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部屋の中は、全体が深い紫色の空気に包まれた、おどろおどろしい様相だった。
あれ? どうして私、こんなところに?
などと悠長に考えている余裕はない。
部屋の中に吸い込まれた私は、その奥にうごめく、紫色を通り越して真っ黒になった空間――ブラックホールのような場所へと徐々に引き寄せられていた。
入ってきたふすまが口なら、ここは口の中。
奥にある食道まで文字どおりゴクンと飲み込まれ、その先で待ち構える胃で溶かされるかのごとく消滅する運命にあるのだろう。
抗おうにも、まったく身動きが取れない。
右手にしっかりとくくりつけたビデオカメラが目に映る。
トイレから出て右手に固定し直した段階で、録画は再開してあった。
部屋の様子を映しておくべきかな?
腕くらいならどうにか動くかもしれないし。
この期に及んで、そんな考えが浮かんでくる。
撮影したところで、ビデオカメラごと飲み込まれて消えちゃったら意味ないか……。
完全に諦めきった思念が、私の頭の中では渦巻いていた。
「大丈夫ですか~?」
そこで間延びした声が響く。
あっ、この声は絹綿さん。
私がこのまま消えちゃったら、叔父さんのこと、よろしく頼みますね。
冷めた思考に囚われていた私の体に、ぐっと圧力がかかる。
と同時に、なんとも言えない不思議な匂いに包まれた。
絹綿さんが私を抱きかかえてくれたのだ!
そのまま部屋を飛び出し、私の体もろとも廊下に倒れ込む。
「痛っ!」
廊下に肩を打ちつけた私を払いのけ、絹綿さんは素早く立ち上がると、ふすまを閉めて赤い御札を貼り直した。
その瞬間、何事もなかったかのような静寂が訪れた。
「ご……ごめんなさい……。っていうか、ありがとうございます……」
私は震える声をしぼり出す。
自分がいったいなにをしていたのか、よく覚えているわけじゃない。
だけど、自分の目に映っていた光景は、鮮明に脳裏に焼きついている。
ふすまに貼られていた御札を剥がしたのは、まごうことなく私自身。
なにかに操られていたような、そんな状況ではあったものの、自ら部屋の中へと足を踏み入れてしまったのは間違いない。
それ以前に、私がこの部屋に近づきさえしなければ、こんなことにはならなかった。
後悔の念にさいなまれる私を、絹綿さんはそっと抱きしめてくれた。
甘いような、それでいて微かに酸っぱいような、刺激もあってなおかつ澄んだ印象の不思議な香りが、私の心を落ち着かせてくれる。
「あまりにも遅いので、心配になって来てみたんですよ~。無事でなによりです~。それでは、戻りましょうか~」
廊下の先からは、多恵さんと銀治さんも心配そうな視線を向けていた。
私は絹綿さんに連れられて、老夫婦ともども客間へと戻っていった。
「あの部屋は、開かずの間になっているのよ。話しておかなかったわたしも悪かったわね……」
多恵さんの話によると、古くから伝わる封印された部屋で、絶対に中に入ってはならぬ、と言われていたそうだ。
「すごく禍々しい空気に満ちていました……。あっ、もしかして幸くんの熱って、あの部屋のせいなんじゃないですか!?」
私の推論には、すぐさま多恵さんから否定が入る。
「いえいえ、それはないはずよ。あの部屋があるおかげで、物の怪は気持ちが安らいで、この屋敷に住み着くの。昔住んでいた物の怪から、そう聞いたことがあるわ」
「そうですね~。さらには、普通の人間がお屋敷の中に簡単には入ってこられないようにする、という役割も果たしているんだと思います~。をどろし荘が、名前による言霊で人間を寄せつけないようにしているのと同じですね~」
絹綿さんも解説を加えてくれた。
「でも、物の怪は人間に存在を意識してもらってこそ生きられるって、絹綿さん、言ってましたよね? それなのに、人間を寄せつけないようにするんですか? なんだか矛盾してるような……」
「存在を意識してもらいながらも、存在を認識されてはいけない。それが物の怪の宿命なんです~」
いつもどおりゆったりした口調で話し終えると、絹綿さんはずずずっとお茶をすする。
当たり前のことですよ~?
そんなふうに言われている気がした。
「あれ? だけど私、絹綿さんとか幸くんのこと、しっかり認識しちゃってますよ? あっ、それに、多恵さんや銀治さんだって……」
考えてみたらMDS自体、人間では対処できない依頼を物の怪が解決してくれる会社として知られているはずだ。
依頼人は来てくれるのが物の怪だと認識していることになるのでは……?
といった私の疑問にも、絹綿さんは落ち着いた様子で答えてくれた。
「中には大丈夫な人もいるみたいですね~。物の怪との親和性の問題でしょうか~。アタシにはよくわかりませんけど~」
「ふ~ん。そういうものなんですね」
なんとなく釈然としない思いを抱えながらも、絹綿さんはわからないと言っているのだから、これ以上追求したところで無駄だろうと結論づける。
「そういえば私、あの部屋に引き寄せられたような感じだったんですけど。それで御札を剥がして、ふすまも開けちゃったみたいだし……」
ふと思い出し、私はほとんど無意識のうちに口にしていた。
「おや、そうだったのかい? 変だねぇ。わたしや銀治さんは、この家に長年住んでいるけど、あの部屋の前を通ってもなんともなかったよ?」
「そうだのぉ。わしも、開けてはならぬと言われて気にはなっておったが、手をかけてみても開かなかったし……」
「あら、銀治さん。そんなことをしてらしたの?」
「む……昔の話だよ」
「若い頃の銀治さん、やんちゃだったからねぇ。あっ、覚えてますか? わたしたちが出会った頃……」
「おいおい、昔話は恥ずかしいからやめろと、いつも言ってるだろ?」
ほのぼのとした老夫婦の雰囲気に、いつしか私の顔にも笑顔が戻っていた。
不可解な部分は残るものの、あまり気にしていても仕方がない。
私はバイトとしてついてきているだけの身。
自分の仕事をしっかりとこなして、絹綿さんの仕事ぶりをビデオカメラで撮影しておけばいいのだ。
あとは、開かずの間には絶対に近づかないよう気をつける。それだけを心に留めておくことにした。
絹綿さんいわく、幸くんの容態は安定しているとのこと。とくに問題はないはずだと語る。
ただ念には念を入れて、明日もう一度足を運ぼう、という話になった。
その後、私たちはしばらくのあいだ、お茶を飲みながら老夫婦との会話を楽しんだ。
今日の仕事は終わったのだから、すぐに帰ってもよかったのだけど。
昔、このお屋敷に住んでいたという絹綿さんとしては、少しでも長くお喋りしたかったのだろう。
そしてその想いは、多恵さんと銀治さんも同じだったのだろう。
ひとしきりお喋りを楽しんで、をどろし荘へと帰る道すがら。
幸くんが熱を出して寝込んでいるというのに、あんなふうにほがらかに笑い合っていてよかったのか。
ちょっと心配になっていた私が疑問をぶつけてみると、
「大切に思っている多恵さんや銀治さんが笑って過ごせること、それが幸くんにとっても、元気の源になるんですよ~。物の怪というのは、そういうものです~」
絹綿さんはそう言って、たんぽぽのように温かく微笑んだ。




