見えない世界の木の下で
秋になると、甘い匂いがするの。
ミカが空の方を向いて言う。
「甘い匂い……」
ミカの座るブランコを後ろから支えながら、タダシは訊いた。「それって、どんなの?」
「どんなのって……うーんと、ねえ……」
ミカは考える。考えながらも、空をじっと見ていた。甘くて……なんか胸がね……なんか、キュンってするの。言った後、「難しいよ!」と照れくさそうに笑いながら、ようやくミカは後ろを振り向いた。自分から少し外れた右上を見つめるその目に、タダシはいちいち心が締め付けられる感じがする。
目、ホントに見えてないんだ――何かいけないものを見ているような気がして、つい俯いてしまう。ミカと出会って半年ぐらいになるけれど、タダシはいまだに、ミカのこの仕草に慣れることができない。
「じゃあ今、空はどんな感じの空なの」
「えっ、空……」
それでタダシは、今までずっとミカの髪の毛を見ていたんだということに気づく。ツインテールにした長い髪の、ちょうど分け目の白くなっている部分。あわてて見上げると、今まさに暮れようとしている空が、そこにあった。透き通った白を背景に、赤く輝く雲の点描。けれど五時を知らせるはずの有線放送は、まだ聞こえてこない。
「ねえ、どんな感じの空なの?」
ミカが急かすと、タダシはブランコの紐を揺する。わっ、なに、危ないじゃない。ミカが大きくよろめくのを見て、しまった、とタダシは思う。でも素直にゴメンと言えない。代わりにわざとムッとした顔を作って言った。
「ちょっと待ってよ……。今、考え中だから」
雲が赤くなってて、太陽が山に沈みかけてて、空が白くて、雲が点々で――いろんなことが思い浮かんだが、そうだ、ミカちゃん、赤とか白って、どんな色かも分かんないのか――だから結局、一つも口には出せなかった。
「難しいんでしょー」
「難しくないし」
「じゃあ早く言ってよ」
「だから、考え中なんだって! ちょっと黙ってて」
「むう……」
もう、いい。
ミカはブランコから立ち上がると、手を前に出さず(一人で歩く時は、いつも手を前に突きだして、障害物がないか確かめるのだ)いかにも平然そうに、だけど誰がどう見ても覚束ない足どりで歩き始めた。このブランコの周りには小さなゲートみたいな囲いがいくつも立っている。ミカは、その存在を知っているのだろうか。タダシはいつの間にか、「危ないっ」と、ミカの手をぎゅっと掴んでいた。
その時強い風が、木の葉と一緒に二人へ吹きつけた。カラカラと回りの木々が一斉に音をたてる。半袖だと、鳥肌がたつくらいに冷たい風。鼻に、一瞬何かが香った。淡く、透明感のある香りだった。甘い匂いだけど、デザートみたいじゃなくて――タダシが思っている最中に、ミカは叫んだ。「この匂いだ!」
「えっ、この匂いなの」「うんっ、ぜったいそう、何だか、近くにあるみたい。ね、探そうよ。私、鼻ならよく利くよ」
鼻をスンスン鳴らしながら、ミカは監視カメラのようにじっくりと辺りを見回す。「なんか、警察犬みたい」「へへっ、かっこいいでしょ」ミカは単純で、褒められたのかと思うと、すぐ得意気な表情になる。
「あっちだワン」ミカの指差す方向へ、二人は手をつないで、いつも通り慎重に歩いていった。
こうやって目の不自由な人をきちんとエスコートするのは難しいけれど、さすがに、タダシの動作にはもう、慣れが染み入っている。
タダシの隣の空き家に、ミカの一家が越してきたのが、そもそもの始まり。初めの内は車で登下校していたミカだったが、これではいけない、とミカ自身が両親に言ったらしく、まずは誘導杖を使っての下校から始まった――養護クラスの先生と、隣の家に住むタダシが付き添ってやる、という条件付きで。
けれど頼みの綱の点字ブロックは学校の周辺ですぐ途切れるし、この町には、坂やぐねぐね道、細い道がやけに多い。あの杖一本で登下校するのは、どう考えても難しいということが判明したのだ。それからだ。杖の使い方は、近くに住んでいるミヤザワさん――同じく目の不自由な人――に教えてもらう。そして誘導杖を使いこなせるまでは、タダシがミカの目になって、家まで一緒に連れ添って帰ることになったのだった。
この半年でタダシは、ミカの歩調より少し速めぐらいに歩くのが、エスコートのコツなのだと分かった。ペースを保ちながらも、前方のジャングルジム、滑り台を捉える。ミカにとっての、透明な障壁だ。タダシはミカの手を右に揺すって、それで方向転換を伝える。
あれ見てみろよ、あっつあつだ、あっつあつ。ほんとだ、すっげー。ジャングルジムの上から下級生の声が聞こえてくる。お前ら、うっせーぞ! タダシが一度怒鳴ってやると、石の下にあった巣を、ぼこぼこにしてやった時の蟻みたいに、下級生は一目散に逃げ出していった。ほんっと、困るよな、ああいうの……。タダシが大げさな口調で言うが、ミカは、コクリと一回うなずくだけだった。
ゴールは一本の木だった。公園の片隅に植えられている、小さな背丈の木。試しに大きく息を吸ってみると、甘い匂いが、ここから放たれているというのがよく分かった。
利き手の右手は、まだミカの手を握っている。だからタダシは、左手をその花弁に伸ばした。「キンモクセイだ。キンモクセイの匂いだったんだ」
ミカは首をかしげる。
「キンモクセイって、何、惑星の名前? 金星木星?」
「違う。花の名前だよ」
「へえー。じゃあこれ、お花の匂いなんだ! 果物の匂いかと思ってた……」
「で、美味しそー、食べたいなーって?」
「もう、違うよ。いい匂いだって思っただけだし!」
ははは、と笑いながら、タダシは一つだけむしり取ったキンモクセイの花を、ミカの鼻へ近づけていく。するとミカは「うわっ」と小さくのけぞった。
「今、すっごい良い匂いがした」
「キンモクセイの花、一つ摘んだんだ。ほら」
タダシはミカの手に、花を持たせてやる。大きいものだと思っていたらしく、初めは手全体を使って掴もうとする。やがて、思ったより小さいのに気づいたのか、ゆっくりと、キンモクセイを人差し指と親指だけで優しくつまんだ。そして鼻に近づけて、何度も何度も嗅ぐ。匂いに夢中になっているミカを見ていると、タダシは急に可笑しくなってきた。ホントに好きなんだね、キンモクセイ。食べてみたら? うん、いい匂い。答えになっていなくて、タダシはまた笑ってしまった。
ミカは匂いを嗅ぐのを一旦止めると、タダシに訊ねた。
「ねえ。キンモクセイってどんなお花なの?」
「どんなって……今、触ってるじゃん」
「でも」声が消え入りそうになる。そして、つまんだ花を指でデタラメにいじくり回し始めた。「全然、分かんないんだもん……」
ミカの表情がいきなり沈んだので、タダシは焦って頭を回転させようとした。オレンジの小さな花びらの? 真ん中にもっと小さなもじゃもじゃがついてて――いや、それじゃあ伝わらない。どう言葉にすれば良いのか、何でこんな簡単そうなこと、すぐ思いつかないんだろう――。オレンジ色の、ちっちゃくて、可愛らしい花びら?
あっ。タダシはふいに声を上げていた。俯いていたミカが顔を上げる。その目は、きちんと声の方――タダシの顔を捉えて、じっと見つめている。タダシは一度息を吸って、吐き出した。そして口を開いた。
「ミカちゃんみたいな花だよ」
タダシは言った後で、俺、なにいってるんだ、恥ずかしくって頭が真っ白になる。思いついたことをすぐ口に出すのはよそうと思った。でも深呼吸までしていたし、結構、覚悟していた気もする――そもそも、何を覚悟していたんだろう。あー、あー、取り消し! 今のなしだからな、わけわからないし! タダシはしどろもどろになりながら言い訳しまくる。自分が今何を言っているのかさっぱり分からない。
タイミングが良いのか悪いのか、近くの家から有線放送の童謡『あかとんぼ』が聞こえてきた。五時の合図だ。「よし、帰ろう!」タダシは、頭に上った熱を吐き出すように言う。公園の出入り口の門を睨む。無理やり手をひくと「ちょっと、待ってよ」とミカが焦ったように言った。
「……私みたいな、花なんだ」
タダシは振り返る。そこには、目をやんわりと細めて、微笑んでいるミカがいた。
タダシはその瞬間、キンモクセイの匂いみたいなものが、自分の心に漂っている気がした。どきどきして、胸が、不思議な感じがする――これがミカちゃんのさっき言っていた、きゅん、というやつなんだろうか――帰るぞ! ぶっきらぼうにそう言って、ミカの手を出口の方へ強くひいた。
帰り道にクラスメイトと遭遇して、二人は「ヒューヒュー、ラッブラブ―!」といつものように囃し立てられた。ちっげーよ、ばーか。家隣だから、手伝ってるだけだっつーの――。そういういかにも嫌そうな口調の裏で、タダシは少し、ミカのことが気にかかった。ミカちゃんに悪いこと言っちゃったかな、どうしよう。罪悪感が頭をさいなんでいた。いつもはイラつくだけなのに、何でだろう。
だからタダシは「ごめん」と、小さな声だけど、謝った。けれどミカは、案外平気な顔をしている。気にしないでよ、タダシ君は、悪くないんだから。良いことしてるんだから、謝らないで。ミカはそう、一息に言い切った。そしてその後、少し間を置いてから、言った。
「いつも手を引いてくれて……ありがとね」
タダシはその場で大きく飛び上がって、そのまま空の彼方を突き破りそうだった。代わりに大きく「うん!」とうなずいて、それから視界だけを、大空へと飛び上がらせた。
そこには巨大な魚がいた。赤い鱗の魚だ。大きすぎて、どこに顔があるのかすら分からない。桃色の空を赤い鱗が覆い尽くしているのだ。
「魚だ!」タダシは思わず叫んだ。「空に魚が泳いでる!」
ミカは空を見上げた。魚がどんなものなのかよく分からなかったけれど、空に何かが飛んだり跳ねたりしているのを想像すると、急に嬉しくなってきた。
「ほんとだ、お魚だ!」
二人の背後には、影が長く伸びていた。たった一本の線で繋がれた、二つの影だ。その二つの影を繋ぐ線は儚く、どこか頼りない。今にも千切れそうなほど、か細い。
――だけど、きっと、だからこそ二人は、いつまでもいつまでも、それを大切にしていくのだろう。
キンモクセイが薫る。
ミカの手のひらの中で、まだまだ消えそうもない甘い匂いを、ふつふつとくゆらせ続けている。