第90話『虹と太陽と大切な人』
「………私を、殺してくれる?」
……アリスの濁った目が俺に向けられた。その瞳はまるでこの世の全てを拒絶しているかのような、全てを受け入れ悟りきったような……そんな瞳だった。
「……アリス」
でも、そんな瞳に俺は射抜かれたんだ。
アリスの覚悟、それは自らの死をもってピリオドを打つこと。そんなことは間違っている……そんなことは分かりきっている。でも…俺はそれを止めることができなくて、いや止める権利すらなくて……
「……お願い、私を、殺して……」
アリスの抑揚の無い、低くて重い声が俺の耳に届いた。
……俺は、アリスにとっては所詮、蚊帳の外にいる人間だ。だからアリスを止める権利はないし……多分、本当ならアリスの声を傾けることすら許されていないはずだ……
「………」
俺は立ち上がろうと右足に力を入れて、重い腰を上げた。
そして、アリスの方に向き、ゆっくりと雨でぬかるんだ柔らかい土壌を踏みしめ、歩を進めた。
「……耕司、お願い、私を、私を……殺して」
再びあのアリスの瞳が俺に向けられる。だが、俺は構わずゆっくりとアリスとの距離を詰めていく。
「………」
もう俺の耳には周囲の雨音は届いていなかった。
霊園独特の芳香も、雨でぬかるんだ地面の感触も、雨で濡れた身体も何もかも……感じない。
あるのは……俺とアリスという人間のみ。前へ前へ……ひたすら前へ、足を止めることなく徐々にゆっくりと確実に俺はアリスに近づいていった。
そして、ほどなく俺とアリスの距離は詰まり、手の届く位置、人一人分の距離で俺は立ち止まった。
「………アリス」
「………」
何を悟ったのか、俺がアリスを呼ぶとアリスは俺から目を逸らし、俯いた。
「……耕司、早く、私を殺して……」
アリスは小さな、届くか届かないか分からないくらいの声でそう呟いた。
「……俺は」
……アリスの覚悟、過去の過ち、それを自らの死をもって妹に償うこと。
……そして、俺の覚悟、それは……
「……すまない、アリス。俺には……できない」
失った過去の産物をこれからの未来を断つことで等価にしようとするなんてそれは間違っている。いや、そんなもの等価になりえない……そこに『ギブアンドテイク』の法則は無い。
「……耕司」
アリスはゆっくりと顔を上げ……その目には涙を流していた。
「……それに俺はお前を死なせない、死なせるものか……」
俺の言葉はアリスにとって残酷かもしれない。けど……俺の覚悟はまさにそれだ。殻をブチ破る。俺は……アリスの過去に過去に関係ない人間……だから、どうした?それが、それが何だって言うんだっ!!!
「俺は……俺はお前を全力で止める。そして……その腐った因果の鎖を解く。……アリス、それが俺の覚悟、だ」
「……っ」
俺の覚悟、それは身勝手な覚悟だ。
だって、俺の覚悟はアリスと対照的なもの、アリスの覚悟を完全に潰すことを意味するのだから。もう……俺は後には引けない。一対一の……一種の殴り合いだ。
「……どうしてよ」
「………」
「どうして、どうしてどうしてどうして……どうしてよぉ……」
アリスは俺の前で顔を両手で覆った。
この反応は……正直、胸にグさっとくるものがある……けれど、もう俺は逃げない。……もう、逃げないっ!
「……苦しいのよ。もう……私は死にたいの」
「………」
「どうして……わかってくれないの……?……麻里先輩も、あんたも」
「………」
「私はっ……!ここに、この世界に……生きてはいけない存在なのっ……!妹を、妹を殺したも同然……そんな最低な姉よ?フ、フフ、フフ……」
「………」
「もうっ……もう限界なのっ!生きることですらっ!苦しいのっ!何もかもっ!皆と同じ寮で生活するのもっ!男の子に恋するのもっ!もう、嫌っ!嫌嫌嫌っ……!何もかも……!もう、もう、私を殺してよぉ!殺してよぉ!!!」
「………アリス」
「嫌っ!こっちに来ないでっ!」
俺はさらにアリスに近づき……アリスは少し引いたが、俺はそれでも歩くことをやめない。
「こっちに来ないでって言ってるでしょっ!?そ、それ以上……近寄ったら……!」
「近寄ったら……?何だ、何をする気だ?死ぬのか?それとも……俺を殺すのか?」
「うっ、うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!私は……私はもう覚悟はできているのよっ?!私は!私は……!」
「覚悟…?死ぬことの……か?じゃあ、何で俺に『殺してくれ』なんて言ったんだ?……それとも、それを告げることがお前の覚悟なのか?」
「…っ、ち、違うっ!私は…私は…」
「………アリス、もういいだろう……?お前はこれまでよく頑張ったよ」
「うっ、うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!ど、同情してんじゃないわよっ!同情なんて……同情なんてして欲しくなかった!……結局、あんたはあの人……麻里先輩と同じじゃないっ!あんたは、あんたは……結局、あんたは……!」
「………」
「もう、いいっ!こんな……!こんな世の中に未練なんて毛ほどもないっ!もうあんたに頼らないっ!私は……私はっ!!!」
アリスは懐に隠していたのか、包丁を取り出し、右腕でそれを振り上げ、そして……
「死んでやるんだからぁーーーーー!!!!!」
自らの心臓めがけて包丁を振り下ろした。
…
……
………
「………」
「はぁ、はぁ……!」
「………」
「はぁ……はぁ……?……こ、耕司……?」
「っ」
……いてぇ、ものすごくいてぇ。
……けれど、アリスの『痛み』はこれの比じゃねぇんだよな……
「こ、耕司っ……?!そ、その腕……っ!?」
「………」
左腕の……感覚、痛みを伴っていながら不思議とそれは無かった。それもそう、俺は……両腕でアリスを抱きしめていたから。
「……こ、耕司っ!は、早くっ!……病院に……!」
「………」
俺の左腕には僅かだが包丁が刺さっていた。……けれど、俺はこの手でアリスを抱きしめていた……よかった、間に合った……
「あっ……こ、耕司……」
アリスは心配と不安と戸惑いの入り混じった表情に少し頬を赤らめていた……
「……アリス、もう、いいだろ……?」
「………っ」
「……アリス、俺はここにいる。それで……お前もここにいる。……それで充分じゃないか」
「………」
「お前は……本当によく頑張ったよ……お前は、俺より強い。俺は……負けたよ。これは同情じゃない……もう、もう充分じゃないか……」
「………うん」
「アリス、俺はお前に何もしてやれねぇが………こうやって、お前を抱きしめることはできる……これは俺とお前がこの世界で生きているっていう何よりの証拠だ」
「………うんっ、うん」
「……アリス、お前の……お前の妹も頑張ったんだよ、お前と同じくらい」
「………うん、うん、うん……」
「……なぁ、アリス……今度、お前の手料理……食わせてくれよ……何が、得意なんだ?」
「肉……じゃが」
「そうか、肉じゃがか……うん、いいじゃん。家庭的で……俺、こう見えても味にはうるさいからさ……お前の手料理、俺が採点してやるよ……」
「……うん、まずいって言ったら……承知しないんだからぁ……!」
「…ははっ、それは……参ったな……じゃあ、麻里さんやメガネやサル達も……巻き添えにしてやるからな………」
「…な、なによっ!なによぉ……すん」
「……おっ、見ろよ……あれ」
「……あ」
空を見上げると、とうに雨は止み、視界は太陽を映し出していた。
そして、雨の後……七色の美しい虹が現れた。
俺達二人は抱き合いながら、そんな秋空をしばらく眺めていた。
次回から再び学園祭編となります。