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アパートの中は、明かりが点いているにもかかわらず、なんだか薄暗く、じめじめとしていた。
じめじめしているのは、今、雨が降っているから、という理由もあるとは思うけど。
ドアから入ってすぐの場所は、少しだけ開けた空間となっている。
テーブルと二脚の長椅子が置かれたこのスペースは、ちょっとしたラウンジとして使われているようだ。
その椅子に、ひとりの男性が腰をかけていた。
「あっ……叔父さん、ですよね!?」
「ん? ああ、カモメちゃん、お久しぶり。雫さん、お迎えご苦労様」
顔を上げた叔父さんは、私と雫さんのふたりに対して同時に声をかけてきた。
このアパートのオーナーである叔父さん――綾樫凪刀さんだ。
にこっと爽やかな笑顔を向けてくれている叔父さんは、私の記憶の中にある、輝かしい幼き日の思い出を大切に仕舞い込んだ心のアルバムに貼りつけたままの、十年前とまったく変わることのない顔立ちをしていた。
もう四十間近のはずなのに……。
当時ですら年齢よりかなり若い印象を受ける容貌で、だからこそ私は、叔父さんのことをお兄ちゃんと呼んでいたのだけど。
叔父さんの顔には今もシワなんて全然刻まれておらず、十年前となにひとつ変わらない笑顔をこぼしている。
老け込んだような様子なんて、ひとかけらたりとも見当たらなかった。
「あれ? カモメちゃん、どうかした?」
「い……いえ、べつに……!」
ドキドキキュンキュンしていた、なんて言えるはずがない。
二十歳以上も年上の、親戚の叔父さんを前にして、私の心は高鳴っていた。
高鳴ってしまっていた。
もし本気で好きになったとしても、法律の壁が立ちはだかって、絶対に結ばれることはないというのに。
「カモメちゃん、どうぞ」
コトリ、と微かな音を立てて、目の前に湯飲み茶碗が置かれる。
雫さんが日本茶を淹れてくれたのだ。
「ありがとうございます」
ゆっくりと湯飲みに口をつける。
とりあえず、落ち着かないと。
温かい飲み物で、はたしてこのドキドキが冷めてくれるかどうか、それはわからないけど。
「あっ、美味しい……」
ラウンジ部分の奥には、給湯室が設置されている。
そこで手早く用意されたはずのお茶なのに、熱すぎずぬるすぎず、ちょうどいい飲み心地で、私の喉を爽やかに潤してくれた。
なんともまろやかな風味が、口いっぱいに心地よく広がる。
叔父さんも、自分の前に置かれたお茶へと手を伸ばした。
「うん、いい味ですね」
「ふふっ、どうも」
答えながら、雫さんはお盆に残っていた自分用のお茶をテーブルに置き、椅子に腰かける。
そっと、叔父さんの隣に。
私は遠慮して叔父さんの正面に座ったのに……。
嫉妬めいた思いが浮かんでくる。
ダメダメ。相手は叔父さんなんだから。
それに、ほら、雫さんと叔父さんって、見るからにお似合いだし。
住んでる部屋は違うけど、ずっと同じアパートで暮らしてるんだから、そういう関係になっていたって、全然おかしくないよ。
考えれば考えるほど、気持ちはすべての色の絵の具をごちゃまぜにしたように黒くよどみ、奈落の底へと沈み込んでしまう。
「カモメちゃんは、おとなしいんだね。昔はもっと元気いっぱいだったのに。女性らしくなった、ってことかな?」
黙りこくっていた私を気遣ったのだろう、叔父さんが優しく微笑みかけてくれた。
「そんなことないです。おとなしいっていうか、暗くて地味なだけだし……」
友達がいないわけではないけど、誰とでも仲よくできる性格でもない。
今の高校に入ってからは、同じ中学出身のクラスメイトとほとんどふたりだけで過ごすのが日常となっている。
部活動もやっていない。部活への所属が強制ではない学校だから、アクティブではない私は当然のようにどこにも入らなかった。
だからこそ、バイトをしても大丈夫、ということになるのだけど。
「いやいや、カモメちゃん、可愛くなったよ。モテるんじゃない? 僕がまだ学生だったら、放っておかないところだけどな~」
「いえ、全然そんなことは……」
可愛いと言われて、嬉しくないわけじゃない。
でもこの言い方だと、今の叔父さんにとっては、私はやっぱり恋愛対象に入っていないということになる。
もし仮に恋愛対象になりえたとしても、絶対に結ばれることのない関係なのだから、すっぱり諦める後押しをしてくれる言葉とも言えるけど……。
そうはいっても、テレビのチャンネルみたいに簡単に切り替えられるほど、人の心というものは単純にできているわけではない。
私は複雑な気持ちを抱えながら、叔父さんと、そしてその隣に並ぶ雫さんに視線を向けていた。
叔父さんとお似合いだ、なんて一旦は思ってしまったものの、考えてみたらこの人だって叔父さんとはつり合わない。
なぜなら雫さんは、雨女だからだ。
雨女――。
一般的には、出かけるとなぜか雨になる確率の高い女性のことを言うものだろう。
だけど雫さんの場合は、降水確率百パーセント。
ぱっと見では、綺麗で優雅な雰囲気があって、着物がよく似合う日本的な女性、といった感じでしかないけど、実際には普通の人間ではなく、雨女という物の怪なのだ。
叔父さんがオーナーをしているここ、をどろし荘は、物の怪が住まう特殊なアパート。
オーナー兼管理人として一階の一室、仙人掌の間に住んでいる叔父さんを除き、すべての住人が物の怪となっている。
雫さんは、私がよく通っていた十年前の当時から、すでに住人としてこのアパートで暮らしていた。
今私たちがお茶を飲んでいるラウンジ風のこの場所は、基本的に部屋にこもりがちになってしまう物の怪たちにとって、ほとんど唯一とも言える交流の場となっている。
他の物の怪たちの姿は見えないけど、雫さんの他にも結構な数の物の怪たちが部屋を借りているはずだ。
このアパートに、をどろし荘というちょっと奇っ怪で怖い印象のある名前がつけられているのは、人間が不用意に近づかないようにするための言霊的な意味合いも込められていると、昔、お母さんから聞いたことがある。
「他のみなさんは元気ですか? 河童さんとか、カラス天狗くんとか……」
よく遊びに来ていた幼い頃を思い出し、他のアパートの住人だった物の怪たちについて尋ねてみた。
河童さんやカラス天狗くんにも、雫さんと同じように人間っぽい名前があったはずだ。
ただ、当時から河童さん、カラス天狗くん、と呼んでいたためか、思い出せなかった。
雫さんの名前はしっかり覚えていたのに、変だな……という思いはあったのだけど。
ともかく、私からの質問に、叔父さんと雫さんは一瞬眉を寄せる。
「カモメちゃん、河童さんやカラス天狗くんは、今はもういないんだ……」
寂しそうな声。
今はもういない……。
それって……もしかして、死んでしまったの……?
質問したことを後悔する。
そんな私の表情を見て取ったのだろう、叔父さんは補足してくれた。
「このアパートから出ていった、って意味だけどね」
「あっ、そうなんですか」
叔父さんが続けて語ってくれた話によると、数年前、私のお祖母ちゃん――つまり叔父さんのお母さんが亡くなったらしい。
私はそれすら知らなかった。葬式にも出なかった。
最後に会ったのが十年前とはいえ、とても可愛がってくれたお祖母ちゃんなのに……。
申し訳ない気持ちでいっぱいになって頭を下げる私に、叔父さんは、
「母の意向で親戚にも伝えなかったんだ。だから気にしなくていいよ」
と優しく、それでいて少し切なそうな笑顔を向けてくれた。
お祖母ちゃんが亡くなったあと、をどろし荘は息子である叔父さんに引き継がれた。
その時点で、それまで住んでいた物の怪たちはアパートを去り、すべての部屋が空き部屋となった。
物の怪を住まわせているアパートやお屋敷なんかは、実は結構たくさん存在しているらしいけど、物の怪たちは場所に惹かれて住み処にするのではなく、人に惹かれて住み処にするのだという。
そのため、所有者である人間の引き継ぎが行われると、物の怪をつなぎとめていた空間的なバランスが崩れ、一気に解き放たれる。
結果として、物の怪たちは住み処を追われてしまう。
通常、所有者が直系の親族であったとしても、そのまま住み続けられる物の怪はいない。
野良となった物の怪たちは外の世界へと飛び出し、次なる住み処を求めて彷徨うことになる。
中には雫さんのように、変わらずに住み続けられる物の怪もいるみたいだけど、それはごく稀なケースなのだとか。
十年前にこのアパートに住んでいた物の怪で、今でもまだ残っているのは雫さんだけだった。
「そう……でしたか……」
なんだか寂しく思えてしまう。
ともあれ、物の怪とはそういうものらしい。
私が河童さんやカラス天狗くんの名前を思い出せないのも、つながりがなくなって離れてしまったからだという話だ。
もっとも、そういった物の怪がいたという記憶すら消えてしまうのが普通のようで、叔父さんは私が覚えていたことに驚いたと言っていた。
驚いたというわりに、質問を投げかけられたときの叔父さんの表情が、どちらかといえば寂しげな感じだったのが、ちょっと引っかかる部分ではあったけど……。
叔父さんはすでに話題を変え、アパートの現状について話し始めていた。
をどろし荘は、レンガ造りで趣のある建物だ。
外から見ると少々狭そうにも思える。
それでも、とくに問題はなかった。
なぜなら建物内の空間がいい意味で歪んでいて、住み処とする物の怪が増えればその分だけ部屋も増えていくという、常識では考えられない便利な機能を有しているからだ。
をどろし荘の外観からすると、二階建てで部屋数はそれぞれの階に三つ、といった感じにしか見えない。
それなのに、数十の物の怪が住み着いているなら、合計数十もの部屋数となる。
おぼろげな記憶をたどれば、私がここを訪れていた幼い頃には、確かにたくさんの部屋があったのを思い出せる。
今現在は、一階に三部屋、二階に三部屋の計六部屋とのことだから、外観のイメージと差のない状態と言えるだろうか。
なお、このラウンジの先には、二階へと続く階段が存在する。
そして階段のすぐ脇から、一階の廊下が続いている。
廊下はラウンジから九十度曲がった方向へと続いているため、先がどうなっているのか、私の今いる場所からは見えないけど。
一階に三部屋あるというのだから、そこにはドアが三つ並んでいるはずだ。
そういえば、廊下の先は真っ暗だった記憶がある。
住人が増えたら、その向こうに廊下と部屋が増えていく、という仕組みになっているのだろう。
このように、頻繁にではないものの状況に応じて増えたり減ったりするため、部屋を番号管理することはできない。
そんなわけで、叔父さんの部屋は少し前にも言及した仙人掌の間、雫さんの部屋は紫陽花の間、といった感じのネーミングになっている。
花の名前がつけられているのは、初代オーナーだったひいお祖母ちゃんのアイディアだったようだ。
「そういえばカモメちゃん、小さい頃はこのアパートをお化け屋敷呼ばわりしてたよね」
「えっ? 私、そんな失礼なこと言ってました!? ごめんなさいっ!」
「いやいや、いいって。それに、たぶんそれが正常な感想だと思うよ」
慌てる私に、叔父さんは温かな笑顔を伴った優しい言葉を送ってくれた。