02
思い返せば、ロゼ・フラムスとの初邂逅はそれはもうわけのわからないものだった。
「……おとめげーむって、何のことかしら」
廊下を歩きながら、ぶつぶつと呟いていると、前方から聞こえたのは「お姉様!」と砂糖菓子のように甘い声だった。
「ここでお会いできるなんて奇遇ですね、ララナお姉様!」
金色の髪をさらさらと揺らして、こちらへ駆け寄ってくる彼女は私の妹、クローネ・ティアベルだ。くるりと上を向いたまつ毛と、青が印象的な丸い目が、私の顔を鏡のように映し出す。
「クローネ? どうして、こちらの建物に……」
二つ年下のクローネは、こちらの建物に来ることは少ない。それなのに何故……。
「ユグオン様にお呼ばれされて、今お会いしてきたんです」
「殿下に?」
ユグオンの婚約者である私は、今日……それどころか数日は彼と顔を会わせていない。彼から呼び出されたことも、この学園に来て一度もないというのに。
「はい。街で今流行っている紅茶を淹れてくださって、とっても美味しかったのですが……お姉様は、もう飲みましたか?」
「……いえ」
静かに答えれば、彼女はきょとんとした後、「あの……お姉様」と少し心配そうな眼差しで言葉を続けた。
「お姉様とユグオン様は喧嘩でもされているのですか?」
「何故、そう思うの?」
「だって」と彼女は、少しだけ周囲を見回すようにして言葉を続けた。
「ちょっと噂で聞いたんですが、ユグオン様と全く顔を会わせていないそうじゃないですか」
「…………」
「今日、お会いしてみた感じ、ユグオン様は全く気にしていない様子だったので、つい噂は嘘かと思ったのですが……」
クローネは悪気のない顔で言葉を続ける。
「もしも事実なら、お姉様に顔を会わせられなくて、寂しい思いをされているんじゃないでしょうか?」
悪意はない、そう。きっと。わかっているけれど。
「……そうかしら」
「そうですよ! だから、早く会いに行ってくださいね?」
ひだまりのような笑顔で彼女は告げて、「それではお姉様、またお屋敷で!」と私の隣を通り過ぎていく彼女からは、アジサイのような香りがした。
この香りは、よく、王太子殿下――ユグオンからするものだった。
振り返って、彼女の後姿を眺める。それだけで、どうしようもなく。
衝動的に、悪い考えが頭を過りそうになる。
何故だろう。本当にそうしたいとは心から思っているわけじゃないのに、時々無性に彼女のことを無性に苦しめたい衝動に駆られる。この気持ちは、嫉妬か。何か。
よくわからないわ……。
首を振って、前を向く。
『きみはこの世界で、悪役にしかなり得ないから』
あの人の言葉が、思い出されるのは何故だろう。
ああ、嫌。いつから、こんなに、余裕のない人間になってしまったの。私ったら。
「はあ、頭が痛い……」
「――今度学園で行われるダンスパーティーに、新しいドレスを買っても構わないでしょうか?」
「もちろんよ、クローネ。身体の弱かったあなたがようやく元気になって、初めて参加するパーティーじゃない」
ティアベル公爵家の食卓は、クローネを中心に父と母で囲うような配置になっていて、私はいつも離れた位置で向かいに座っている。
「あ、でも、お姉様の去年来たドレスが確かクローゼットにあったはずですよね。せっかくなら、私はそれでも……」
「どうして花のように愛らしいあなたが、ララナのおさがりを着なきゃいけないの?」
「あり得ないわ」とこちらを横目で睨むのはティアベル家の公爵夫人だ。彼女はクローネの母親で、私にとっては義理の母親になる。
私の母が、浮気していた男性と姿を消してからやってきた所謂、後妻に当たる。
「でも、お姉様のドレスは高価だから……一度着るだけなんて、勿体ないでしょう……?」
「クローネ。資源を無駄にしない心には関心するが、勿体ないとは無縁の家柄だということを忘れるんじゃない。お前の晴れ舞台に、おさがりなんて着せられるわけがないだろう?」
公爵様は私の実の父ではあるけれど、私を産んだ母を恨んでいるせいか、私に対して冷たさがあり、後妻の夫人との間にできたクローネには優しく温かな顔を見せていた。
「まあ、あなた。ララナが贅沢だというのは間違ってはいないのだから、あまりクローネを責めないであげてください」
「それはそうだが……」
二人の視線が私へ向く。……ああ、始まりそう。と、私は、あまり進まない食事を前に、心の中で身構えた。
「ララナ、お前。また今月も派手にお金を使ったそうじゃないか。くだらない店の宝石商とも取引をしていると聞いたぞ」
「……あのお店で取り扱う宝石は珍しいものが多いのです。今から目をかけておけば、必ず恩恵があるかと……」
「そんなことは聞いていない。こんなに慎ましく過ごす妹もいるというのに、無駄遣いばかりをして悪い手本になるなと言っているんだ」
「そうよ。この子は、まだ外の世界をあまり知らないの。あなたの行動から悪影響を受けたらどうするの?」
「……申し訳ありません。お父様、お母様」
謝罪をすると、私の向かい側に座るクローネが「待ってください」と付け足した。
「お父様もお母様も、あまりお姉様を責めないであげてください。お姉様は、いつもこの家のために、いろいろと尽くしてくれているではありませんか。宝石商の件も、何か理由があるのです」
「そうですよね、お姉様」と付け足す彼女に、またも黒い気持ちが募る。「クローネ……こんな姉を庇って……なんていい子なんだ」「ええ、本当に。あなたがわたくしたちの娘で本当によかったわ」という二人のやり取りが右耳から左耳へと通り過ぎていく。
もうずっと、上手くいかない。
『でもほら、あんまり時間がないんだ』
生まれたときから、ずっと。
『ララナ嬢だって』
私の人生は。
『さすがに問答無用で首が刎ねられるのは嫌でしょ?』
真っ暗な世界を彷徨っているような、そんな。
途端、視界が横ぶれした気がして、カラン、と持っていたスプーンを落としてしまう。うっ、と頭を押さえると、「お姉様?」とクローネが首を傾げた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫ですっ」
立ち上がり、彼らを見る。クローネを除いた、「また仮病かしら?」というような二人のすごく迷惑そうな眼差しが、懐かしいような。そうでないような。
「でも申し訳ありませんが、気分が悪いので、お先に失礼します」
早足に部屋に戻り、床に倒れ込む。おかしい、もうずっと。
奇妙な感覚に頭痛が止まらない。吐き気までこみ上げてくる。
何か大事なことを忘れているような気がして……。