第84話『消えた心』
『アリスちゃん……………最後に………最後に1つだけおばあちゃんのわがまま………聞いてくれるかい?』
六畳間の殺風景な部屋。
静かに揺れる風鈴。
庭で蝶を追いかけるエリス。
中央に床につく祖母。
その傍に、私。
『………………』
私はその時何も答えられなかった、いや答えたくなかった。
その祖母の言葉の意味は子供ながらに想像はついた。
ある感情が胸を締め付けられる、我慢……我慢しないと、耐えないと。
祖母のお願いを聞いちゃったら………それは祖母の死を認めてしまうことになるから。
『…………やだ』
答えたくなかった………なのについ声が出てしまう。
『やだ、やだ、やだよ……聞きたくない、聞きたくない、聞きたくないよ………』
自然と瞳から涙が溢れ出る。とめどもなく出てしまう………どうしよう、我慢……するって決めたのに。
『………………』
『……………あ』
祖母は……何も言わずにしばらく私の頭を優しく撫でてくれた。
その時見せた祖母の顔は………笑顔、優しい笑顔だった。
祖母は布団から出て、陽の当たる縁側に腰をかけた。
そして、祖母の視線の先にあるのは庭に植えられた桜………心なしか元気がない。
時期的には満開になっていてもおかしくないのに………
『おばあちゃんねぇ……』
祖母はゆっくり……口を開き始める。
かろうじで隣にいる私に聞こえるか聞こえないか、そのくらい唇の動きは弱々しく、衰えていた。
『エリスちゃん………』
祖母は庭で無邪気に蝶を追いかけるエリスの方を向く。
そのエリスを見つめる瞳は優しさで溢れていたはず。なのに…どうして、どうしてそんな哀しそう顔をしているの……おばあちゃん?……ねぇ、笑って……笑ってよ………おばあちゃん………
『アリスちゃん………』
祖母は今度は私の方を向き、エリスに向けていたのと同じ、優しさで溢れた、哀しい顔を見せた。
その表情には一体どんな意味が込められているのだろう………
『貴方達がいてくれる……貴方達2人が、元気で、笑顔で……おばあちゃんの傍にいてくれる………それだけ、それだけで充分、もう充分なんだよ………充分満足なんだよ……』
『………………』
違う……違う、私は………おばあちゃんに何も、何もお返しできていない………
充分満足なんかさせてあげてなんかいない………でも、私は………それを否定できなかった。
おばあちゃんの……おばあちゃんのその言葉を、言葉を否定できなかった。
何より、おばあちゃんのその言葉が嬉しかったから、おばあちゃんが大好きだったから。
『うぅ…うぇ…ぇぇぇ』
庭の方に視線を向けるとエリスは倒れて泣いていた………おそらく、蝶を無我夢中で追いかけている最中に転んだのだろう……私がエリスの傍に寄ろうと立った。
『ほ、ほ、ほ………エリスちゃん、お前は本当におっちょこちょいさんねぇ………』
祖母は既に縁側から離れ、私より先にエリスの元にいた。
『うん………すん』
頭を撫でられ、未だに涙を流すエリスに少し嫉妬心が芽生えてしまった。
『………………』
『………?』
それは突然の出来事だった。
『………おばあ………ちゃん………?』
動かない、おばあちゃんが動かないーーー………
桜が散ったーーー………
「……………ん」
目が覚めた。
枕元にあるアナログの時計にふと目をやる。
部屋のカーテンを閉めているので薄暗くてよく見えない、が時計の短針と長針の為す角180℃。
カーテンを開ける。もう一度時計に目をやると、12時30分を指していた。完全なる遅刻、それも大遅刻。
とりあえず、気だるいけれど………学校に行く、か。
義務教育に従って学校に行くわけではない、学校を行くことを口実として外に出たいだけだった。
きっと、空気の悪いここ………私の部屋よりは過ごしやすい場所だと思ったから。
そうと決まれば気持ちが変わらないうちに早く着替えて外に出てしまおう。
「………はぁ」
全然、過ごしやすくない。
暑い、暑い、どうしてこう、暑いの。
それに何で休日じゃないのに人がこうも多いの。
人の集団は苦手………何でああも人は人として群れで過ごせるのだろうか。私が変なのか。
群れには必ず、群れを統率するリーダーが存在する。
すぐには気付かない、よく観察しなければ気付かないが、常に話の中心にいる奴。
だからといって、周りの人間の話の話題を合わせているわけではない。
そいつが周りの人間を牛耳っているのだ、知らず知らずのうちに………周りの人間は気付かない。
何て嫌らしい人間なのだろう、だから私は群れが嫌い。
「………嫌ね」
本当に嫌、今の自分を殺してしまいたいくらい嫌。
こんな嫌らしい事ばかりしか考えられない自分が本当に嫌だ。
でも、これが本当の私。
他人にあたることでしか自分を保っていられない私。
誰か、誰か、誰でもいい。誰でもいいからこんな今の私を嘲笑ってほしい。
「………ハハ」
失笑、本当にどうしようもない。
通行人に変な目で見られる、でもそれは私が変な子だから。
だから私の事を嘲笑ってほしい。
そしたら私も貴方の事を嘲笑ってやるわ。
地獄門の前に到着した。
何でここまで歩いてきたのか自分でも分からない。
とにもかくにもここまで歩いたのだから入ってやろう、戻るなんて損じゃない。
門をくぐると四方八方からあるゆる音という音が聞こえてくる。
トンチンカン、トンチンカンと周期的に何か聞き覚えのある音が耳に入ってくる。
金槌の叩く音、か………ふと門の傍に目をやると看板が立て掛けられていた。
『学園祭』
そう表記してあった。
そうか………もうそんな時期か、すっかり忘れていた。そういえば確か誰かさんがそんなことを言ってたような。しかし、正直どうでもいい、私にとってはどうでもいい。いや、どうでもよくないか。
授業が潰れる、それだけが私にとってのメリットだ。
多分今日は前夜祭でもやるつもりなのだろう、ここまで大規模な作業を生徒諸君が必死でやっているのだから。最も私には無関係なのだけれど。
「なんでやねん!」
夕刻、既に大方の作業が終わった頃、中庭では舞台が組まれた上で漫才トーナメントなるものが開催されていた。参加者は老若男女問わず、コンビ、トリオ、登録人数も問わない。『勇気あるものだけが舞台の上を踏んでよしッ!』それがスローガンらしい。何だか格好悪いスローガンだ。何となく眺めていたが……何が、何が面白いのコレ?今は校長と教頭がコンビで漫才をしている。さっきからヅラネタばかり。挙句の果てには『ヅラぁー』とか言いながら奇声を上げる始末。そんなにこの学園の品位を落としたいのか。それでも周りは爆笑している。意味が分からない、全くもって意味が分からない。そして、何で自分がここにいるのかさえ分からない。空を仰ぐ。
「………綺麗」
夕刻を示す、快晴の空に染まった茜色。
ビッグバンにより今日の宇宙ができ、そして幾重にも渡って積み重ねられてきた嘘。
それは今も昔も変わらない、強者が弱者をひねり潰すという構図。
それが繰り返し繰り返し………そのお陰で今の平穏無事な時代が到来したと言っても過言ではないが。
そんな中でも空だけはいつも正直、そして何事にも交じり合わない。
「だから、嫌い」
反映しないから、今の私の心情と。
でもそれは仕方の無い事、だって空は正直だから。
ネコの様に気ままに赴くままに空は流れていく、誰の心にも交じり合わないまま。
いや、誰かの心には届いているのだろう、こんな綺麗な空なのだから。
でも、今の私の心情とシンクロしないから………好きじゃないけど見ていて落ち着く。
けれどなんだろう、この虚無感は。
いつまで経っても満たされないこの心は、いったい私の心はどこにあるのーーー………
数時間後。
辺りは茜色の空はとうに消え、夜がやって来る。
先ほどの馬鹿げた漫才トーナメントはとっくに終え、今度は中庭の中央にキャンプファイアーが用意されていた。どうやらダンスでもやるらしい、いつの時代だ。まぁ、私は遠くから傍観しているだけだけど。
「ねぇねぇ、君、今1人?」
ロン毛の男もといチャラ男が声を掛けてきた。
この学園の制服を着ている、だが顔は見たこともない。
「よかったら俺と一緒に踊らない?」
案の定、お誘いがやってきた。
その『よかったら』には果たしてどれほどの強制力があるのか。
「嫌」
私はその一言で片付けた。こんな男と構っているとロクな事がないのは目に見えている。
「嫌って……ははっ、そんな事と言わずにさぁ、君1人だろ?だったら、俺と踊る方がぜってぇ楽しいって!いや、マジで!ほら、行こうぜ!」
チャラ男に腕を掴まれた、腕にかすかな痛みが走った。
「痛っ、離して!!」
パチン!
チャラ男から腕を引き離そうと力んだせいか、チャラ男の左頬に私の平手が入った。
我ながらいいのが入ったわ、なんて思っていると、体勢を整えた男は私を睨み………
「っ、やってくれんじゃねぇかよっ!このメスブタがぁ!!!」
私に襲い掛かってきた………反射で私は目を閉じた。
もういっそこのまま楽になれたら………
「はいはーい、もうその辺にしようね。お兄さん♪」
………
忘れかけていた心に灯がともった、それはほんの今まで忘れかけていた私の心に灯を、灯をともした。
「な、なんだよ!てめぇは!」
「ボク、ドラ○もん」
「なめてんのかっ!?てんめぇーーーーー!!!!!」
バギッ、ドガッ、がスッ
「かっ、は………」
チャラ男はその場で崩れ落ちた、が。
「僕は舐めてないよぉ〜〜〜の○太くん〜〜〜」
崩れ落ちたチャラ男の胸元を掴み、
バキッ
また一発、
ガスッ
小田原浩二は何度も殴りつつけていた。
チャラ男は三発目の鳩尾へのストレートで嘔吐した。
「あっちゃぁ〜〜〜きったないなぁ〜〜〜………」
Yシャツに嘔吐物が付いた。
小田原浩二はにぃっとほくそ笑み………
「弁償してもらわなくちゃあねぇ」
とうに気絶しているチャラ男に自らの拳を振り下ろした。
グギッ、クキッ、クキ………
何かの、何かが折れた嫌な音が響いた。
私は、私は………その場から動けなくなった、かろうじで立っている状態。
目の前に立つ悪魔は心底楽しそうな表情をしていた。
そして、チャラ男に興味を失せた悪魔もとい小田原は私に顔を向け………
「汚れちゃったなぁ、コレ……」
チャラ男の嘔吐物と血で汚れたYシャツを私に見せるように寄ってきた。
「綺麗にしなくちゃね♪」
私は、動けなかった。
抵抗する間も与えず、小田原は私との距離を詰め………
「んぅ………っ、んっ?!」
2度目のキスを奪われた………