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エール売りの恋

掲載日:2026/05/29

「仕事」がテーマの春のチャレンジ2026に応募しようとして1ミリも間に合わなかった作品です(笑)


・当作品はAIとめっちゃ会議して作っており、一部AI生成文が含まれます。

・魔法もチートもざまぁもありません。地味なお話です。


大丈夫、問題ないという方だけお進み下さい。





 川沿いの町オークリンに、ようやく春が来た。


 朝の空気はまだ少し冷たいが、陽が高くなるにつれて、石畳の道にも柔らかな光が差し込む。


 メイベル・ブルーワーは、裏庭に面した醸造部屋で、湯気の立つ大釜を覗き込んでいた。


「うん、悪くない」


 湯気の向こうで、彼女の頬がほんのり赤く染まる。


 エール造りは、彼女にとって日々の糧を得る活計(たつき)であり、誇りでもあった。祖母や母から教わった仕事を、今はひとりで守っている。


 今日は市の日。


 町のあちこちから荷車の軋む音が聞こえ、通りには早くも人の気配が増えている。


 メイベルは大釜の火が完全に消えているのを確認して片付けを終えると、大急ぎで居間を通り抜け、玄関のある土間へと向かった。急がないと市が始まってしまう。


 通りに面した窓を全開にして光と風を呼び込む。


 それから、左手の指輪に軽く口づけた。


「さあ、トム。今日は稼ぎ時よ」 


 二年前に亡くなった夫――トムが削ってくれたエール・ステークを、窓の外へ差し出し、受け木でしっかり固定する。


 エール・ステークは『新鮮なエールがありますよ』という目印に使う木の棒だ。


 先端に飾りつけたヒイラギの小枝とリボンが、風に揺れる。


 それを待っていたかのように、こちらに近づく男がいた。見知った顔だ。


 彼の名はエドマンド・クーパー。広場向こうにある樽工房の親方で、何度かエールを飲みに来た事がある。


 今日の彼は何だか緊張しているようで、動きが硬い。


「クーパーさん、おはようございます」


 にこやかに挨拶しながら、メイベルは彼が持っている検査棒に目を止めた。


 エドはその視線を受け、検査棒を軽く上げて見せる。


「おはようございます、ブルーワーさん。

 前任者が引退したため、今月付で私がエール検査官に任命されました。どうぞよろしく」

「まあ、それはそれは。こちらこそ、よろしくお願いします」


 軽く帽子を上げて挨拶するエドを土間に通す。玄関をくぐる時、その目がしっかりとエール・ステークの高さが十分かチェックした事に、メイベルは気づいていた。


 仕事のできる人。それが彼に対する印象だった。


 中に入ったエドは素早く室内に視線を巡らせる。


 小さな木製のテーブルと丸椅子が二脚、木製の台には中樽(フィルキン)(約38ℓ)が二つ。


 きれいに掃き清めた土間には、まばらに季節のハーブが撒いてあり、踏むとほんのり匂い立つ。


 全体的に整然として、好感が持てる仕事ぶりだ。


 彼は満足げに小さく頷いた。検査棒を小脇に挟み、腰に下げた革袋から錫の計量カップを取り出す。


「では、検査を始めましょうか」


 色、泡立ち、匂い、味。ひと通り調べ終えると、エドは公定価格と実際の売値を比較し、販売許可を出した。


 検査中も、表通りを行き交う人々が、入れ替わり立ち替わりエールを買って行く。


 客の切れ目を見計らって、エドは彼女の背中に声をかけた。


「ブルーワーさん、お伝えせねばならない事があります」

「はい、何でしょう?」


 改まった様子に、メイベルが不安そうな顔で振り返る。


 エドは少し言いにくそうな様子で、懐から羊皮紙を取り出した。


「実は……今年から税制が変わりまして。麦の割当と記録義務が、以前より厳しくなります」

「えっ、また?」


 メイベルは思わず眉を寄せた。


 ただでさえ冬の間は麦の値が上がるのに、さらに負担が増えるというのか。


 エドも困ったように肩をすくめる。


「うちの工房も同じです。木材も金属も、値が上がるでしょうし……私も頭が痛い」

「そうですよね、みんな大変なんですよね……」


 エドは蝋版に検査結果を書き付けながら、軽く頷いた。


「ええ。だからこそ、余計な災いを招かないよう、帳簿をきちんとつけておく必要があります」

()()()()……私、そういうの分からなくて」


 不安そうな声音に、エドが目を上げる。


「何も記録してない訳ではないでしょう?」

「石板とか、樽に書いたりとか……」

「見せてもらっても?」


 メイベルは居間に駆け込み、石板と石筆を持って戻って来た。石筆は白と灰色の二種類がある。


「私、読み書き苦手で、名前くらいしか書けないんです。だから、こうやって印をつけたり、石板に丸を書いたりして、分かるようにしてます」


 エドは興味深そうに覗き込む。


 彼女の説明によると、白が支出、灰色が収入。棒線は樽や袋の数、金額は丸印で表記されているようだ。


「ああ、この印は鍛冶屋ですね」

「そう、こっちはパン屋さん」

「なるほど、工夫されていますね。これなら十分記録になります。

 そうだな……何の袋だったか分かるように、記号の種類をもう少し増やすと、もっと正確になるかも」

「あ、そうですね!」


 メイベルは素直に感心した。


 エドの説明は丁寧で、押し付けがましさがない。


 トムもそうだった。辛抱強くて、メイベルの気持ちを気づかってくれる、良き夫だった。



 エドと入れ違いにやって来たのは、ウィルとエルシーだ。


 ウィルはトムの甥で、近在の農場主の三男坊。今年十七になる。


 エルシーは近所の八百屋の娘。ウィルのひとつ上で、彼と将来を約束している。


 二人は共同で市場に屋台を出しており、エルシーのいとこが店番を代わってくれたからと、休憩に来たようだ。


 メイベルは早速、エドから聞いた話を二人に伝えた。


「俺ら、()()()()の付け方を覚えないとダメかな?」


とウィル。


「売れ残った野菜を、もっともっと活用したいよね」


とエルシー。


「私も、麦の配合を見直すわ」

「えっ、これ以上美味くなったら、俺の分がなくなっちゃうよ!」


 三人で話していると、自然と笑い声があふれる。


 先行きへの不安はある。でも、仲間がいればなんとかなる気がした。



* ***** *



 翌日。


 土間でくつろぐ常連客とお喋りしていたメイベルは、通りを歩くエドの姿を見つけた。


 今日も検査棒を持っているので、エール検査官の仕事があるのだろう。


「クーパーさん、クーパーさん」


 メイベルは窓から声を張り、彼がこちらを見ると、棚の包みを掴んで土間から飛び出した。


 昨日のエドの助言は、ひとりでエールを売り続ける彼女の胸を、少しだけ楽にしてくれた。


 それを伝えたくて、メイベルは包みを差し出す。


「会えてよかった。これ、お礼にと思って」

「お礼?」

「昨日、色々教えてくれたでしょ? すごく助かったから」


 エドは驚いたように目を瞬かせた。


「こんな……気を遣わなくても」

「中身は今朝焼いた平パンなんですよ。大したものじゃないんです」


 それなら賄賂にはなるまい。そう判断したエドは礼を言って受け取った。


「ありがたく頂きます」

「早めに食べちゃってくださいね」


 布越しに立ち昇るほのかな匂いに、彼の口元が緩む。


 花の香を含む風が、ふたりの間をやわらかく吹き抜けて行った。



* ***** * ***** * ***** *



 夏の市は特に人が集まる。


 オークリンの町は、早朝から市の日独特のざわめきに包まれていた。


 通りには野菜を積んだ荷車や、卵を大量に抱えた農夫たちが行き交い、広場ではずらりと並んだ屋台の準備が着々と進んでいる。


 八百屋の娘エルシーは、昨夜作ったポタージュケーキを手際よく並べながら、隣で野菜を運ぶウィルに小声で話しかけた。


「ねえねえ、聞いた? メイベル、ギルドに目をつけられてるって」


 ウィルは箱を置き、額の汗を拭った。その眉間には珍しく皺が寄っている。


「父さんも言ってた。醸造ギルドのモルター親方が、最近あちこちで女のエール売りに口を出してるそうだ」

「大丈夫かな。あの親方、悪い人じゃないんだけど……ねぇ?」


 エルシーも彼につられたように眉根を寄せる。


 麦芽製造所の親方、ロバート・モルター。


 醸造ギルドの監督役。親分肌で面倒見の良い男だが、女が商売をすることに関しては、古式ゆかしい考え方を持つ頑固親父だ。


 メイベルは寡婦だ。生計を立てるため、年間通して自宅でエールを売っている。


 規模が小さいとは言え、ギルドの認定証がない以上、いつ目をつけられてもおかしくなかった。


「今日は市の客が橋に流れるだろ。叔母さんの家、混むよな」

「だよね。だからさ、モルター親方が乗り込んだりとか、ないかな?」


 自分の言葉に不安を煽られたのか、エルシーが唇を噛む。


 ウィルは思わず拳を握った。


「俺、あとで様子見に行っていいかな? 叔母さん一人じゃ心配だ」


 エルシーは少し笑って、ウィルの腕を軽くつねった。


「もちろんいいよ。ほんと、ウィルは叔母さん大好きだよね。ちょっぴり妬けちゃう」

「ええ!? 叔母さんは叔父さんの奥さんで俺の叔母さんだぞ!?」

「ふふふ、冗談だよ。野菜はあたしがやっとく。今すぐ行って」


 焦り始めた恋人の頬に、エルシーは素早く口づけ、背中を押した。



* ***** *



 その頃、メイベル宅にはすでにロバート・モルターが乗り込んでいた。


 戸口いっぱいに仁王立ちしているため、土間が少々暗い。


 暑い夏のさなかでも、醸造ギルドの監督役として動く時はきっちりダブレットを着込んでいるから、見るだけで暑苦しい。


「よぉ、メイベル、久しぶりだな。ちょいと邪魔するぜ」


 大きな手に握っている木槌が、なんとも恐ろしげな雰囲気を醸し出している。が、これは木札に記録するための道具であって、物騒な用途はない。


 この大男は、トムが生前働いていた麦芽製造所の親方で、非常に面倒見が良い。そう、良過ぎるくらいに。


 飲み客の前にやっかいな訪問客がやって来た。メイベルは引き攣りそうになる顔を精一杯緩めて笑顔を浮かべた。


「モルター親方、いらっしゃい。朝からどうしたんです?」

「どうしたもこうしたもない。ギルドの認定証の件だ。お前さん、まだ申請していないだろう」


 メイベルは軽く首を傾げて腰に手を当てた。


「おや、私をギルドに入れて下さるんですか?」

「無茶を言うな。女をギルドに入れる訳なかろう。

 女が商売に手を出すと町の秩序が乱れちまう。市の日なんざ荒くれ者も来るんだ。

 女ひとりでエール売って、何かあったらどうする。うちの娘もお前さんと同じくらいの歳でな、余計に気が気じゃねぇ。

 悪いこたぁ言わん。早く再婚して、旦那のために美味いエールを作ってやれ。

 手持ちの麦はギルドで引き取ってやる。なんなら、好い男も紹介してやるぞ」


「トム以上に好い男なんかいないわよ!」


 立板に水とばかり捲し立てるロバートに、メイベルはかっとなって噛みついた。


 彼女の涙目に、ロバートが狼狽える。


「な、何も泣くこたぁなかろう。まるで俺がいじめてるみたいじゃねぇか」

「泣いてなんかいません!」


 エプロンで目元を拭うメイベルから、気まずげに目を逸らしたロバートが頭を掻く。


「自分ちでエール作るんじゃあ、麦も酵母も品質を保つのが難しいし、第一衛生的じゃない。

 なあ、メイベル。売り物のエールは男に任せるのが道理ってもんだ」


 うちにはうちのやり方がある。メイベルがそう言い返そうとした、その時、ロバートの背後から咳払いが聞こえた。


 エール検査官のエドだ。今日も右手に検査棒を携えている。その後ろで息を切らせているのはウィルだ。


 熱くなっていた二人が通りに目をやれば、ずいぶん野次馬が集まっている。ロバートのよく通る胴間声が客寄せになったのだろう。


「こんにちは、モルター親方、ブルーワーさん」

「お、おぅ、樽の、久しぶりだな。お、そっちはトムの甥っ子か」

「こんにちは、クーパーさん。どうぞ入ってください」

「では、失礼」


 エドとウィルを中に通したら、何故かロバートまで入って来た。土間はもう満員だ。


 外の野次馬は、近づいて来ない代わりに興味津々で中を覗き込み、聞き耳を立てている。


「おい、樽の。お前さんからも何とか言ってやってくれ。

 いつまでも女手ひとつでエール売りを続けられるもんじゃねぇだろう。

 樽洗いひとつとっても重労働じゃねぇか。メイベルはいつかぶっ倒れるぞ。

 それに、個人でやるんじゃ品質管理や衛生管理にも限界がある」


 いつかぶっ倒れるぞ。


 そのひと言に、ほんの一瞬、エドとウィルの目がメイベルに向けられる。が、エドはすぐに口の端を上げて見せた。


「品質や衛生に問題があるかどうか、今から調べますよ。メイベルさ…っっ失礼!」


 ロバートにつられたのだろう、姓ではなく名を呼んでしまったエドは、慌てて詫びた。


「構いませんよ、遠慮なくメイベルと呼んでください。はい、うちの自慢のエールを存分に調べてくださいな」


 メイベルはにっこり笑って、スモール・エールを満たした木杯を小さなテーブルに置く。


 税制変更の煽りでメイベルも値を上げざるを得なかったが、麦の配合や焙煎の度合い、ハーブの仕込み具合など、精一杯の工夫を凝らし、客をつなぎ止めて来た自慢のエールだ。


「ありがとう、私のこともエドマンドと呼んで下さい」


 エドはほっとしながら丸椅子に腰掛けた。革袋から錫の計量カップを取り出し検査に取り掛かる。


「叔母さん、大丈夫?」


 木杯から計量カップにエールを移すエドを横目に、ウィルが小声で話しかけた。


「大丈夫よ、うちのエールには、誰にも文句をつけさせやしないわ」

「いや、そうじゃなくてさ」


 小声で、しかしきっぱりと答えたメイベルに、ウィルが更に言い募ろうとしたのだが、


「大丈夫じゃねぇだろうが」


 先にロバートが口を挟んだ。


 狭い土間だ。抑えた声でもロバートには聞こえたのだろう。


「認定証はどうすんだ。このまま認定証なしで商売を続けられちゃあ、醸造ギルドとしても罰金を取らなきゃ示しがつかねぇ。

 おい、小僧、お前んとこの農場にメイベルを置いてやれよ。女ひとりぐらい、なんとでもなるだろう?」

「えっ、そりゃあ、農場に仕事はいくらでもあるけど……」


 いきなり話を振られて、うろたえたウィルだが、メイベルの表情を見て口元を引き締める。


「……だけど、嫌がる叔母さんを無理に引きずって行くなんて、俺はしない。父さんにも兄さんにもさせない」

「ぁあ? お前のようなガキが決めるこっちゃねぇだろうがよ。何様のつもりだ、小僧」


 土間の空気に緊張が走った、その時、


「はい、検査は終わりましたよ」


 穏やかにエドが検査終了を告げた。蝋版に検査結果を書き付けながら、さらに言葉を続ける。


「エールの品質も、衛生面も申し分ない。公定価格での販売も問題なさそうですが……そちらの樽も新しいですね?」


 サイズこそ中樽から小樽(ピン)(約19ℓ)へ落としたが、台には変わらず二つの樽が並んでいる。


「中身はどちらもスモールなんです。すぐ出しますね」

「お願いします」


 ()を外されたロバートは溜め息をついて小さく舌打ちした。


「また来るからな、よく考えとけ。頼むから、俺に罰金宣告させてくれるなよ」


 ロバートがいなくなると途端に土間の空気が緩んだ。と、思う間もなく、外で見物していた野次馬たちがどっと押し寄せる。


 メイベルはエドへの礼もそこそこにカウンターへと駆け寄った。


 その背中を見つめながらウィルは強く拳を握りしめる。


 エドは道具を片付けながら、按ずるように二人を見守っていた。



* ***** *



 ロバートが乗り込んで来てから数日後。


 朝一番の混雑で忙しいメイベル宅を訪れたウィルが、開口一番こう言った。


「叔母さん、俺、醸造ギルドに登録して来た!」


 いきなりの登録宣言に、客に木杯を渡そうとしていた手が止まる。


「なんですって?」


 振り向けば、胸に輝くギルド章。


「俺、叔母さんのエールを守りたいんだ!」


 メイベルはぽかんと口を開けて立ち尽くす。客の催促で我に返り、慌てて木杯を渡し勘定した。


「先に中に入ってなさい、落ち着いたら行くから」

「うん」


 素っ気ない叔母の態度にひやりとしながら、ウィルは居間へと入った。


 居間のテーブルで待っていると、間もなくメイベルが入って来た。


 ウィルの前に並んでいる羊皮紙と木札を一瞥すると、暖炉の火で手早く粥を作り、スモール・エールと共に卓上に並べる。


 いつもは賑やかにお喋りする彼女が、ひと言も口を利かないので、ウィルもかしこまって様子を窺っていた。


「……それで、どういう事なの?」


 粥をひと口食べた後、ようやく問われ、彼は居住まいを正した。


「あのね叔母さん、覚えてる? 昔、俺にさ、『うちに弟子入りする?』って聞いてくれたよね?」


 昔話を持ち出され、メイベルはひとつ瞬く。


「あんたが六歳の頃の話よね?」

「そうだよ、あの時も今も、俺は土地が継げない三男坊なんだ」


 農場を継ぐのは長男と決まっている。それ以外の者たちは、いずれ農場を出て自分で暮らしを立てなければならない。


「お願いします、俺を弟子にして下さい。俺、叔母さんのエールがなくなっちゃうのは嫌だ」

「ウィル……」


 彼の目は真剣だ。昔の事。軽はずみ。そんな風に叱って良い話ではないと、メイベルは悟った。


「義兄さんはなんて?」

「父さんは、許してくれたよ。時間ができたら挨拶に行くって言ってた」

「エルシーは? 結婚するんでしょう?」

「賛成してくれたよ」

「本当に?」

「本当に。ねえ、叔母さん。これ受け取ってよ」


 テーブルの上に並べていた羊皮紙と木札を、彼は押しやった。


 それは、ギルドの認定証と、刻み目の入ったタリー棒(記録用の木札)だ。


 メイベルにはその刻み目が何を意味するのか分からないが、ウィルが醸造ギルドに加入したことを、公式に認める何かが刻まれているのだろう。


 それを眺めているうちに、彼女の胸に熱いものが込み上げて来た。


 トムとの間に子供はできなかった。代々受け継いできたエールのレシピは、自分の代で終わるのだと思っていた。


 だが、まだ望みはあるのかも知れない。


 メイベルはエプロンで目元を拭った。


「ウィル、ありがとう。寝床は屋根裏でいいかしら」


 洟をすすりながらの言葉に、ウィルが目を輝かせる。


「寝床はどこでも! これ、土間に飾るだろ? 打ちつける板を用意しないと!」


 ウィルが勢い込んで立ち上がったその時、開きっぱなしの玄関扉が荒々しく叩かれた。


「おいコラ小僧っ! 出て来いっ! いるのは分かってんぞ!」


 (まご)(かた)なきロバートの胴間声である。


 ウィルはさっと認定証を掴み、悪戯っぽく笑った。


「これ、見せびらかしてやろう」

「こら、煽っちゃダメよ。上手く付き合っていかないと」


 前回ロバートに食ってかかった張本人が言っても説得力に欠ける。ウィルは笑って流し、意気揚々と土間へ向かった。呆れ顔のメイベルがその後に続く。


 土間に出てみると、凄まじい形相の大男が腕組みをして仁王立ちしている。


 通りには早くも野次馬が集まりつつあるようだ。


「やあ、モルター親方じゃないですか」

「お前はバカなのか? アホなのか? どんだけトンチキなんだ?」

「何ですかいきなり、失礼でしょう」


 気取って挨拶したところを頭からやられて、ウィルがむっと唇を尖らせる。


「何だってこのクソ暑い時にギルドに入りやがった。秋には税の徴収があるんだぞ、分かってんのか!?」

「そ、それくらい分かってますよ」


 先程までの余裕はどこへやら。ウィルは気まずげに目を逸らす。


 二人の会話から何かを察したメイベルが、思わず口を挟む。


「お金の、話ですか?」


 そのひと言で場が凍る。


 痛いような沈黙の後、ロバートがギロリとウィルを睨みつけた。


「……言ってねぇのか」


 彼の胴間声は、いっそ静かだ。


「何の話なんです、教えてください」

「ギルドに入ったら、入会金と年会費がいるんだよ」

「俺、金貯めてたから」

「それ結婚資金じゃないの!」

「げ、現金じゃなくてもいいって。物とか、道や橋の修理とか」

「入会金、銀貨六枚と銅貨八枚。年会費、銀貨二枚。締めて銀貨八枚と銅貨八枚。

 ただ働きで納めていつエール造んだよ。年会費は毎年だぞ!」


 説明を聞きながら、メイベルは目の前が真っ暗になった。


 銀貨八枚といえば、麦や薪の仕入れ値を加えてもメイベルが半年近く暮らしていける金額だ。


 なんとかしなければ。


 足元が揺らぐ。頭が真っ白で、ウィルを叱るロバートの声が遠い。


 誰かに、相談を――


 そう思った時、真っ先にエドの顔が浮かんだ。


 なぜ彼が? ひとりで狼狽えていると、再び開けっぱなしの玄関扉を叩く音。


「失礼、何か揉め事ですか?」


 たった今、頭に浮かんだばかりの顔がそこにいるものだから、メイベルは腰を抜かしそうになった。


 今日は検査棒もダブレットも無しだから、樽の仕事で通りかかったのだろう。作業用のシャツは胸紐を結ばず垂らしたままだ。


「どうもこうもねぇ、このクソガキが醸造ギルドに入りやがった」


 エドは一瞬、驚きに目を瞠り、すっかり意気消沈しているウィルに視線を向けた。


「それはそれは……だが、それ自体は悪い事ではない。

 どうでしょうモルター親方、この場は私に預けて頂けませんか?」


 ロバートは低く唸った後頷いた。


「頼むぜ、樽の。

 おい小僧、メイベル。どうしようもなくなったら必ずうちに来い。俺が無利子で貸してやる」


 それは無い。


 メイベルは反射的に思った。


 トムの雇い主だったロバートが、厚意で申し出てくれているのは分かる。だが、彼に金を借りれば、必ず条件をつけられるだろう。


 エール売りをやめるよう言われるかも知れないし、縁談を持ち込まれるかも知れない。


 自分が自分でなくなってしまう。


 そんな恐怖が彼女の思考を塗り潰す。


「すみません、メイベルさん」


 穏やかな声に、はっと顔を上げた。


 いつの間にか深く俯いていたようだ。気がつけばロバートも居なくなっている。


 エドの顔を見ていると、なんだか肩の力が抜けて、周囲の様子が見え始める。


 通りに集まっていた野次馬が、またもや押し寄せてきたらしく、ウィルがてんてこ舞いしている。


「ウィルと話をしたいので、居間をお借りしても?

 ああ、それより先に認定証を飾りましょうか。そうしたら、誰が見ても『ここのエールは大丈夫』と思うでしょうからね」

「……はい、エドマンドさん、ありがとうございます。このお礼は必ず」

「なに、礼には及びません。困った時はお互い様です」


 メイベルが売り子を替わると、ウィルとエドは居間へと移動して行った。



* ***** *



 翌日からメイベルは、これまでにも増して、馬車馬のように働き始めた。


 エドの助言を参考にウィルと話し合い、税や年会費などは、裏庭で飼っている豚、布、雑役で支払うと決めた。


 エール醸造の時に出る麦糟で育った豚は、肉質が良く高く評価される。秋の一番肥えた頃に納めれば、税の大半を賄えるはずだ。


 そして布。機織りは日常の家事だが、目の詰んだ密織麻布(みつおりあさぬの)は、どこも欲しがる。


 その布を更に加工する。


 木槌で叩いて艶を出し、糊付けして乾かす。それを数回繰り返せば、衣服用の上級品と見なされる。


 ウィルが貯めた結婚資金には、絶対に手をつけさせない。これだけは、メイベルが頑として譲らなかった。


 その結果、エルシーの父親がいたく感心し、助っ人として娘を寄越してくれたのだから、情けは人のためならずとは良く言ったものだ。


 ウィルもまた、早速とばかりメイベル宅の屋根裏に引っ越した。


 早々にギルドや治安判事、教区役人と打ち合わせを済ませ、醸造を手伝ってから雑役に出かける日々。


 城壁の修繕から広場の清掃まで。仕事は年中ある。


 労を惜しまず働くウィルは、すぐに仲間として受け入れられた。


 ロバートも「ふん、やる気だけはあるようだな、小僧」などとまめに声をかけてくれるようだ。


 夜明け前に起きて、働いて、働いて、働いて、気絶するように眠る日々。


 そんな毎日を繰り返す内に、七月下旬『聖ブランウェンの日』が巡って来た。


 聖ブランウェンは『竈門の守護聖女』と呼ばれ、町の竈門を与る者たちの尊崇を集めていた。メイベルは毎年この日を大切に過ごして来た。


 だが今年はいっそう特別だ。


 何しろ、『聖ブランウェンの日の夕餉』にエドを招いたのだ。色々お世話になったお礼として。


 エルシーの手も借りて、数日前から少しずつ家中を念入りに掃除し、もてなしの準備を整えた。


 一日の仕事が終わり、夏の陽が傾いた頃、エドがメイベル宅の戸を叩く。


 出迎えたメイベルが挨拶をすると、エドは礼儀正しく帽子を取って挨拶を返した。


 少し乱れた前髪を整えてあげたい。


 奇妙な衝動に駆られた彼女は、エプロンを握りしめ、踵を返す。


「さあ、入ってくださいな」


 彼がきちんとした身なりで来てくれたのが嬉しい。それはつまり、招待主に敬意を払ってくれているという事だ。


 すでに揃っていたウィルやエルシーとも挨拶を交わし、勧められた席に座る。


「やあ、すごいご馳走ですね」


 女性二人が手際良く並べた料理に、エドは密かに目を見張った。


 鶏肉がたっぷり入った煮込みと、ハーブを散らした温野菜、厚く切った黒パンには目玉焼きとチーズが一切れ添えてある。暖炉の側で温めている鍋からはプラムの甘い匂いが漂って、たまらなく食欲を刺激する。


「大したものは用意できなかったんですけど、たっぷりあるからお腹いっぱい食べてくださいね」


 朗らかに頷いたメイベルが、席について両手を組む。


「今日の竈門の恵みに感謝します。

この家に温かさと平安がありますように」


 聖ブランウェンの日らしい祈りに皆が唱和し、和やかに食事が始まった。


 煮込みの器に入っているのは、鶏の一番良い所である胸肉と腿肉。これは最上級のもてなしだ。


 肉の旨みとたっぷりの野菜とエンドウ豆。それらが渾然一体となって、とろりと舌に纏わりつく。


「美味い」


 エドが思わず呟くと、メイベルとエルシーが嬉しそうに目を見交わした。


 ウィルは夢中で手羽先に齧り付いている。


 木杯に口をつけたエドは、驚いて思わず中を覗き込んでしまった。


「これは、オーディナリー・エール」


 オーディナリー・エールは平民にとって贅沢品。


 物価が上がって以降、メイベルは麦を節約するためにスモール・エールだけを作っていた。


「今日は特別な日ですから」


 彼女が目を向けた暖炉の上には、聖ブランウェンの小さな木版画と、タイムの小束が飾ってある。


「聖ブランウェンに感謝を」


 エドは木版画に向けて杯を掲げ、改めて口をつけた。


 素朴な麦の甘さと、かすかに残る酵母の酸味がほどよく混じり合い、疲れた身体にじんわりと染み込む。


 過酷な労働を毎日こなしている四人にかかれば、たっぷり作ったご馳走もあっというまだ。


 加熱して甘くなったプラムの最後のひと匙を食べ終えると、エドは満足げに息をついた。


「ご馳走様。素晴らしいもてなしのお礼、と言う訳でもないんですが」


 腰の革袋から彼が取り出したのは、木札だ。


 空になった食器を下げながら、女性二人は首を傾げる。真っ先に反応したのはウィルだ。


「あっ、タリー棒ですね。()()()()を教えてもらえるんですか?」


 エドは軽く頷き、メイベルとエルシーに目を向けた。


「ウィルは前々から帳簿を習いたいと言っていたんですよ。今夜お邪魔するなら、丁度良い機会かと思って」

「あたしも聞いてていいですか?」

「もちろん」


 エルシーの問いに、エドが頷く。


 テーブルを拭き終えると、彼女たちは改めて席についた。


「紙は高いから、タリー棒を使うのが一番良いでしょう。

 今までも、これを見る機会はあったと思うけどーー」


 三人が真剣に手元を覗き込む中、エドの解説が始まる。


 タリー棒は、刻み目を入れて記録を残す物で、単体タリーと二重タリーがある。


 単体タリーは帳簿として保管をする。


 二重タリーは、刻み目を入れた後の木を縦に割り、相手方と自分、双方が半分ずつ持つ。税や納品など、ごまかしの許されない場面で使われる物だった。


「ウィルがギルドに入った時のがあるわ」


 メイベルが席を立ち、タリー棒を持って戻る。


「そう、これは『子タリー』だね。『親』はギルドが保管している」

「これには何て書いてあるんです?」


 エドの説明によると、その刻み目からは『加入日・登録料支払済・醸造ギルドの識別印・ウィルの登録番号』といった情報が読み取れるらしい。


「これで『正式に醸造を許された者』としてウィルが記録された証拠になる。誰憚る事なくエールを売れるという訳だ」


 誇らしげなウィルに微笑みながら、エドがタリー棒を返す。


 解説が進む中、エドの言葉遣いが徐々に砕けてきた事に、本人含め誰も気づいていない。


「腕前の方も、早く『正式』にならないとね」


 まぜっ返すエルシーの言葉に、皆が笑った。


 その後、刻み目を入れてタリー棒を二つに割る『二重タリー』の練習が始まった。


 農場でも木材を扱う機会が多かったウィルはお手のものだが、メイベルとエルシーは、真っ直ぐ二分割するのに苦戦した。


 包丁で肉や野菜を切るのとは勝手が違う。二人とも意地になったらしく、焚き付けを使って何度も練習し、エドが暇乞いする頃には、それなりにコツを掴んだようだ。


「すっかりお邪魔してしまった」


 夏とはいえ、日が落ちれば一気に肌寒くなる。玄関扉を開けると、夜の涼気がどっと土間に流れ込んだ。


「エドマンドさん、良かったらこれ、持って帰ってください」


 メイベルに渡された籠には、恐らくパンであろう布包みと、塩釉(えんゆう)焼きの小瓶が入っている。


「エールが少し余っちゃったから、悪くなったらもったいないし」


 断られるのを恐れているのだろうか、少し早口で彼女が言い足す。


 エドは、少々の困惑と淡い期待を胸に、メイベルを見下ろした。


 彼女の顔には、隠しようもなく疲れが滲んでいる。


 無理するな。


 喉元まで出かかった言葉を辛うじて飲み込む。


 十月の納税の時期は、もうすぐそこまで来ている。今は無理をしてでも、税やギルドの入会金などを工面しなければならない時だ。


 だから、彼は代わりの言葉を口にした。


「君は、エールだけでなく、料理を作るのも上手だ」


 照れたように、嬉しそうに、花が(わら)う。


 引き込まれそうになる意識を遮るように、彼は軽く籠を掲げた。


「ありがたく頂きます。それじゃあ、おやすみなさい」

「おやすみなさい、気をつけて」


 なんとなくニヤニヤしながら二人を見守っていたウィルとエルシーも挨拶に加わり、軽く手を振って帰路につく。


 籠の中の小瓶が、月の光を鈍く弾いて揺れる。


 資産の一部である鶏を、一羽丸ごと使った料理、特別仕立てのオーディナリー・エール……その心が分からないほど、彼は朴念仁ではない。


 エドの手が、ほとんど無意識に腰の革袋に触れる。


「君は、許してくれるかい?」


 革袋の中には、いつも使っている小さなナイフ。


 それは、亡き妻からの結婚の贈り物だった。



***** * ***** * ***** *



 八月の半ばが過ぎ、密織麻布の最初の一反が仕上がった。


 メイベルは戸口近くの椅子に腰を下ろし、糸巻き棒を揺らしながら、慣れた手つきで紡いだ糸を巻き取っていた。


 涼気を孕む夜風は乾いた土の匂いを運び、遠くの農場からは遅い収穫作業の音がかすかに響く。


 そこに元気な足音が重なり、家の扉が勢いよく開いた。


「叔母さん、ただいま!」


 ウィルが汗を拭いながら飛び込んでくる。彼は醸造ギルドのマスターと交渉しに行っていたのだ。


 昼間に面会予約を入れ、仕事が終わった夜にギルドマスター宅に反物を持ち込んだ。その反物は、今は無い。


「どうだったの?」


 糸巻きを止め、メイベルは身を乗り出した。


「うまくいったよ。反物ができた順に納めれば、入会金も年会費もそれでいいって。雑役も少しで十分だってさ」


 胸の奥が一気に軽くなる。


 これで今年の税とギルドの支払いに目処が立った。張りつめていた肩の力が抜けた。


「それとさ……なぜかモルター親方もいたんだよ」

「えっ、モルター親方が?」


 ウィルは苦笑した。


「『布は悪くない。だがエール造りはまだまだだぞ、小僧』だってさ。

 悪い人じゃないけど、いつまでも小僧扱いって酷くない?」


 妙に上手いロバートの口真似に、メイベルは吹き出した。


「ふふふ。でも、うまくいってよかったわ。……本当に」


 布はまだ一反しか納品していない。


 けれど、道筋が見えただけで視界が開けた思いだった。



* ***** *



 八月も下旬となれば、町は一気に収穫の季節へと突入する。


 ウィルは実家の農場に泊まり込む日が増え、家の仕事はメイベルとエルシーにのしかかった。


 納税の時期である十月までに五反を織り上げる――。


 その計画は、日が短くなるにつれて重みを増した。


 目の詰んだ布を織ろうと思ったら、太陽の明るさが必要だ。


 朝は仕込みと店の準備、昼は客に対応しながら織り続け、夜に回せる家事は日が落ちてからまとめて片付けた。


 糸を張り替えるたび指先の皮が薄く削れ、赤くなっていく。それは糸紡ぎを引き受けてくれているエルシーも同じだった。


 ある日、エルシーが紡ぎ終えた糸束と、小さな壺を抱えてやって来た。


「メイベル、これ。ラードと蜜蝋の軟膏。指、ひどいでしょ?」

「まあ、助かるわ。自分で作る暇がなくて!」


 蓋を開けると、ほのかに甘いマロウの香りが立ち昇る。今すぐ塗ってみたいが、寝る前までの我慢だ。


「あたし達、そのうち指が削れてなくなっちゃうんじゃない?」

「ほんとにね」


 二人は疲れた声で小さく笑い合う。


 織機の軋む規則正しい音が、秋へ向かう季節の歩みを刻み続けた。



* ***** *



 九月に入ると、忙しさはさらに拍車がかかった。


 布造りの上に収穫祭の準備が重なったのだ。


 メイベルは織機と釜のあいだを行き来しながら、教会に寄付するスモールと、祭り当日に売るオーディナリーの仕込み時期を逆算した。


 帳面が読めない代わりに、頭の中で日付を並べ、計画を立てていく。


 ご近所や常連には早めに屋台の告知をした。


「楽しみにしてるよ」

「あんたんとこのオーディナリーは久しぶりだねぇ」


 そんな声が励みになる。


 エルシーは八百屋の仕事と糸紡ぎの合間に、売り物の選別や屋台の飾り作りを進めていた。


 乾いた花を束ね、色布を切りそろえ、飾り紐を編む横顔は、夏より少しだけ大人びていた。



* ***** *



 祭り用の仕込みが始まる頃、ウィルが実家の農場から助手として戻ってきた。


 すでに釜の掃除も道具の手入れも完璧に習得しており、この日は初めて麦芽の砕きを任される。


「力任せじゃだめよ。粒の芯を潰しすぎないように、均一にね」


 トン、トン、トン。


 麦芽を砕く一定のリズム。


「こんな感じでいい?」

「ええ、上出来。ほら、香りを嗅いでみて」


 甘く、少し青い匂い。


 作業の合間に酵母の状態も確認する。


「ウィル、匂いで覚えて。酵母が元気な時は、こういう香りがするの」

「……パンを焼く前の匂いみたいだ」

「そう、分かってるじゃない」


 乾いた砂が水を吸い込むように、ウィルはメイベルの教えをどんどん吸収していった。


 そんなある日の昼下がり。


 エドがふらりと店先に現れた。月に一度ほどだろうか、樽の仕事ついでに飲みに来るようになったのだ。


「こんにちは、メイベルさん。スモールをひとつ」


 『聖ブランウェンの夕餉』以来、エドは少しくだけた口調になった。


 その変化が、なぜかたまらなく嬉しい。


 喉が渇いていたのだろう。一気に杯を呷ったエドが、窓辺のカウンターに木杯を返す。


「収穫祭の日は見回りで忙しいんだが……その、もし時間が取れたら、一緒に回らないか?」


 メイベルは反射的に頷いていた。口元が勝手に緩む。


「ええ、ぜひ」


 常連たちは訳知り顔でにやにやしていたが、メイベルは気づかぬふりをした。当分の間、酒の肴に冷やかされそうだ。



 忙しい一日を終えた、その夜。


 ベッドに横たわった彼女は、薄い金の指輪をそっと撫でる。


「トム……どうしよう。私、あの人のこと、好きになっちゃったみたい」


 困惑、そして少しの罪悪感。でも、胸の鼓動はうそをつけない。


 ぎゅっと握りしめた手を胸に抱いたまま、メイベルは寝つけない夜を過ごした。



* ***** *



 収穫祭まで半月を切った、とある早朝。ドンドンドンと玄関扉を叩く音が家中に響いた。


「おーい、メイベル、開けてくれ!」


 醸造ギルドの監督役、ロバートだ。


 相変わらず手にしている木槌で、自分の肩を軽く叩きながら仁王立ちしていた。


 早朝にも関わらず、通りにはすでにお約束となった野次馬も揃っている。


「抜き打ち監査だ。さあ、見せてもらおうか」


 麦芽、酵母、樽、道具、床の乾き具合まで細かく確認し、壺にまとめていた単独タリーを手に取る。


「ほほう、しっかり記録してるじゃないか。悪くない」


 メイベルはその一言に、誇らしさで胸がいっぱいになった。


 エドの助言を忠実に守り、ウィルとエルシーの力を借りて、懸命にやって来たのだ。


 監査の後ロバートが、今思いついた風情で口を開いた。


「そうだ、小樽(ピン)(約19ℓ)でオーディナリーをひとつ、頼もうか。収穫祭の前日に、うちに配達してくれ」

「えっ、親方がうちのを?」


「ああ、ここのエールは、まあまあ悪くないからな!」


 ただでさえよく通る胴間声を、通りの野次馬に向かって張り上げる。


 その心遣いに、メイベルは胸が熱くなった。


 その噂はすぐに広まり、町の空気が変わった。


「あのモルター親方が買うんだから、確かなんだろうよ」

「祭りの日は屋台出すんだってさ。ちょっと覗いてみるか」


 そんな声が増えていく。


 ギルド価格で麦芽を仕入れられるようになり、手元に残る現金も少し増えた。税も納め終え、年内には入会金と年会費も支払える見通しが立っている。


 日々の仕事はきついが、心だけは軽い。


「あと少し。収穫祭まで、もうひと踏ん張りね」


 爽やかに吹き抜ける秋風が、エール・ステークの飾りを楽しげに揺らしていった。



* ***** *



 収穫祭当日。頭上には抜けるような青空が広がっている。


 近在の農地で刈り取った『最後の穂束』を先頭に、列をなした人々が歌いながらゆっくりと町門を目指す。


 昼頃には教会へ辿り着き、司祭が収穫への感謝を述べ、パンや野菜を供えた人々が祈りを捧げた。


 町の広場に設えられた『共卓』には、皆が持ち寄ったご馳走と振る舞い酒が並び、人々は祝祭の熱気に包まれる。


 メイベルはウィルを急かし、中樽を手押し車に積んで門前広場へ運んだ。


 屋台を組み立て、オークの小束を飾り、オーディナリーの販売を始める。


 子どもたちは玉投げに夢中で、大人たちは売り買いに忙しい。


 城壁の中も外も、広場の賑わいは最高潮に達していた。


 秋の陽が傾くに従い、祭りの熱気は落ち着いた和やかさへと移りゆく。


 メイベルの樽がだいぶ軽くなった頃、エドが顔を見せた。


 昼間、一度検査に立ち寄ったが、その後ひと回りして戻って来たらしい。


 エール監査官らしい服装といつもの検査棒。だが、どこか緊張した面持ちだ。


「やあ、売れ行きはどうだい?」

「お陰様で、夜までには樽が空になりそうですよ」


 答えたウィルに頷きかけ、エドは傍のメイベルへと目を向けた。


「メイベルさん……少し時間はあるかい?」

「叔母さん、後は俺がやっとくよ」


 間髪入れずにウィルが引き受け、メイベルは後を託して屋台を離れた。


 すでに涼気を孕み始めた風に吹かれながら、エドと並んでそぞろ歩く。


 周囲では笛太鼓が鳴り響き、若者たちが踊りの輪を作っていた。


 二人は人混みを避け、広場の外れへと向かう。


 なんとはなしに踊る若者たちを眺めていたメイベルに、エドが問いかけた。


「踊りは好き?」

「ええ。昔はよく踊ったわ」

「来年は……一緒に踊らないか?」


 軽く見開かれた目が、若者たちから彼へと移った。


 エドは細心の注意を払って、そっと彼女の手を取る。


「再来年も、その後も、ずっと」


 彼女は何か答えようと口を開いた。だが言葉は出ない。その代わり、目から涙がひと粒、こぼれ落ちた。


「あの、あのね、エドマンドさん。

 私……亡くなった夫を思い出さなくなる日は、来ないと思うの」


 分かっている。そう伝えるように、握った手を軽く揺らす。


「同じだよ、私も。二年前に亡くなった妻と娘を、完全に忘れることなんてできないと思う。……ずるい男だと思うかい?」


 メイベルが首を横に振ると、透明な雫がひとつ飛び散った。


「もしかして、あの流感で?」


 問われてエドが頷く。


「君の旦那さんも?」

「寝込んでから、あっという間だったわ」


 エドは検査棒を小脇に挟み、メイベルの手を両手で包み込んだ。


「愛する人を失うのは、辛い。とてもね。

 でも、君となら前を向いて生きていける気がするんだ。

 旦那さんのことを想ったままで構わない。それでも、君と人生を共にしたい。

 ……だめかな?」


 メイベルは俯いて涙をぬぐい、少し困った顔で彼を見上げた。


「嬉しい……私、エドマンドさんのこと好きになっちゃって、困ってたの」


 いきなり真っ直ぐな言葉を向けられ、うろたえるエド。


 だが握った手は離さず、照れ隠しのようにメイベルの手に口づけを落とした。


「春になったら検査官の任期が明ける。結婚式はそれからになるが……構わないかい?」


 目は潤んだまま、満面の笑みが花開く。


「とびきり美味しいストロング・エールを仕込んでおくわ」

「君のストロングを独り占めできないのが残念だ」


 二人は照れながら笑い合い、再び歩き出した。


 秋の日が落ち、門前広場に焚き火が灯される。


 薄暮にゆらめくその炎は、二人のこれからを温かく照らしているようだった。



 *** 完 ***





AIがなければ書けなかった作品です。

楽しい時代になりました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました☆

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― 新着の感想 ―
 すごく、心温まる物語である。  最愛の夫トムを失ったメイベルが、働いて、働いて、働いて、誠実に生き抜いていくさまを実にリアルに描いている。  オークリンの朝の光、酵母の匂い、木の肌触り、低音だが滑…
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