいるがこの人物の事を考えれば最早笑い話のレベルでは無かった。ノゾミに、と言う所が余計にリアルさが感じられる。恐らく、家臣の不満など口にすれば文字通りその人物の首は胴体と永遠の別れをしてしまうだろう。
「は、ははは。いえ、突然の帰還にも関わらず皆良くやってくれています。本当に」
「そうか? それならば良いのだがな」
流石にそれは心の弱いセルには出来ない。家臣の命を守るのも主の役目、セルは何度も頷いた。
「さて、お前を呼んだのは他でもない」
話を唐突に変え、セルの父親であるシグルド・無・空時は真面目な表情を作った。
「お前はこれから杯羅地方へと向かうそうだな?」
「は、はい! 騎士養成学校から招待されておりますので、そちらへ顔を出そうかと」
「ふむ。皇子である以上、様々な場所にお前の帰還を知らせる必要があった。そう考えれば、お前自身が各地を巡った方が良いのは確かだ」
一応、ノゾミの設定した建前ではそう言う事になっていたはずである。実際は単純な行動原理なだけだった訳だが。簡単に言えば、友人を探しに。
とは言えそれで納得してくれているのであれば、セルとしても御の字だ。流石の皇子様も国皇がダメと言えば何も出来ない。
「では……」
「しかし、だ」
(ひぅ!?)
髭をなぞる様に顎に手を添え、シグルドは厳しい表情を一層厳しく変化させた。
思わず悲鳴が漏れそうになったのは内緒だ。
「あの地は色々と難しい。と言うより、お前とは凄まじく相性が悪い土地だ。北寄りの東国境付近、皇都から見て北東の方角にある。それがどういう意味か、分かるか?」
「忌方……ですね?」
突然の問いに、慌てながらも答える。その答えに満足したのか、シグルドは小さく頷いた。
「この世に生まれ出た者全てに苦手とする方位……占い程度の力しか無いのだが、お前は昔から忌方には何度も痛い目を見てきた。生まれてすぐに北東の窓から落とされたり、北東の崖から落ちたり、北東の森で迷子なって三日三晩木の上で泣き叫んでいたり」
「え、そんな事があったんですか?」
聞いていて良く生きてるな、と思う様な事がシグルドの口から発せられた。セルには記憶が無いため確認のしようがないのだが、どこか遠い目をしている彼からは異様な説得力が感じられる。
皇様、コホンと咳払い。
「とにかく、お前の忌方への弱みは本物だ。このまま行かせるのは少々心配でな。そこで」
ゴソゴソとベッドの下に手を突っ込み、埃に塗れた一本の剣を取り出した。
「これをお前に渡そう。なに、ちょっとしたお守り代わりだ」
「わ、と……」
ポイ、と放る様にセルの胸元に押し付ける。鞘は装飾の無い黒い革で出来ており、柄の部分も薄汚れた金属で作られている。肝心の中身は、と鞘から引き抜くと、黒ずんだ刀身が現れた。
「不格好で剣としては二流も良い所だが……これまで幾度となく私の命を救ってきた代物だ。忌方くらい吹き飛ばしてくれる。杯羅へと向かうのならば、肌身離さず持っていろ。それが行く事を許可するための条件だ」
「わ、分かりました。国皇の配慮に、最上の感謝を」
ペコリとお辞儀をし、顔を上げて苦笑するシグルドの顔を視界に収める。
「出来れば父と呼んで欲しいものだがな」
「も、申し訳ありません……未だ記憶が戻らず……」
「良い、分かっている。ただ人として過ごして来たのならば、その混乱も当然の事。……今日の所は下がると良い。何かあれば、ノゾミに言え。今のお前に心から仕えているのはあ奴くらいだからな」
「……」
何かを言おうにも、シグルドの眼光に阻まれて口を噤んでしまう。
結局、セルは小さく頭を下げて退出した。
「……き、緊張した……」
扉から出て、廊下の隅まで移動すると肺に溜まった空気を全て吐き出す様にうずくまった。まるで夢を見ているような状況だが、片手に持つ汚れた剣が現実なのだと訴えている。
改めて渡された剣をマジマジと見つめた。
「お守り、か。それにしては大きいよなぁ……なにか曰くでもあるのかな?」
剣の良し悪しは分からないが、騎士学校にいただけあって多少なりとも扱える。素手よりはマシだろう。と言うか、名剣なんて貰っても恐れ多くて振るのが躊躇われるだけだ。その点に関しては、このボロ剣が自分には合ってるんだと、納得していた。
「出発は、明後日……皆、無事だよね?」
思いは既に杯羅地方へと。そして、彼のクラスメイトへと向けられていた。
*
天馬車に乗るのはこれで二度目だ。そもそも天馬車とは騎士と契約を結んだ者達しか扱えない代物だ。それはつまり、皇族に限られる。そんな高嶺の花と思っていた乗り物にこうして腰を下ろしているのは、中々に複雑な心境であった。
取り付けられた小窓からは空翔騎士団の騎士達が天馬車を中心に、護る様に空に展開されている。天馬車のすぐ側には黒と白の羽を持つニヒトがおり、彼の背にはノゾミがいた。
ヨカイ達他の騎士団は今回同行していない。セルは知らない事だが、先日の襲撃を受け、皇都が狙われるのを警戒してそちらの防備に専念しているのだ。
その事に若干思うところのあるノゾミだが、国皇直々の命には如何に彼女であろうと逆らう事など出来ない。空翔騎士団を全て連れて来る事で渋々ながら納得した。
「……にしても、この状況で学校に戻るのか。色々、大変そうだなぁ」
何が、とは言わず。
空翔騎士団は全ての人数を合わせておよそ五百程。他の騎士団と比べると人員は少ない人数だ。それは一重に、空を駆ける事の出来る召喚獣がそう多くないと言うのが理由である。空域制圧を旨とする彼等は、何よりも空を飛べなければならない。そのため、自然と入団のハードルは上がるのだ。
「皇子、そろそろ杯羅地方です。騎士学校までもうしばしの辛抱ですよ」
「あ、うん。ありがとう」
ジー、と彼女を見ていたら嫌な顔一つせずニコリと微笑んでくれた。それに驚いて視線を外そうとするが、急に顔を背けられては失礼だろうと思い直し、曖昧な笑みを返す。
礼をして周囲の警戒に戻るノゾミ。彼女の姿は騎士服に純白のマントと、正装だ。いつもメイド服を着ているため、こちらの姿に若干の違和感を覚えてしまう。最強騎士の一角としてはこちらが本来の姿ではあるのだが。
その彼女の髪型は、普段通り飾り気の無いストレート。以前プレゼントしたヘアピンは付けてはいなかった。
(まあ、それもそうだよね。プレゼントしたからって付けてくれるかは本人次第な訳だし。ノゾミさんならもっと良いのを持ってそうだから当然か)
ちょっと残念だ、と苦笑する。だがセルは知らない。本当は汚れてはいけないからと大切に宝石箱に仕舞われているのを。
皇都から出発して三時間。ようやく杯羅地方へと到着した。
杯羅騎士養成学校は杯羅地方の東、杯琉川の近くに建てられた歴史ある騎士学校である。始まりは空時国が出来上がったのと同時期に開校したとも言われている。
ここよりさらに東に行けば、五日程前にセルが模擬演習を行った森林地帯である。天馬車から降りたセルは、一瞬そちらへと視線を向けてすぐに頭を振った。側には学園長と思しき初老の男性と、数人の教員。それと数人の生徒が控えている。
彼等の顔を、セルは良く知っていた。学園長はそんなに交流は無かったが、集会になれば嫌でも目につくし、教員達も学園内を荒らしまわっていたセル達には見知った顔だ。何度説教され、頭を殴られたことか。それも大体がクラスメイト達の代わりに、だが。
嫌な記憶に一瞬顔を顰め、次いで生徒たちを見る。彼等も交流こそ少なかったが、それでも何度かお世話になった人達だ。学生達の代表、いわゆる生徒会の面々で、中には友好的だった先輩もいた。
その誰もが、セルに対し最大限の敬意を放っている。拳を握り、右手を自身の心臓の位置に置いている。それはこの国で上位の者を前にした時に行う作法の様なものだ。
生徒会長の顔を見て若干表情を暗くし、すぐに立ち直る。
「ようこそおいで下さいました、皇子殿下。私は本学園の長、オルバー・明・多動。以後、お見知りおきを」
「はい、こちらこそお招き下さり感謝します。空時国が国皇、シグルド・無・空時が子、セイルド・無・空時です」
この数日間で何度か言ってきた言葉を終え、チラリとノゾミに視線を送る。その視線に気づいたようで、彼女の方で学園長と話を勧めていた。視線を外し、周りを盗み見る。
空翔騎士団の面々がバリケードとなっているその向こうでは、物珍しそうにこちらを眺めている生徒達がいた。その中にはやはりというか、知った顔もちらほらと映る。彼等からすれば信じられないような光景だろう。実際、セル自身未だに信じられないのだから、それも当然だ。
「ん?」
ふと、そこで視線が感じられた。いや、それも当たり前ではあるのだが、好奇な視線とはまた違ったものだ。何だろう、と見渡してみる。
「皇子殿下、それではお部屋にご案内いたします。どうぞこちらへ」
「あ、はい」
学園長に促され、セルは周囲に気を配るのを止めて彼の後を付いて行く。その最中も、視線は常に付き纏っていた。
通されたのは学園長室だった。三階建て校舎の最上階に位置し、眺めは良好だ。落ち着いた調度品は趣味が良く、やたらと煌びやかな部屋で過ごしていたセルにとって落ち付ける部屋だった。特にガラスのケースに入れられた陶芸品は個人的に目が行った。
シックなソファに腰を下ろすと、学園長がにこやかに微笑んだ。
「本日は放課後に皇子殿下に捧げるささやかな歓迎会を催す予定です。それまでこの小さな部屋で恐縮ですが、お寛ぎ下さい。お茶とお茶菓子をお持ちしますので、少々お待ち願います」
「えっと、どうぞお構いなく。この部屋も、とても居心地が良いですよ」
「ほほ、それはお褒め頂き何よりです。老後のささやかな趣味で色々と集めているのですが、これが中々奥が深いもので。中には安物なんぞを掴まされてしまいます。たまに悪ガキどもが勝手に持って行っては茶碗で飯を食いよるんですよ。まったく、学園内のどこで飯など炊くのやら」
「ぶっ――」
思いっ切り身に覚えのある話に思わず咽せてしまった。
(そうだ、どこかで見たような物だと思ったらカケル達が家に持って来てたやつじゃないか! あれ、学園長の私物だったの!?)
結構雑に扱ってしまった茶碗をマジマジと見つめる。
「あ、あの、これなんかは結構高価な物なんですか?」
「おお、流石は皇子殿下! お目が高いですな! それは二百年前のユーザン・山海と呼ばれた陶芸家の作品でしてな、現在の価値に直して五百万ゴールドは下らない代物なのですよ」
「へ、へー、そうなんですかー」
すみません、それでうちのクラスメイト達はキャッチボールをしていました。割る前に取り上げて本当に良かった。
クラスメイトの凶行に身震いし、セルは深く座り直した。
「おっと、そろそろ歓迎会の準備に行かなくては。それでは皇子、ごゆっくりなさって下さい」
「ええ、お気遣いありがとうございます」
優雅に一礼して退室する。
ふぅ、と息を吐き、天井を見上げた。
今この場所にはセルが一人だけだ。扉の前には空翔騎士団の騎士がいるらしいが、こちらには入って来ない。ノゾミは現在騎士団の配置を指示している。学校の周りだけでは無く、杯羅の町まで視野に入れているらしい。
結果、こうして一人の時間を与えられた訳だが……どうにも、奇妙な感覚に苛まれている。
「なんか、変な感じ……」
その理由が良く分からず、イライラと頭上を睨みつけた。
「ん? あ、どうぞ」
どれくらいそうしていたか、ノックの音で我に返った。慌てて居住まいを正す。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
カチャリと扉が開き、現れたのは学校の制服を着た女子生徒だった。彼女の手にはティーカップなどが置かれたお盆があり、その隣には色とりどりのお菓子が盛られた皿を持った少女がいる。
片方はつい先ほど見た、生徒会長の少女だ。そしてもう一人は、
「あ……ローゼ!?」
先日、お互いを励まし合って生き延びた女生徒、ローゼ・咲・園緒だった。
「お久し振りです、皇子殿下……」
以前は泥と埃に汚れていた青髪も、今では綺麗なサファイアのようだ。服装も少しの皺も無く、リボンも綺麗に付けられている。
思わぬ所での再会に、セルは嬉しそうに破顔した。
「良かった、無事だったんだね? 救出されたって事だけは聞いてたんだけど、こうして確認できて良かったよ……」
「はい。皇子殿下こそ、ご無事で何よりでございます」
「ローゼ? どうかしたの?」
どこか淡々と話すローゼの様子に訝しげな視線を向ける。彼女はビクリと身を強張らせ、深く頭を下げた。
「申し訳、ありません……! どうか、私の事などお気になさらないで下さい! 貴方様には、最上の感謝を……それでは、失礼いたします!」
「ちょっ、え? ローゼ?」
一体どうしたと言うのか、ローゼは急ぎ身を翻して出て行ってしまった。
呆然と彼女の背中を見送り、一体何事かと首を傾げる。
「やれやれ、仕方ないと言えばそれまで何だけど……」
ハァ、と残された生徒会長が小さく吐息した。そこでようやく彼女がいた事に気がついたセルは、気まずそうに盗み見る。
「えっと……お、お久し振りです、エゥラさん……」
「ええ、ご無沙汰していますわ、皇子殿下」
「……あの、その喋り方」
「うふふ、皇子殿下にご無礼な口など聞けませんから。それに、私はこれが普通の話し方なのですけれど?」
似非お嬢様口調でクスクスと笑う生徒会長に視線だけで一言。ウソ吐け、と。
とは言え、見た目だけを見れば間違いなくお嬢様ではあるのだ。腰ほどまである黒髪に整った顔立ちは、冷たい印象を思わせる。
だがセルから見れば、印象は真逆だ。優しいとは言えないかもしれないが、困っていたら全力で助けてくれる。まるで、彼女の従妹と同じように。
「……ごめん、なさい」
「……何を謝る事があるんだ? キミは」
素の口調になってセルを見つめる。その瞳には、慈愛の色が映し出されていた。
きっと彼女は許してくれる。それが恐くて、セルは言い淀んでいた。けれど、このまま黙ってはいられない。意を決して彼女と真正面から相対する。
「おれは、皆を……ユゥリを見捨ててしまいました。あなたの、家族を」
「……」
杯羅騎士養成学校の生徒会長、エゥラ・陽菜・名星はセルのクラスメイト、ユゥリ・雛・名星の従姉なのだ。セルも彼女には昔から良くして貰っており、彼女がいかにユゥリを可愛がっていたのかを知っている。当の本人はウザがっていたが。
そんな彼女に、ユゥリ達の事を言うのは気が引けた。だが、それでも最後まで言わなければならない。それが共にいたセルの責務なのだから。
「模擬戦用の剣を持って、皆あいつに向かって行きました。それでおれを逃がすために、ユゥリが……」
「ま、ある程度は分かるよ。どうせ多数決でもしましょー、とか言ったのだろう? 然もありなん。あの子達は、そういう集まりだからな」
分かっていると言わんばかりに大仰に手を振り、エゥラは苦笑してみせた。
「だが、だからと言ってキミが責任を負う必要は無い」
「でも……」
「違うな。言い方を変えようか。責任なんて負うな。彼等はそれを望んでいる」
断言し、ニッ、と白い歯を見せて笑う。
「大体だな、うちの可愛い妹ちゃんはそんな簡単にくたばるようなタマじゃないさ。そこは間違いないよ。絶対にね」
「そう……ですよね?」
根拠の無い自信だ。だが不思議と彼女の言葉を聞いて気が楽になったセルがいる。
きっと言って欲しかったのだろう。大丈夫だ、皆は無事なんだと。自分だけでは足りないから、他の人からも。特に、ユゥリを良く知るエゥラから。
そこまで気付き、セルは自分に対する自信の無さに顔を歪めた。
「ありがとうございます、エゥラさん」
「その顔はありがとうと言っている顔ではないが……まあ良いさ。今は取りあえず、な。キミも皇子様なんだから、もう少し胸を張った方がいいと思うぞ?」
「あはは……本当、なんでこんな事になったのやら」
苦笑してこれまでの時間を思い返す。結局、答えは出ないのだが。
「そうだ、エゥラさんがローゼを連れてきてくれたんですよね? ありがとうございます、彼女も心配だったんで、元気そうな姿を見れて良かったです」
「ああ、それは何よりだ。元々、彼女達ての願いだったからね。キミにお礼を言いたかったんだろうさ」
「お礼って……別にそんな事言われるような事はしてないんだけどな。むしろこっちがお礼しなきゃいけないくらいだし。……それにしては何か避けられてるみたいだったけど」
先ほどの様子を思い出し、若干気を落とす。健全な青少年としては可愛らしい少女から避けられては良い気分にはならないだろう。
「……避ける、とは少し違うかもしれないな」
「えっ?」
だが、今回のは少しばかり違うのだが。
「キミが今何者か、それはキミが一番良く分かっているだろう?」
試すようなエゥラの視線に、思わず身を固くする。謎かけのような問いを、セルは少しの思考時間も無く答えた。
「この国の、皇子、ですか?」
「正解だ。そして、彼女は皇子に対して真っ当な反応を示した。皇とは敬い、尊ばれる者。そんな人物に命を救われれば、委縮するのは同然だ」
「で、でもっ! その時はまだただの学生でしたし……それにおれは別に敬われたくなんか……」
「それも僅かに時間が前後したに過ぎない。その間に変わったのは、彼女か、キミか。望む望まざるに関わらず、キミは変わってしまった。変わって得るモノもあれば、失うモノがあるのは……当然だろう?」
「うぅ……」
確かに、先ほどの彼女の態度は皇城でセルに接して来る人間のものだ。先日まではまだ普通にお互いの事を話せていたのに。
たったの数日で、ここまで変わってしまったなんて。
「同情はする。キミに対する変化は大き過ぎた。今まで通りに過ごすには難しい程に」
一息つき、真っ直ぐな瞳がセルを射抜く。
「もしそれでも以前通りに接する事が出来る者など、怒りに我を忘れた愚か者か、本当に心を分かち合った友だけだ。そしてそこへは、きっと私は入れない」
「えっ?」
急な言葉に思わず疑問の声が出た。
「私はあくまでこの学園の生徒であり、生徒達の長だ。上の者への礼を尽くさねばならない」
「で、でもエゥラさんは今もこうして……」
「私が」
「っ!?」
静かな口調がセルの言葉を遮った。瞳の奥には何も見えず、まるで感情を覆い隠してしまっているようだ。
初めて見るそんなエゥラの姿に、冷たい汗が噴き出す。
「私がこの部屋に来て、何度キミを名前で呼んだ? ――答えはゼロだ。私の中では、キミはセイルド・無・空時なんだ。1‐Cのクラス委員長、セル・空では無い。それを……どうか理解して欲しい」
「あ……」
全身の力が抜けるようだった。伸ばしかけた手は力無くソファに沈み、立ち上がる力さえ残ってはいない。ただ虚ろに目の前の少女を縋る様に見つめていた。
「……あまり長居をしてはいけないな。申し訳ありません、セイルド皇子。私はここで下がらせて頂きます」
優雅な一礼。全校集会で良く見た、不特定多数へと向ける動作だ。それが今、セルだけに向けられている。それだけで、如何に自分が特別なのかを思い知る。
「エゥラさ……いえ、分かりました。ご苦労、様です」
「……」
パタリと閉じた扉の音が、異様に大きく聞こえていた。
「……」
ドアを閉じ、セルを一人残して外に出たエゥラは瞑目している。ドアノブからは未だに手が離れず、下唇を固く噛み締めていた。
「ご苦労様でした、名星様」
そんな彼女に、柔らかな声が届けられる。誰もいない廊下から現れた人物へと視線を向け、吐息した。
「いえ、それほどでもありません、四慈陽様。ただ、皇子殿下に現状をお教えしただけですから。……貴女様のお言葉通りに」
若干気が昂っているのか、言葉の端に棘が見える。普段ならば目上の相手に対してこんな事はしないエゥラだが、余程腹に据えかねているのだろう。
彼女の言葉も軽く受け流し、ノゾミは労わるように頭を下げた。
「それは結構。感謝いたしますわ、名星様。……皇子には、現状を正しく理解して頂かなければなりませんから」
「それは、貴女様の個人的な欲望のためですか? それとも――」
「もちろん、全ては皇子の……そして、あの子達のためです」
「あの子達? それは、一体……」
そこで初めて、敵視するような視線から訝しげなそれへと変わった。
「……現状、皇子個人への味方はあまり多くはありません。当然ですね。突然現れた学生をどうして本気で皇族だと信じられるのでしょう?」
「それは、確かにそうだな」
早くも素の言葉遣いに戻ったエゥラは、小さく頷く。ノゾミは彼女を気にせず訥々と言葉を発していった。
「ですが事実彼は皇子です。護るべきお方に、本気で護る者がいないなど笑い話にもなりません。私はこの命もあのお方のためならば捨てる事は出来ますが、たった一人で最後まで護り切る事など不可能。そのために、今は少しでも味方が必要なのです」
「それが、貴女の言う《あの子達》?」
頷き、続ける。
「もちろん現状を理解し、皇子自身でも状況を打破して頂ければ一番良いのですが、それでも心から通じ合った者がいなければ皇子は潰れてしまう。外からも、内からもです。――外敵からは私が護りましょう。ですが、心を護るのは私では……きっと叶わない」
小さく、悲しげに囁く。
その様子に感化されたのか、エゥラも同様に瞳を揺らした。彼女も自分では彼の心を護り切れないと理解しているからだろう。
「そのために、あの子達、か……。確かに、それは理想だ。だが、彼等が本当に全員生きているのか、まだ分からないのだろう?」
「生きていますよ。貴女が従妹さんを信じられるように、私は私で彼等を信じるに足る理由があるのですから」
そう言って微笑み、人差し指を口元に掲げ、小さく囁いた。
「内容は、秘密ですけれど」
その仕草をエゥラは少しだけ信じられる気がした。
順調に字数が増えていきます。書いていて気持ち良いですよね、長いと。
評価等、お待ちしています!
2014 11/21 追記
誠に勝手ながら、六話の一部を一話へと移動させて頂きました。物語の進行に変更はありませんので、これからもソラトの皇をよろしくお願い致します。