惨林叉―思考停止の収得零兎―
僕が思う童話って、こんな感じなんですけど………………まあ、共通の定義なんて必要ないですよね。
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『夜叉』
心臓を締め付けるほどに恐ろしい形相。
黒よりも暗い猛悪な性質。
空を飛び。
人を食らう。
インド発祥の鬼神。
後には仏教に取り入れられ、仏法を守護する鬼神となり、毘沙門天の眷族、八部衆の一つにも数えられている。
また、森林に棲む神霊として扱われることもある。
日本のとある町。
資産家が持つ林に、神霊として、一体の夜叉が密かに棲んでいた。
資産家が持つ、と言っても、今その林を管理している者はいない。もう十年近くも前、その林で起こった、悲惨で凄惨な事件以来、そこに近寄る者はほとんどいなくなった。町民には『惨劇の林』、それを略した『惨林』などと呼ばれて忌み嫌われている。たまに来るのも、粗大ゴミの不法投棄に、近隣の住民が足を運ぶ程度で、普段人の気配は全くない。
誰の手も加えられず、伸び放題になった草木は、林と言うより森、森と言うより密林と言える様相になっている。それでも、最も体現した表現を選ぶとするなら、やはり惨林しかないのだろう。
一寸先は闇、もとい一寸先は草。
立ち入る隙がない程草で溢れ返っている。
この惨林の中には古くから祠が建っているのだが、当然立ち入る者なんていない。秘密の入り口でもあるのなら話は別だが、そもそも到達すること自体が困難だ。
ただそれも、人間に限った話で、この惨林に棲む『夜叉』には全く関係のない話だ。
しかし、関係がないと言っても、彼は現状に危機感を抱かないわけではなかった。
十年前、この林には二体の夜叉が憑いていて、惨劇をきっかけに、一体はふたつの約束を交わして立ち去って行った。
ひとつは、
「この林を守ること」
今まで自分が守って来たこの場所を代わりに守れ、ということ。
もうひとつは、
「人を食わないこと」
神霊として憑いた夜叉は、その森や林と生命を共有する。夜叉は人間を食い物にするが、土地が生きている間はエネルギーを共有することができる。だから食事を必要としない。
つまり間接的にひとつめの約束とも繋がっているのだ。それでもわざわざ約束をふたつに分けたのは、立ち去りし夜叉が惨林の夜叉よりも遥かに長い時間を生きていて、その間に人間との和解があったからなのだが、惨林の夜叉はそんなことを知る由もない、だから付け加えられた約束だった。
そして最後に、
「もし約束を破る様なことがあれば、わたしがおまえを喰いに来るからな?」
と、冗談の様に残して立ち去って行った。
惨林の夜叉も、まさか自分が本当に喰われるとまでは思っていないが、約束に関しては守り通す気でいた。
だが今、惨林はチカラを失いつつある。たかが不法投棄と言えども、十年積み重ねれば大した量になり自然を汚していく。家電製品から科学物質が流出し、土に還らないプラスチック製品などが土地を殺す。
夜叉はその状況を楽観して過ごしてしまった。
木を伐採される様なこともなく、人がほとんど立ち寄らないのなら林が荒れることもそうはないだろう、と思い込んで、ゴミの影響を考えずに何もせず過ごしていた。
いや、過ごしていたと言ったら語弊があるかもしれない。なにせその夜叉は今、目を覚ましたところなのだから。
十年前に眠りに就いて以来、初めて目を覚ましたところなのだから。
「……どうするかぁ」
思考がまだはっきりしないまま、渇いた掠れ声で呟いた。
人間と夜叉との時間感覚がずれているのだとしても、十年と言うのは「流石に寝すぎた」と思わざるを得ない時間だろう。
そして起きてみれば著しいチカラの喪失と――空腹。
生まれて初めての空腹を覚えている。
ぼんやり、ぼんやりと。周囲を埋め尽くす萎びれた草のどこかに焦点を合わそうと瞬きを繰り返しながら、身体の状態を確認していく。
脚――すぐに立つのは無理そうだ。
腕――も上がらない。
頭――回らない。
目――グルグルグルグル。
口――
「腹減ったなぁ」
そうは言ったものの、こんなことを見越して食料を用意しているはずもなく。この空腹を満たすには、惨林に命を吹きかえらせるか……もしくは人間を食うしかない。
だが現状ではそのどちらもが難しい。
神霊として惨林とエネルギーを共有している以上、自分にも惨林の命を吹きかえらせるほどのエネルギーはない。
食事をしようにも実体化した身体をこの場から動かせるほどのエネルギーもないから、食料の方に歩いて来てもらわなければならない。
実体化、と言ったが、ならば霊体化もできるのかと言うと、それはその通りで、むしろ神霊である惨林の夜叉は、霊体の方が自然な姿なのだ。実体化している時には、それだけでエネルギーを消費する。
実際、寝ている間に、呑気に実体を保ち続けてしまったことも、惨林のエネルギー消費に一役買っているのだが、依然として実体を保っているところを見ると、その考えには至っていないらしい。
少しずつ目の焦点が合ってきたところで、逆に頭は働きだした。
現状を、現状と言うよりも惨状を認識し、危機感を覚える。
「あ……」
これは十年前の約束を守れていると言えるのか。
この林を守ると言う約束を……。
自分の体の状態を鑑みるに、惨林の状態はかなり悲惨だと思われる。まともに体を動かすことができないと言うのは、夜叉にとって良好な状態ではない。
手軽な解決策として食事が挙げられるが、それもまた約束を破ることになってしまう。
人を食わず、惨林に命を吹き返すにはどうしたらいい?
しばらく考えて、考えるのを止めながらふと自分の信条を思い出した。
「まあ、二兎を追うものは一兎をも得ず……だな」
ありきたりなことわざで。
無理せず、一つのことに集中しよう、そう考えをまとめた。
ここで、ではどちらの約束を重視し守るかだが、そこの結論を出すのは案外早い。
「夜叉としての本分を貫こう」
あっさり言った。
つまりは、林を守り。
人を食おう。
………………。
まあそれは言い訳で、空腹に耐えられないだけなのかもしれないのだが……。
.2
団地の中にポツリと置かれた公園。あまり大きくもないし大した遊具も設置されてはいないが、立地上、昼間は大抵、子ども達が遊び場にしている。
子どもと言っても、歳を重ねれば行動範囲が拡がっていくわけで、だからここで遊んでいるのは、周辺の団地に住んでいる幼い――せいぜい小学生低学年までの幼い子ども達だ。
親としても、自分の家の庭で遊ばせるような感覚でいられる場所なので、意外と未就学児だけで遊んでいるようなこともしばしばある。
そんな公園の片隅に、誰が乗り忘れていったのか……それとも乗り棄てていったのかは分からないが、一台の古い三輪車が、カタカタと風を奏でていた。
その日、その公園で遊んでいた子ども達は、解散するまで誰もそんな三輪車に気を留めず、未発達の言語で何かを喋っては、無意味に楽しげな奇声を上げてはしゃいでいた。
夕方五時。
彼らが両親に「帰って来いと」言われている時間だが、三、四才の子ども達が時計の表示を理解できるなんていうことも、そうそうあるはずない。だから、数分経つと、いつも彼らの母の一人が迎えに来る。そこで、他の子ども達も一緒になって家に帰るのだが、その子どもの中に居たひとり、四歳の少年、去間契は去り際に気付いた。公園の片隅にたたずむ三輪車に。
なにを思ったのか、それとも何も思っていないのか、トテトテとした足取りで三輪車の方へ近づいて行く。
なんの変哲もない三輪車だ。だが、四歳児にとってなんの変哲もない三輪車は、それ自体がもう特別みたいなものなのだろう。契はみんなを呼ぼうと振り返るが、すでにみんな帰ってしまっていて、そこに居たのは、公園の反対側に立つ、まだ読み方の分からない時計だけだった。
一秒を刻む音がよく聞こえてくる……。
しかし契の中では、好奇心が何にも勝っていたようで、すぐに三輪車へ乗車した。すると、
「……こんにちは」
どこからか声を掛けられる。
契は顔を上げて周囲を見渡すが、そこに人の姿は確認できなかった。だが、気のせいとして処理したのか、特に気にした様子もなく、契は地面を蹴って三輪車を前進させ始める。
「こんにちは、オレは惨林叉」
今度こそハッキリと契の耳に届いた。自分の跨る三輪車から声が発せられるのをハッキリと聞いた。すると彼は、さらに地面を蹴って加速し出す。
「わぁ! やった、美奈ちゃんのと同じ喋る三輪車拾っちゃったぁあ!!」
どうやら、キャラクターもので、音声が出せるタイプの少し高価な三輪車と勘違いしたようだ。最近の子どもはオカルトに強い。オカルトよりも不思議な科学がそこらじゅうに満ちている。そんな環境で生活する子どもたちは、不思議なことが起こるのなんて当たり前のことで、だから、例え普通の三輪車が突然喋り出したとしても、それはそういうものなのだ、と納得する。納得できる。
「おい待て少年っ! 違う、違うからちょっと止まって!」
もしかしたら、オカルトの方が最近の子どもに弱いのかもしれない……。
契は三輪車を止めると。
「え? 止まるの?」
と答えた。
それは止まってから訊くことではないが。まあ、四歳の少年に全力で遊びながら会話をするなんていうのは、難しい技術なのかもしれない。
「ああそう、止まってくれ、止まって話を聞いてくれ」
「うん、いいよー」
当たり前の様に受け答えているが、やっぱり世の中よく分からないものだらけの契にとって、なんでもかんでも当たり前の様に受け止めるのが、当たり前の生き方なのだろう。
三輪車が喋っている――まあ、そういうものなのか――と思考するのだろう。
「なんで?」と思えれば恐怖を覚えることもできたのかもしれないが、契にはそんなこと思えなかった。三輪車が喋るという事実のその先にどんな展開が待っているかなんて、想像もできなかった。
だからただ、三輪車の言葉を聞く。
「実はね、君に助けてほしいんだ」
.3
生物は最高の状態で生まれて来る。そして歳をとるに連れて可能性、生命力を失っていき、可能性がゼロになった時が『死』と定義される。
食事において、多くのエネルギーを得るには多くのエネルギーを持つものを食すのが効率的だろう。つまり、人を食うなら幼児に限ると言うことだ。
だが今は自分の体で町に出て動き回るような力はない。だから人を食すには、この林まで自らの足で来てもらうほかない。
そうなると、狙う年齢層は四、五歳がベストだろうか。
そう考え、霊体化した惨林の夜叉は、惨林から五百メートル位の距離にある公園で一台の三輪車に取り憑き、一人の少年との接触に成功した。
取り憑きと言っても、惨林の夜叉にできるのは、触れている相手の脳に直接語り掛けるくらいで、だから少年を乗車させても、そのまま惨林まで自動操縦で連れ去ることは適わない。もし夜叉自身にもう少し神霊としてのエネルギーが残されていれば、この場で実体化して食事をすることもできるのだが、今となっては自分の憑いているあの林の中でくらいしか実体を保てない。
だから、惨林の夜叉は、乗車した少年――去間契をなんとか説得して惨林まで誘導しなければならなかったのだが……。どういうわけか、少年は協力的で、すでに惨林の前まで到着している。
もしかしたら、テレビなんかで放送されている戦隊ヒーローものに憧れをもっている年頃で、「助けてほしい」という言葉に正義感でも滾ったのかもしれない。
とは言え、惨林までの距離が五百メートル位だとしても、四歳児の体で三輪車を漕いで行くとなるとそれなりの意味を持つわけで、だから暮れかけだった太陽はもう、バックグラウンドに回ってしまっている。
周囲に街灯はなく、月の恵みを受けて僅かに輪郭だけ見てとれる惨林は、もはやただの黒い塊でしかなかった。
「この中に居るの?」
暗闇の重たい空気にそぐわない高い声で、契は三輪車に話しかけた。
ここまでの道中で惨林の夜叉は「林の中に、怪我をして動けなくなっている子猫がいる」という説明をしていた。当然嘘だが。
「ああそうなんだ、オレみたいな惨林叉じゃ何もできないから、代わりに助けてほしいんだ」
契は「うぅん」と辺りをかるくみまわし。
「でもどこに居るのかもどうやって森に入ればいいのかも分かんないよ」
と、自分がどうすればいいのかを促した。
この少年には森と林の区別などつかないらしい。まあ、そんなことは大人になったからと言ってよく分かるようになるものでもないし、区別する必要なんて大抵の人にはないのだろう、と惨林の夜叉は頭の片隅で考え、そしてそれ以上に肝が据わっているなと感心を覚えた。
普通、これだけ禍々しい暗闇を前にしたら、中に入ることを躊躇、もしくは拒否するだろうと予想していたのだが、彼はまだ林の中に入っていく気があるらしい。両親から帰ってくるように言われている時間もとっくに過ぎているのだし、それを言い訳に引き返してしまうこともできると言うのに。もっと言えば、この町に住んでいる子どもならこの惨林には近づかないように教え込まれているはずなのに、それらの言い付け――約束を破ってまでも、まだ立ち入る気があるらしい。
こんなに幼い少年が、こうも平然と両親との約束を蔑ろにしてしまえるというのは、いったいどんな心境なのか。少し不思議に思うところではあるが、よくよく考えなおしてみれば、自分もこれから人間を食そうとしているわけだし、案外自分を納得させることができれば、約束を放棄するのに罪悪感を覚えることはないのかもしれない。
正義ノ為ニハ仕方ナイ。
創作物の中のヒーローで、まったくルールを破らないで自分の正義をまっとうしている者がどれだけいるだろうか。
きっとそういう問題なのだ。
契の中では両親との約束より、子猫の命の方が大切だと思えたのだろう。
自分もそうだ。ヒト一人の命より、この林の方が大切。
惨林の夜叉はそう結論付けると、少年に指示を出した。
「ああ、ちょっと先に粗大ゴミが山積みにされてるところがあるだろ?」
「うん」
「草が茂ってて周りからはよくわからないが、実はその裏に道があるんだ」
「道? そこに行けばいいの?」
「そうだ、ずっとまっすぐ進んでいくと祠……小さい建物みたいなのがある。子猫はそこに居るんだ」
「うぅん」と漏らしがら首を廻らせて道を探す契。そして、ちゃんと理解したのかしていないのかはよくわからないが、
「分かった、じゃあ行ってみるっ」
と言うと、迷いなく三輪車を乗り捨て、粗大ゴミの山の向こうへと消えて行った。
明かりも持たず、黒い塊の中に呑まれて行った。
自分の家の庭の様に、平然と駆け出して行った。
惨林の夜叉は、肝が据わっているというより、ただ単に頭が悪いだけなのかもしれない、呑気にそう思った。
.4
約十五分後。
近くに惨林の夜叉が忍ぶ祠に、去間契は迷走することも擦過傷を作ることもなく、平気な顔で到着した。
いくら道があるとは言っても、木の枝や蔓は伸び放題だし、僅かに洩れ差す月明かりで判別が付くほど、整備された道がある訳ではないのに。夜目でも利くのだろうか。
不思議なくらい順調に到着した。
「ここだ」
少し嬉しそうに、確信的な呟きを漏らす。
黒から黒へと視線を彷徨わせながら、
「どこだー、出てこーい」
と、抑揚のない声で呼び掛ける。
数秒後。
返事はない。
………………。
「ぅん」
契は少し周りを探すことにしたようで、祠の裏の方へと歩き出した。道から外れると、土とその上に積もった落葉がクッションの様にになっていて、一歩一歩、きしきしと沈む足場を行くのは、全長百センチ程度の身体には少し辛い様だ。彼はここへ来て初めて、しんどそうな、と言うか面倒くさそうな顔を見せていた。
枝葉の間を丁寧にすり抜けながら、緩慢な動きで祠の傍まで行き裏側を覗きこむ。
居た……。
契はそのまま、そっと音を立てずに顔を引っ込め、祠の壁に背を預けて息を呑む。
すぐそこで、こちらに背を向けて座っていた生物は、とても契が想定して探していた子猫には見えなかった。
…………………………
自分の見間違えを確認するためか、それとも怖いもの見たさなのか、今度は慎重に角から覗き込む四歳児。
「あれっ」
しかし、そこには何もいなかった。まるで空間に穴でも開けたかのように、ぽっかりと地面が広がるだけで、視界を遮るものは、前も後も同じ様な植物たちだけだ。
「おかしいなぁ」
やはり気のせいだったのだろう。恐らく光の当たり具合で、暗がりが生き物の様に見えてしまっただけ。最初からそこには何も居なかったのだ。
契は何かが居るように見えた場所まで行って周囲を伺うが、何も見つけられなかった。
彼がもう少し歳を重ねていれば、今立っている場所が妙に安定していることに違和感を持てたかも知れない。フカフカの土と落葉が加重によって潰れて固まっていることに気付くことができたかもしれない。だけど契は四歳児だ。いくら肝が据わっていると言っても、思考能力がずば抜けている訳ではない。拾った喋る三輪車に唆されて、こんな所まで来てしまう子どもだ。
そして、肝が据わっているが故に。
一瞬で警戒を解き。
周りを見回しながら。
躊躇いなく。
振り向いた。
.5
背筋を汗が冷やかした。
振り向いた先には……何もない。
ただ歩いて来た地面が見えるだけ。
目の前では何も起こっていない。
だけど。
人によっては気付かないかもしれないほど些細な変化だけれど。
こんなに暗い景色の中で。
自分の後ろから影が差した。
自分の後ろに何かが立った。
さっき祠の裏に何かを見た時と同じ感覚。
「――――っ」
もう振り向く暇はない。
背後にそれを感じた瞬間に契は駆け出した。
子どもゆえに素直な選択ができたのだろう。
怖いから逃げる。
おかげですぐそこまで伸びていた惨林の夜叉の手を回避でき、その選択は正解と言えるものだったのだが……そこで、
「にゃぁ」
「――ねこっ!?」
そう、契はこんな所まで子猫を助けるためにやってきたのだ。
両親との約束を破ってまで果たそうとしていた目的を思い出し。
足を止め。
声の聞こえた方へ反射的に意識を向ける。
真後ろを向く。
目が合った。
――――――――
腕の毛穴が縮小していく。
――――――――
どうしようどうしようどうしよう。
――――――――
目の前に恐怖が立っている。
――――――――
叫ぶべきか泣くべきか笑うべきか。
足の先から顔に向けて蛆でも湧き進んで来るような。
押さえつけられた手の爪を一枚一枚、捲り取られていくような。
両耳に鉛筆をゆっくりと突き立てられるような。
コップいっぱいのナメクジを呑まされるような。
もう取り返しのつかないという感覚。
寒い、熱い? 分からない。
どうしたらいい? 逃げたい、でも子猫を探さなくては。
まだ、そんなことを考える。
「――――――――」
「にゃぁ」
鋸の刃よりも豪快に並んだ歯が、不釣り合いなサウンドを溢した。
そして言った。
「こんにちは、オレは惨林叉。助けに来てくれてありがとう」
「……ぇ?」
契は、気が付けばその場に尻もちを着いていた。
「残念だったねぇ少年。自分の命だけを考えて振り向かずに走っていれば、もしかしたら逃げ切れたかもしれないのに」
恐怖の塊が一歩ずつ鈍足歩行で距離を詰める。
その足が土に加える圧力とシンクロして、契の心臓が締め付けられていく。
「別のものまで助けようとするなんて。そんな欲張りじゃこの先何も得られないぜ」
猛悪な笑みとともに牙が浮き上がる。
「二兎を追うものは一兎をも得ず、二択の問題で選んでいいのはひとつだけなんだよ。自分の命と子猫の命、両方選んだ時点で失格」
目の前でまで来た。
「だからオマエはオレに食われるんだ」
「……ぁ、何でぼくを食べるの?」
震える下顎をなんとか広げて声を出した。
「あぁ、腹が減ってるんだ。オマエだって腹が減れば飯を食うだろ? それと同じだよ」
かるく視線を遊泳させ。
「ねこ……は?」
まだ子猫の存在を信じているらしい。もしかしたら、三輪車の正体が自分に影を落としている恐怖の塊だと言うことにも、まだ気付いていないのかもしれない。
「もう、食っちまった」
無意味で納得のいく嘘を吐く。
「それじゃ、いただきます」
大口を開く。
少年の体では、迫りくる洞窟になすすべもなく。
次の瞬間には、もうその姿はなくなっていた。
……惨林の夜叉ともども。
跡形もなくなっていた。
.6
「まったく、やはりこうなってしまったか」
月夜の惨林。
その祠の前で、一体の夜叉がため息のついでに呟いた。
ついさっきまで少年の姿をしていたその夜叉の腹は、何か強大なものを丸のみした蛇のように膨れ上がっていた。
「本当に頭の悪い奴だ」
瞼を細めて垂れ下がる枝の葉に触れる。
萎れた緑。
それを表情で憂うと、膨れた腹を叩いた。
ほんの僅かに木が背伸びをしながら揺らぐ。
すると青黒く冷やかな空が、枝葉の隙間から見えるようになっていた。
月の光が惨林の中まで届き、心做し雰囲気が明るくなった。
一度叩いた腹は、中身が消化されたように普段の平たい状態に戻っている。
「分かったような顔をして……子どもでも知ってるようなことわざをしたり顔で使って……」
惨林の外へと続く道を歩きながら、巨体が自然を気付つけてしまわぬように小さな体――去間契の姿に変化する。
当然、そんな少年は存在しないのだけれど……。
「二兎を追うものは一兎をも得ず……それは、何も考えずに最初から何かを諦めろって意味じゃあないだろう」
するすると進んで行き、今度は十分もかからずに外まで辿り着く。
粗大ゴミの山。
「欲しいものがあるなら、全部手に入れる方法を死ぬ気で考えて、掴み取る努力をするものなんだよ」
誰も通らない道路に、夜叉の姿で胡坐をかく。
「お前に足りなかったのは考えだ。考えるフリなんて誰にでもできるし皆やってる」
少し強い風が吹くと、さっきまで静かだった惨林は葉をはためかせ、ざわざわと饒舌に騒ぎ出した。
「思考を停止するな…………本当に手に入れたいものは、考えなしで得られるものじゃない……馬鹿に捕まる兎は、一匹だっていやしないんだ」
粗大ゴミの山から適当にブラウン管のテレビを掴み取る。
そして、
「止まるくらいなら死ね」
文字通り、テレビに齧り付いた。
噛み砕き。
飲み込む。
次は冷蔵庫。
箪笥。
原付自転車。
食器棚。
下駄箱。
学習机。
プリンター。
炊飯器。
物干し竿。
ノートパソコン。
オーディオプレイヤー。
網戸。
敷布団。
デスクチェア。
スーツケース。
座椅子。
卓袱台。
エレキギター。
ソファ。
本棚。
ベッド。
ただの角材。
雑誌の束。
ストーブ。
ペットボトル。
エアコンの室外機。
水槽。
ガスコンロ。
電子レンジ。
コルク栓。
ディスク。
テレビ台。
アンテナ。
工具箱。
燃えるゴミの袋
扇風機。
ハンガーラック。
ゴミ箱。
ビニル袋。
シャツ。
メガネ。
ランドセル。
衣装棚。
炬燵。
鏡。
……………………。
まだ半分もなくならない。
夜叉の食料は、人間だけだ。
.7
翌朝。
目を覚ました太陽に照らされて、惨林は活き活きと緑を輝かせていた。
祠へ続く道を塞いでいたゴミはもう見当たらなかった。
同様に、夜叉の姿も見つからない。
カタ……カタカタ……
今朝はこの惨林の前をよく人が通る。
犬の散歩をする老人や。朝からコンビニに行く若者。新聞配達のバイク。通学途中の学生。
普段は、わざわざ別の道を使っていた人たちが自然と近くを通過していく。
そして、母と手をつないで保育園へと向かうひとりの少年が、林の入り口付近でそれを見つけた。
「あっ、ママ見て。あそこに三輪車があるよ!」
そんな惨林の片隅に、誰が乗り忘れていったのか……それとも乗り棄てていったのかは分からないが、一台の古い三輪車が、カタカタと風を奏でていた。
繋いでいた手をほどいて、少年は三輪車に駆け寄り、母へ笑顔を向けてその上に跨った。
「ほらぁ、早く行かないと時間になっちゃうわよぉ」
微笑みながら声をかける母には、キャッキャとはしゃぐ少年の楽しそうな声だけが聞こえていた。