4 皇様の生活
遠くからラッパの音がする。それが朝の起床時間を示すものだと知ったのは、つい二日前の事だった。
「う、んん……」
鼻腔をくすぐる甘い香りに眠っていた意識が覚醒する。包み込む程に優しい温もりの羽毛布団に、沈んでしまいそうになるベッド。目を開けば、薄手のカーテンが巨大なベッドの周りを覆っている。
今までとは違う朝の訪れに、思わず意識を遠くへと飛ばす。つまりは、現実逃避である。
十年前に記憶を失くしてから、彼は騎士学校の敷地の隅にある小屋で暮らしていた。その小屋と言うのが随分とボロボロで、冬になれば隙間風と寒さに身を震わせていた。それもそのはず、その小屋は元々ウサギ小屋だったらしく、彼のクラスメイト達がそれを修繕して住めるようにしただけなのだ。
良くも暮らせていたと思う。強い風が吹けばベニヤ板が飛んで行き、雨が降れば必ずと言っていいほど雨漏りが起こる。固い床に薄い布を敷いただけのベッドは翌朝には体の節々が痛くなった。
それでも不平不満は口にした事はなかった。子供だけで作ったものとしては中々の物だったし、内緒で代わる代わる泊りに来てくれた友人たちがいたからだ。結局その後親にバレてこってりと絞られていたようだが、それでも翌日には変わらず遊びに来てくれた。
「みんな……」
いけない、と首を振る。なにかあるとすぐに皆を思い浮かべてしまう。既にあれから三日も経ったのだ。思い返すだけではなく行動しなければと自らを奮い立たせる。
「……よし」
嘆くのを止め、意識を完全に覚醒させる。体を起こそうと力を込め、
「おはようございます! 皇子、お目覚めでしょうか?」
突然かけられた声にビクリと体を硬直させた。
失礼します、と言ってカーテンが退けられ、少女の顔が現れる。起きかけの体勢に、目を丸くし、すぐににこやかな笑みが向けられた。
「おはようございます、皇子。今日も一日、よろしくお願いします」
「は、はい……」
メイド服を着た少女の笑顔に気圧され、引きつった笑みしか出来ない自分が情けない。けれど、それも仕方ないだろう。そもそもメイドと言った類のものとは無縁であったのだ。それに加えてカーテンを退けられて現れた部屋の全貌を視界に収め、若干頭がグラついた。
自分が寝ていたベッドだけでもかなりの大きさがあったはずだ。大人が5、6人寝てもまだ余りそうな程であり、そんなベッドを二十はおけるであろう凄まじい広さの一室。もちろん殺風景な部屋ではなく、やたらと難しそうかつ高価そうな本が敷き詰められた本棚や、これまた高価そうな調度品が並べられている。壁にはだれが描いたのか分からないが、やはり高いのだろうと思える絵画が掛けられていた。
初めてこの部屋に通された時、このベッドの上だけで生活できる、と思ったのは内緒である。
カチャカチャと紅茶の用意をしているメイドの後ろ姿を眺めながら、この部屋の主である少年、セイルド・無・空時は顔を顰めるのだった。
少年は少しまでは普通の少年だった。記憶喪失ではあったが、それでもまだ一般的な騎士を目指す学生であった。
激変したのは、三日前。騎士学校の試験で非常事態に遭遇し、天災級の悪魔から逃げ回っていた。それを解決したのが、この国で最強と名高い三人の騎士であり、身に余る光栄だと体を震わせた。
――それが別の意味で震えあがったのはその直後。最強の騎士たちは一斉に跪き、信じられない事を口にしたのだ。
「――お迎えにあがりました、我らが皇よ」
はっ? と呆けてしまったのは仕方の無い事だと思う。ただでさえ混乱している時にそんな事を言われたのだ。思考が止まってしまうのは当然の成り行きである。
ポツポツと小さな雨粒が乾いた荒野に染みを作り、呆けている間にも次々に染みが出来る。なにかを言おうと口を開くが、声が出ない。
セル・空は助けを求めるように視線をさ迷わせ、バッチリと一人の騎士と目が合ってしまった。
「ご安心ください、皇……いえ、皇子。今はまだ混乱していると思いますが、それもすぐに落ち着きましょう。取りあえず、このような所にいてはお体に障ります。向こうで馬車を待たせていますので、どうぞこちらへ」
「え、あ、はぁ……」
そう言って恭しくセルの手を取った少女を凝視する。
ノゾミ・翼・四慈陽。空翔騎士団と呼ばれる騎士団のトップであり、その実力は並の騎士百人分とも言われている。また絶世の美少女であり、そのカリスマ性からもファンが多い。雑誌などにも良く載っており、三騎士の中でも一番の知名度を誇るだろう。
セルの視線に気づいたのか、ふふ、と口を隠しながら微笑んだ。
「まあ、そんなに熱い眼差しを向けられては困りますわ」
「い、いやあの……ごめん! 別に変な意味じゃなくて、その、雑誌とかで見るよりも綺麗だなって……ってなに言ってんだおれ!?」
ズイ、と詰め寄った彼女の顔を間近にして上手く言葉が纏まらない。顔を真っ赤にしながら慌てふためくセルの言動に、ノゾミは嬉しそうな反応を示した。
「ありがとうございます、皇子。とても、とても嬉しく思います!」
「え、と……どうも」
「うっわ、ノゾミがこんな笑ってるの見ると背筋が寒くなる……」
「あ、えっと、清華さま」
普段から言われ慣れていると思ったのだが、心から喜んでいるような笑顔に呆気に取られてしまう。ニヤけている彼女の横からもう一人の女性が口を挟んだ。
彼女もノゾミと同様に三騎士の一人である、ヨカイ・車・清華。血迅騎士団の団長であり、彼女は現国皇にその才覚を見いだされスカウトされたらしい。メキメキと腕を上げ、僅か五年足らずで一つの騎士団の長になった実力派の女性である。また、その漢らしさから女性ファンが多く、さらに彼女自身が同性愛の気があるとも噂されている。
「はっはっはっ、様付けなんて止してくれよ皇子様! あたしの事は気軽にヨカイでいいからよ」
「は、はぁ……」
豪快に笑っているヨカイに呆気に取られた。雑誌などでも彼女の性格は大らかだと書かれていたが、どうやらその通りだったようだ。
だがそれを不快に思う人物がこの場にいる訳で。
「清華様。皇子に向かってその言葉遣い……不敬です。改めなさい」
先ほどとは一転した不機嫌顔でヨカイを見る。不穏な空気にも関わらず、ヨカイは気にせずセルの肩を叩いた。
「あん? 別に良いじゃねぇか、なあ?」
「は、はぁ」
瞬間、ヨカイのいた場所に剣が振り下ろされた。
「……え?」
すぐ隣に刃が通り過ぎ、思わずそちらを向く。だがそこには既にヨカイの姿はなく、一歩離れた場所でノゾミを睨みつけている。
「おいテメェ、今本気で殺ろうとしやがったな?」
「当たり前でしょう? 皇子に無礼を働いたのですから、極刑が当然です」
「はぁ!? なに言ってんだテメェ!」
「言葉も理解出来ませんか? これだから山猿は困りものです。猿山にでも帰ったらどうですか?」
「……上等だコラ! やろうってんなら相手になってやるぜ!?」
本気の殺気をぶつけ合う二人の最強。えぇー、と呟くがもちろん誰も止まりはしない。オロオロと二人を見ていると、残る一人が間に割って入った。
「止めろ、みっともない。空翔。皇子が呆れているぞ?」
「あ……も、申し訳ありません!?」
呆れている訳ではないのだが。言う暇なくノゾミが頭を下げる。
「貴様もだ、血迅。仮にも貴様は騎士、そして彼は我らの主だ。少しは自制しろ」
「……チッ」
彼の言葉にヨカイも黙り、つまらなそうに顔を背けた。
(す、すごい……)
一瞬即発の場を即座に収めてしまった男性に尊敬の目を向け、彼の事を思い返す。
セイジュウロウ・櫻・白斗光。英雄騎士団と呼ばれる騎士団を組織し、その武勇、知略はまさにその名を示す通りに英雄である。噂ではその実力は三人の中でも一番だと言われている。
こちらももちろんファンが多い。セルはそれもそうだろうなと納得する。美形で、眼鏡で、クール。クラスの女子も何人か騒いでいたのを思い出した。
「さて、皇子。これより皇城へと向かいますが、よろしいですか?」
問うてくるセイジュウロウに、ハッと声を荒げて言う。
「ちょ、ちょっと待って下さい! おれの……私のクラスメイト達が悪魔に襲われて……助けに行かないと!」
「アバドールに襲われた者達の事ですね?」
焦った言葉を受け入れ、冷静な声で問いかける。小さく頷くと、彼は続けて言った。
「1―Aと1―Cの試験場ですが、そちらは既に確認しています。戦いの後はありましたが、それ以外は何も見つからない状態でした。無論、アバドールもです」
「そ、うですか……」
既に一日経っている。その場に留まっている事はないだろう。相手がアバドールならば丸呑みにされてしまったかもしれない。それならば、死体が見当たらないのも納得できる。
顔を青くして下を向くセルの手に、別の手が重ねられる。
「四慈陽様……?」
顔を上げると、そこには柔らかな笑みのノゾミが顔を覗き込んでいた。
「大丈夫です、皇子。何もないと言う事は、まだ希望があると言う事です。悪魔にやられたと言う証拠もないのですから。今は、信じましょう。本当にご学友を信頼しているのであれば、彼等が生きているのだと……」
彼女の言葉にハッとする。
そうだ、まだ皆が負けたと決まった訳ではない。もしかしたら逃げ出せた可能性だって十分考えられるのだ。なら、まだ希望を捨ててはいけない。
「彼等の捜索はこのまま他の騎士団が引き継ぐでしょう。本日の所はお疲れでしょうから、お休み下さい」
「そう、ですね……ありがとうございます、四慈陽様。少しだけ、気が楽になりました」
「いえ、皇子のお役に立てたならば幸いですわ。それと」
名残惜しそうに手を離し、ニコリと微笑んだ。
「私の事はノゾミと、そう及び下さい。私は貴方様の僕なのですから」
「さあ皇子、お召し物のお着替えは出来ましたか? 言って下されば私がお手伝いさせて頂きましたのに」
メイド服の少女は記憶の中にある笑みと全く同じ表情でセルに微笑みかけた。恐れ多いと苦笑し、首を横に振る。
「あはは、流石に空翔騎士団の長にそんな事をさせる訳にはいきませんよ」
目の前にいるメイドさん、名をノゾミ・翼・四慈陽と言い、何を隠そう空翔騎士団の騎士団長なのである。そんな彼女が何を思ったのかメイド服に身を包み、セルの世話を買って出た。一体何を言っているのかと疑問するが、結局押し切られる形で彼の世話係に収まったノゾミである。
「えっと、それで今日は何をすれば……」
「ふふ、そう固くならないで下さい。貴方様はこの国を収める皇族の一人として、毅然とした態度でいれば良いだけなのですから」
「それが難しいと思うんですけど……」
究極の庶民であると自負している彼からすれば、皇族の暮らしなど見当もつかない。昨日一昨日は見た事もない程に豪華なパーティーに連れて行かれ、代わる代わる挨拶に来る人達に曖昧な笑みを見せていただけだった。
それをどう解釈したのか、余裕を持った態度だと判断され感服したように頭を垂れていた。内心緊張で吐きそうになっていたが。
(吐きそうと言えば、国皇と会った時も酷かった……)
ノゾミの淹れてくれた紅茶を飲みながら三日前の事を思い返す。
天馬車と言う乗り物は皇族だけが使用できる専用の乗り物である。馬ではなく、空を飛べる召喚獣が数体掛かりで引く車の事だ。その存在は知っていたセルだが、直接乗り込む事になるとは夢にも思っていなかった。
中は意外と広く、窓の外からは護衛をしている騎士団の人達が真面目な表情で警戒を続けている。小市民であるセルにとってこの状況は既に胃が痛いものだった。
「皇子、お体の具合はいかがですか?」
「あ、と……大丈夫です、ノゾミさん」
「そうですか……慣れない乗り物ですから、辛くなったらいつでも仰って下さいね? 酔ってしまっては大変ですから」
それに気付いてノゾミが心配そうに声をかけて来る。彼女は現在、黒と白の羽を持つ魔鳥の背に乗って窓の外から笑みを見せていた。天馬車の護衛を請け負っているのも彼女の指揮する騎士団、空翔騎士団であり、羽の生えた召喚獣が何体も視界に入っている。
憧れの騎士団に護衛されていると言うのに、セルの心は晴れなかった。それもそのはず、これから彼は皇城に連れて行かれるらしい。そこで実の父親であり、空時国の皇、シグルド・無・空時と邂逅するのだ。
いやちょっと待ってくれと。ただの一市民でしかない自分が国家の頂点に会ってどうしろと言うのか。と言うか、この状況こそ疑問に思うべきものであり、もしかしたら勘違いで連れて行かれているだけなのではないか。そしてそうなったら皇子を名乗った大罪人として処刑されたりしないだろうか。
そう言った旨の言葉を涙ながらに訴えたのだが、ノゾミは変わらぬ笑みでその考えを否定した。
大丈夫です、貴方様は間違いなくこの国の皇子であり選ばれた人なのですから、と。
可愛い顔して何言ってんだこの子、と疑いの眼差しで見つめていたら、何故か顔を赤くされたのが不思議であった。
そして、既に悩む時間がもうないのだと気付く。外を見れば巨大な穴の中央に建てられた重厚な城が目につき、周りの崖から掛けられた橋の上にはフル装備の騎士達がキッチリと隊列を組んで並んでいた。さらに周囲には多数の市民達が押し寄せ、天馬車が目に着くと一様にざわめき出した。
あ、これはどうあっても逃げられない。クシャリと泣きそうになった。
そうこうしている内に橋の一角に天馬車が降り立ち、嫌な光と共に扉が開く。
「さあ、皇子。お手を。既に皆が貴方様の御帰還をお待ちしています」
「う、うぅ……」
恭しく手を取るノゾミに引っ張られ、観念して馬車から顔を出す。
――歓喜、歓喜、歓喜の声。
まさに、大歓声だった。
セルが顔を出したと同時に市民からの叫び声が聞こえ、涙ながらに何かを言っている老人達までいる。フルフェイスの兜をした騎士達も良く見れば肩が震えている。まさか泣いているのだろうか。
凄く帰りたくなった。
騎士学校でクラス代表として全校生徒の前に立った時など比べ物にならない程の圧迫感。
ヤバい、お願いだから帰して下さい。
「皇子」
だがそれも当然の事ながら許してくれそうな雰囲気ではない。英雄騎士団の長がキラリと光る眼鏡越しに視線で背を押して来る。
ノゾミに手を引かれながら地面に降り立ち、ふと顔を上げる。視線の先に、何者かがいた。
「――っ!?」
目が合う。瞬間、今までの圧迫感など軽く飛んで行きそうなまでの重圧が圧し掛かった。威圧感とさえ呼べる圧倒的な存在感、それを発しているのは、一人の年配の男性だった。
顔に刻まれた皺、髪は白さが目立っている。しかし、意志の強さがそのまま光となったような瞳からは少しも老いを感じない。押し潰されそうな重圧の中、男は口を開く。
「――良く帰った、我が息子よ」
「……え、あの?」
しわがれ、それでも威厳のある声に、ようやくその人物の正体に至った。
彼は、この国を治める者。空時国の皇、シグルド・無・空時。
セルにとって雲の上の存在である人物は、親しみを持って話しかけて来る。
「その顔、片時も忘れた事は無かった。遡る事十年前、お前は杯羅へと出かけ、帰る事は無かった……しかしそれでも我らは諦めず――」
うんたらかんたら。
話は続いているがセルの耳にはもはや届いていなかった。てっきり国皇が否定してくれると思っていたのに、何故か嬉しげに、しかも友好的な笑みで言葉を投げかけている。
新聞などには常にムッとした表情でいる皇が、若干テンション高い様子でいる。それだけで市民にとっては真実なのだと理解した。
『セイルド! セイルド! セイルド!』
『ソラト! ソラト! ソラト!』
市民に加え騎士団の者達からもセイルドコールが飛び交い、もはや止まる気配がない。呆然とその様子を他人事のように眺めながら、セルは込み上げる吐き気を押さえるのに必死である。
(何言ってんのこの人達ー!?)
心からの叫びは誰にも聞こえず、後ほどゲロと一緒に吐き出される事になるのだった。
青い顔で回想を終え、ノゾミに聞こえないように吐息する。
「……そう言えばノゾミさん、国皇陛下は今なにをなさっているんですか? この三日で最初の一度しかお会いしていないんですけど」
「あらあら、私に気を使わずにお父様とお呼び頂いてもよろしいのですよ?」
「そ、それは本当に恐れ多くてとても……」
「ふふ、そうですか。国皇陛下は現在療養中です。最近はあまり調子が良くないそうで……」
「そう、なんですか?」
「はい。ですから、三日前に皇子と再会した時の陛下には驚いてしまいましたわ」
三日前に見た時は病気だとは思えない程の威圧感だったのだが、心配そうにしているノゾミの態度から彼の容体を伺い知る。
本当に自分の父親かは分からないが、国家元首である人物が体調を崩していると教えられては心配にもなる。
「お見舞いとか、行った方が良いんでしょうか?」
特に話すような事はないが、病気で寝ている人間には側で話をするだけでも随分と元気づけられるものだ。セルも風邪を引いた時に仲間たちが押し寄せて来た時の事を思い出す。
その後、みんな揃って風邪を引いて学級閉鎖に陥ったと言うオチもついた訳だが。
「まぁ、なんとお優しい……」
「えっ、いやそんな事ないですよ!」
ノゾミの目の端からキラリと涙が伝う。まさかそれだけで泣かれるとは思わなかったため、セルはわたわたとしている。
白いハンカチで目元を拭い、綺麗な笑顔のまま首を横に振った。
「ですが、本日は少々お時間がありませんので、また後日お願いします」
「時間が無いって、何か忙しいの?」
「はい。本当は陛下と共に行うつもりだったのですが、陛下の体が優れないため皇子に全てを任せるとの事です」
「えっ? おれ一人って……それって大丈夫なの? 陛下の代わりになんてなれないよ?」
皇子としての振る舞いだって付け焼刃で限界があるのだ。出来て精々が、歩いて座って笑っている事だけ。むしろノゾミ達から教わったのはこの三つだけだ。声をかける事も出来やしない。
「ご心配いりませんわ。皇子は座っていればいいだけですから」
「そうなの? それなら、まあ……なんとかなるかな」
安心させるようなノゾミの言葉に、少しだけ気持ちも楽になる。どうせ先日のようなパーティーだろうと想像し、キチンと笑えるかを確かめるのだった。
「え、と……ノゾミさん、改めて聞くんだけど、今日って何するの?」
城門の前に連れて来られたセルは嫌な汗を一つ流し、青い顔でノゾミに尋ねる。先ほどまでのメイド服ではなく、白いマントと鎧を着用した少女は変わらぬ笑顔で答えた。
「はい、本日は皇子の帰還を祝してのパレードを予定しております。三日前から大々的に宣伝していた事もあって、皇都空利唖の民達はほぼ全てが参加している事でしょう!」
「え、いや待って! パレードって、わざわざ!? おれのために!?」
「勿論ですとも。皇子の御帰還を祝うのは国民の義務ですから」
ニッコリと言ってのけるノゾミ。えぇー、と呻くが、手早く巨大な車に乗せられてしまう。屋根などはなく、豪華なイスが置かれている。ここに座って街を練り歩くとか、まるで罰ゲームだ。
しかし結局逃げる事など出来ず、セルは覚悟を決めてイスに腰掛けた。ふかふかで、これならば長時間座っていてもお尻は痛くならないだろう。
視線が高くなって少しだけ面白い。高くなった視界にセイジュウロウとヨカイを見つけ、居住まいを正す。
セイジュウロウもヨカイも騎士服を着込んでおり、恐らくアレが彼等の正装なのだろう。
「それでは皆、準備は出来ていますね? キリエ?」
「ハッ! 全部隊配置完了であります!」
ノゾミの号令に副官と思しき少女が答え、満足そうに頷く。続いて、ヨカイの側にいた男が声をかけた。
「血迅騎士団、いつでも行けるぜ!」
「だそーだ」
「英雄騎士団も問題無く展開している。皇子の身の安全は保障します」
セイジュウロウがこちらを真っ直ぐ見据えながら言う。セルは身を縮こまらせて頷き、息を吐いた。こんな時どう言えばいいのか、既にノゾミから学習済みである。
「ご苦労様です。皆の尽力を期待します」
本当はもっと偉そうに、との要請もあったのだが、彼の性格からしてこれが限界だろう。
主からの言葉を受け、その場にいた騎士団の者達に一層気が漲った。
「開門!」
セイジュウロウの号令と共に皇城の門が開き始め、眩しい光りに目を瞑る。この光景をどこかで見たなと思考し、門が開き切るのを見て思い出す。
三日前に天馬車から降りた時と似ているのだと。
『セイルド! セイルド! セイルド!』
『ソラト! ソラト! ソラト!』
民衆の大歓声がぶわっとセルに覆い被さった。巨大な人の塊が四方に見え、色とりどりの旗がそこかしこで揺れている。空からは花びらが降り注ぎ、遠くの方からは花火の音が聞こえて来た。
「…………」
甘く見ていた。パレードとか言ってもしょせんは自分のためのものなのだから大した規模ではないのだと高を括っていた。だが蓋を開ければ今までに見た事もない程の大観衆が集まってセルを称える言葉を叫んでいる。
もっと早く思い出すべきだった。今ここにいるのはセル・空ではない。セイルド・無・空時。この国の次期後継者なのだ。
「そうだよね、そりゃこんな豪華なパレードくらいなるよな」
半ば呆然としていると車はゆっくりと走り出した。助けを求めるような視線がノゾミに向けられるが、笑顔を見せながら何かのジェスチャーをしている。
「あ、手を振れって事か」
新聞などに偶に載るパレードの真似事のように民衆の塊に向かって手を振ってみる。するとその周辺からの声がさらに大きくなり、女性たちの黄色い声が聞こえて来た。
橋を渡り、今度は中央広場へと移動する。白い壁の家々が立ち並び、屋根に乗ってまでこちらを見ている人もいた。なんだか見世物になった気分だ。何せ周りを見れば人、人、人。皇都と言えどここまでの人間が住んでいるとは思えない。恐らく、皇都に加え近隣の街からも人が押し寄せて来たのだろう。
それだけ皇子帰還が重大事件なのだろう。如何せんその本人に自覚がない訳だが。
道には車に近づけないように騎士団の人が整然と並んでおり、その向こう側からは様々な人の顔が見える。老人、女性、男性。大人に子供。目を輝かせている小さな兄妹に手を振ると、パァ、と目を輝かせて大きくジャンプをしだした。その様子に苦笑しながら、セルは少しだけ心を落ち着け、民衆の笑顔を見渡した。
(おれがここにいるだけでみんなが笑えるなら、それはそれで良いのかもしれないよね)
まだセルには自分が皇子だという自覚はない。記憶は完全に失くしているし、一般人としての生活が長過ぎたせいもあるのかもしれない。そんな彼にとってこの三日間は驚きと違和感の連続だった。
朝起きれば空翔の騎士団長がメイド服を着て起こしてくれて、さりげない護衛として血迅騎士団長が側にいた。英雄騎士団長も暇さえあれば皇子としての気概を教えてくれた。
クラスメイトがいれば嫉妬でぶん殴られそうなシチュエーションがてんこ盛りだ。若干、彼等と再会するのが恐くなってきた。
「……みんな、か」
ふと、思い出してしまった。未だ行方の分からないクラスメイト達。
ただの一人も見つかっていないと言う状況がそもそも可笑しいのだ。彼等の第一目標がセル・空を逃がす事だとしても、他に逃げられた者がいても不思議ではない。と言うより、副委員長であるユゥリ・雛・名星であれば出来るだけ生存者を出せるように立ち回るはずだ。例えば、直接戦闘能力の低い双子の兄妹や、森の移動を得意とするネコミミ娘を。この三人ならば逃げ切る事の出来る可能性は高い。それを忘れるような少女ではない事を、常に彼女の傍らにいたセルは良く知っていた。
だからセルは三日経ってもクラスメイト達が発見されない現状に首を傾げていた。
やはり皆はまだ生きているのではないか。そう思わずにはいられないのだ。
「後はローゼとか、どうしてるのかな」
アバドールから一緒になって逃げ出した少女、ローゼ・咲・園緒の姿もその後見ていない。救助されたとは聞いたのだが、あの後直接皇都まで連れて来られたため、彼女の事も人伝にしか聞いていないのだ。
一人では逃げ切れなかった。その事について感謝の言葉を送りたかったのだが……今度手紙でも書こうか、とボーっとしながら考えていた。
パレードの約半分が終わり、後はグルリと市街を回って皇城へと帰るだけだ。ホッと息を吐き出し、視線を上げた。
屋根に登った人達が手を振っている。それは先ほどまでと同じ光景だ。
「……んん?」
見上げた先にある集合住宅、その屋上。ここら一帯ではあそこが一番高いだろう。その場所に、キラリと光る何かが見えた。
そう思った、次の瞬間――
「皇子、どうか動かずに!」
「へっ?」
跳躍し、セルのいる高さまで跳び上がったノゾミが鋼鉄製の盾を構え、眼前を覆っている。ギギン、と何かがぶつかり合う音が聞こえ、何が起きたのかノゾミに聞こうとする。
「ノ、ノゾミさん!? 一体何が……」
だがその言葉は途中で呑み込んだ。見上げたノゾミの顔は憤怒の形相を浮かべており、目には怒りの炎が燃えている。胸元にが淡く光っており、そこにはチェーンに繋げられたおもちゃの指輪があった。
「我が主に弓引く愚か者め……楽に死ねると思わない事です」
絶対零度の呟きにゾクリと背筋を震わせる。その刹那、ノゾミはその名を呼んだ。
「ニヒト!」
首にかけられた指輪が一層強く輝くと同時に、空間を押し開けるようにして黒と白の羽を持った魔鳥が現れた。
「逃がさぬよう、その場に張り付けにしなさい」
ノゾミの指示に従うように高く声を上げる。するとニヒトのクチバシの先に魔法陣が浮かび上が、そこへ巨大なクチバシを深々と差し込んだ。
――ギャアアア!?
「な、なんだ!?」
するとどこからともなく叫び声が聞こえて来た。こちらからでは微かにしか聞こえないが、恐らく先ほど見上げていた集合住宅の屋上からだろう。
ズッ、と魔法陣からクチバシを引き抜くニヒト。そのクチバシは、赤く濡れていた。微かにその口に何かを含んでいるような……。
「キリエ、すぐに捕らえなさい。動けなくしましたが、死んでしまっては尋問にかけられないですからね」
「っ、了解です!」
副官の少女に小さな声で指示を出し、ノゾミは急いで召喚獣を戻す。普段と変わらぬ笑みのまま、セルに対して頭を下げた。
「ご安心ください。少し祭りの気に当てられてしまった人がいたようです。どうか、この後のパレードをお楽しみください」
「あっ……」
サッと車から飛び降り、彼女は変わらぬ様子で警備に戻っていった。他の騎士達に二、三指示を出し、パレードは再開された。初めは戸惑っていた民衆達も、騎士による捕り物が行われたと分かると余計に興奮し、セルを称える声に熱が入るのだった。
*
「どう言う事ですか? 外部からの侵入は貴方が担当していたはずですが? 英雄騎士」
城の裏手にある訓練場でノゾミは怒りの表情でセイジュウロウに詰め寄っている。話の内容はもちろん、先ほど起きた暗殺未遂の件だ。この場にはノゾミとセイジュウロウの他には誰もおらず、ヨカイはセルの護衛を行っているため不在である。
「……それについては済まなかった。厳重に確認したはずだが、見逃していたようだ。全てを仕切るのはいくら私でも難しかったようだ」
眼鏡に指を当てながら言うセイジュウロウに、ノゾミはイラついた視線で睨みつけた
「貴方が? 冗談を言うならばもう少し面白い冗談を吐いた方が言いですよ。天下の英雄騎士団長が、あの程度を見逃した? バカも休み休み言いなさい。血迅でもあるまいに、貴方があの程度の輩を見逃すはずがないでしょう?」
「そうは言っても事実だ。私とて万能でもない。加えてこの三日、一睡もしていない。ちょっとしたミスが起こっても不思議ではないだろう」
「ちょっと? 皇子を命の危険に晒して、ちょっとですか?」
ふぅ、と吐息して二歩、後退する。顔を無表情に戻し、
「――あまり、巫山戯るな」
殺意に満ちた瞳を向けた。
瞳孔が開き、深い闇に満ちた瞳がセイジュウロウを射る。あまりの殺気に、風すらも震えた気がした。
「……別にふざけたつもりはないのだがな。だが、確かに今の言葉は軽率だった。詫びよう。すまない、今回の責は全て私にある。いかような処罰でも甘んじて受けよう」
頭を下げて謝罪するセイジュウロウの姿をジッと見つめる。
「…………良いでしょう。この件は、全て国皇陛下の裁定に任せましょう。それまで貴方は、自室で仮眠を取っていてはどうですか? 睡眠不足でこれ以上失敗でもされたらこちらが迷惑ですので」
殺気を収め、ノゾミはクルリと背を向けながら言った。内心ではどう思っているのかは分からないが、この場でこれ以上問答しても無駄だと悟ったのだろう。セイジュウロウも特に何も言わず、素直に頷いた。
「ああ、そうするとしよう」
その淡々とした態度が気に食わないのか、ノゾミは振り向かず、去る足を止めずに吐き捨てた。
「次にこんな事があれば、一切の容赦はしませんので、お気をつけて下さい。英雄騎士殿」
「ああ、気を付ける」
(まったく、皆皇子への配慮がまるで足りませんわ)
セイジュウロウと別れたノゾミは少し苛立った歩調で皇城の廊下を歩いていた。自然と目尻がキツくなり、 愚痴が頭の中で爆発している。
(……三日、皇子もまだ不安を抱えている頃でしょうし、出来るだけ不確定要素は排除して然るべき。もう少し厳しく見た方が良いかも知れませんね)
皇城の五階へと階段を昇り、ようやくそこで意識を和らげた。この階にはセルの自室があり、東側の一区画は全て彼のための場所である。このままイライラとした表情を見せてしまってはいけないと深呼吸を繰り返し、廊下に設置された鏡の前で自分の姿を確認する。
着替えている時間が無かったため騎士服に純白のマントと言う騎士団の格好だ。それはまあ仕方ない。
額に寄った皺を解しながら、意識を切り替え、笑顔の練習。
「……うん、大丈夫」
思えば先ほどからイライラしっ放しだった。ここで一度気分を変えよう。主の姿を見ればそれまでの気分だって吹き飛んでしまうだろう。
(彼等以上に、私が皇子をお支えせねば……)
己の中で気合を充填。ノゾミはセルの部屋の前に立ち、美しい声を震わせた。
「皇子、失礼します」
コンコン、とノックをして返事を待つ。
……返事は無い。
「……? 皇子?」
いつも起きる前以外ならばすぐに帰って来る返事が十秒経っても返って来ない。可笑しいと思いながらも再度声をかける。
それでも変化は無く、仕方なくノゾミは扉の取っ手へと手を伸ばした。
「失礼します、皇子。……皇子?」
扉を開き、頭を下げてから入室する。広い部屋の中は見渡すのに若干の時間を有してしまう。窓際、机、寝ているのかとベッドの上にも視線を向ける。
「……皇子?」
もしかしたらと机の下も覗き込んで見た。当然いない。
ふむ、と顎に手を添えて一秒の思考。
「お、お、皇子ー!」
後、慌てて部屋を飛び出した。
「くっ、血迅は一体何をやって……あ、すみません」
「はい? あ、四慈陽様!? な、何か粗相を?」
「いえ、その、皇子……いえ、清華様を見かけませんでしたか?」
目に入ったメイドの女性に声をかける。一瞬セルについて聞こうとしたが、いなくなったとバレては大事になりそうだと思い、護衛で近くにいるはずのヨカイの行方を聞く事にした。
ノゾミの問いかけにメイドはええ、と頷き城下の方を眺めて言った。
「せっかくの祭りだから遊びに行って来る、と先ほど」
「はぁ?」
護衛の仕事ほったらかして何をやっているのかと憤る。
「あ、そう言えば、見慣れない子を連れていました。あんなお手伝いさん、いたかしら?」
「…………まさか!?」
メイドの追加情報に嫌な予感が浮かび上がる。バッと城下の方を睨みつけ、ノゾミは急ぎその場を後にした。
その頃、城下町では。
「いやぁ、やっぱ祭りは良いねぇ! こう、血湧き肉躍るって感じがたまんねぇ!」
「えーっと、あんまり騒ぎ過ぎないようにして下さいね? って言うか、おれ外出て良かったんですか?」
「や、なんかダメって言ってた気もすっけど、ずっと引き篭もってばっかりじゃ詰まらんだろ? ま、今はお祭りを存分に楽しもうぜ!」
豪快に笑う女性と、それを宥める一人の少年が目撃されていた。