人間の木の育て方
『おまえ、脳みそ未発達か?』
『ほら、叩くと軽い音がするぞぉ。みんな聞こえるかー?』
『もしもーし! おまえの存在自体にクレームがあるんですけどぉー! どこで受け付けてるんですかー?』
『猿。猿猿猿猿猿ぅ!』
『お願い。単純に聞かせて? どうしてそんなに仕事ができないの?』
『飴やるよ。ほら、飴と鞭ってやつだ。ほら、食えよ。今だよ今。……てめぇ、仕事中に飴舐めてんじゃねーよ! 飴だけに仕事舐めてますってか! おら、拾えよ。今吐きだしたやつ拾えってんだよぉ!』
『お前の代わりなんざいくらでもいるんだよぉ』
『死んでも問題ないよ。死ねよ。はい、死刑。死刑死刑死刑ぃ!』
『まーたコモリくんが篭っちゃうよ』
『ふふっ』
彼はそのドアを閉めたあと、壁に額を擦りつけ、ふぐぅと声を漏らした。頭の中で反芻されるは、先程の、そしてこれまで受けた課長からの叱責の数々。
『まーたコモリくんが――』
それに紛れたこれはオフィスから早足で出る際、同僚がボソッと言った(恐らく彼に聞こえるように)一言。それに笑い声。
コモリくん。そのあだ名の由来通り、彼が今いるのは会社の物置部屋。およそ二畳分の小さな部屋である。
ドアには曇りガラス。白い壁。電灯は頭上に一つ。床はタイルカーペットで、その一枚の広さは人ひとりが収まる程度。尤も、段ボールが載せられている棚やどう見てもガラクタが置かれているので、寝転べるようなスペースはない。
が、彼にはこれがむしろ心地よかった。狭いと落ち着く。それに人がここに来ることはない。この四階建ての古びたオフィスビル、その四階その端も端。社員の動線になく、用もないのだ。そのこともまた彼がこの部屋に自分がよく馴染むと思う理由の一つであった。
ああ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……。頭の中の声を打ち消すために繰り返される自分の言葉。そして走ったあとの荒い呼吸のように繰り返されるため息。不器用な深呼吸だ。しかし、効果はあったようで次第に心が落ち着いてきた。
……そろそろ戻ろなきゃ。長居はできない。探され、ここを見つけられたらもう……。ああ、その前にトイレに寄ろう……。どこへ行っていたと聞かれたときの言い訳。その肉付けになる。
彼はそう考えたが、会社の人間全員が彼がここに篭っていることを知っている。その上で同僚は『ちょっと見かけなかったけど、どこに行っていたんだ?』と、聞いてくるのである。彼はそれを腰を曲げ頭を少し下げ、恥ずかしくまた申し訳なさそうに『ちょっと腹が痛くなってトイレに……』と答える。彼自身、それが嘘だと見破られていることは薄々、勘づいているが様式美。このお馴染みのやり取りでデスクに戻ることを許されているような気がし、そうする他ないのであった。
――カサッ
「ん」
壁からドアへ振り返り、部屋を出ようとした彼。紙を踏んだ音がし、下を向いた。
前に来た時にはなかったはず……いや、別に誰かが要らない書類を雑に置くことはあるか。そう思い、その紙を拾い上げた彼は顔を歪めた。訳の分からなさ、悪ふざけにしても嫌悪感のある文章に。
【人間の木の育て方】
白い紙。その上部にそう印刷されていた。
【穴の中に人間をひとり入れます(大人が好ましい)】
【専用の土で埋めます】
【光が重要です。日の光でなくても構いません。長時間あてればあてるほど良いです】
以下、彼は読む気にはなれなかった。悪趣味すぎる。紙を握りつぶそうとし、でももし誰かの重要な書類だったら……と、そんなことはないだろうと思いつつも小心者ゆえ丁寧に棚の中、段ボールと段ボールの隙間に滑り込ませ部屋を後にした。
【やがて芽を出し、木になります】
『コーモリィ。おまえ、まだやってたのかよぉトロくせえなぁ』
【木はてっぺんに実をつけます】
『死ねば? なあ死ねば?』
【実を剥いて取り出した中身は、元となった人間の容姿によく似ています】
『残業代なんて出さねーぞゴミ』
「はぁ、はぁ、はぁはぁはぁ……」
頭の中で蘇る罵詈雑言と、あの紙に書かれていた文章の混合、そして広がる混沌。脳内を侵され、ある時ついに限界を迎えた彼は犯した。
終業後。今、その手にある感触は課長のスーツ、やや伸びた生地。廊下を引き摺り、物置部屋のドアの前まで来たが、その手を放すと蘇る感触は肉、課長の首。押し倒し、締め上げた時の課長の姿が脳に焼き付いて離れようとはしなかった。ずれた眼鏡。見開いた目。筋立ち、紅潮していく顔。泡吹く口。身じろぎし床に擦れ、乱れる薄い髪と見えた頭皮。
「紙、紙、あの紙、ああ、でもどこへ、どこへ埋めれば、あ、あ、え」
物置部屋のドアを開け、ひとまず冷たくなった課長と雪崩れ込むように中に入った彼は、棚を揺らし紙を探していると、ふと足元に違和感を覚えた。
「これ……穴?」
タイルカーペット、その一つがナイフで切れ込みを入れられたかのように、やや浮き上がっており、そしてそれを捲り上げるとそこには蓋をするように木の板が。そしてその下には暗闇が広がっていた。
「こんなこと、ない、穴なんて、下の階は……でも……うわっ」
棚を揺らしていたせいだろうか。頭上からいくつか物が落ちてきた。
そのうちの一つは大きなシャベル。あと、もしあれがあれば……と意識して辺りを見渡すと、彼はそれを見つけた。前々からそこにあったのか否かは知らない。土の入った袋が三つほど。
こうなったらやるしかない。彼がそう思うのも当然だった。
彼は課長を足から穴の中に入れ、次いで土で埋めた。
が、彼はどうして僕はいつもこうなんだ、と自己嫌悪に陥った。穴の深さが足りなかったようで、課長の首から上が収まりきらず、その髪型と相まってまるで落ち武者、その晒し首のようであった。
おまけになんどやっても、白目を剥いたまま、その瞼を閉ざすことができず、舌はだらりと垂れ下がったまま口の中に入ろうとしない。
彼はため息をつき、ポケットの中。糸くずや埃がついた飴玉を課長の口の中に入れ、手を合わせうろ覚えの念仏を唱えた。
部屋を後にする際は電気を消さなかった。光が重要だと紙に書いてあったことを思い出したからだ。が、会社を出た時には後悔。あんなのを信じるのか? 電気をつけっぱなしにして、もし誰かの気を引いたら? と。しかし、戻るのも怖い。それにもうどうせ駄目だ。
探したが結局、あの紙は見つからなかった。が、課長は必ず見つかるだろう。殺してしまったんだ。発覚しないはずがない。
社員寮、自分の部屋に帰った彼。機械的に夕食、風呂、寝支度を整えベッドに入る間もあとも、そう思い続け震え、嗚咽した。
飴玉を口の中に入れるべきじゃなかった。あれについたゴミとか分析されたら……。いや、そもそも指紋がべったりだ。大体、僕があの部屋に入り浸っていることはみんなに知られているんだろう。
と、杜撰も杜撰。何かできることがあったんじゃないか、もっと上手くやれたんじゃないか、今から戻ろうか、いいやそんなことは無理だ。誰かに見られたら怪しまれる。ああ、そうだ。見られるに決まっている。運もないんだ。それに疲れて動けない。なのに眠れない眠れない……。
叫び出したい衝動。しかし、寮住まい。怪しまれる上に迷惑だ。そんなことできはしない。呻くに留め、怪しまれないために普段通り過ごすしかない。だが、また会社に行かなければならないのに額を焼かれるような熱っぽさにそれもできやしないんじゃないかとまた怯え苦しみ、どうにか眠れないかと考えていると、ふと市販の睡眠薬を買っていたことを思いだし、それを飲むとようやく眠りにつくことができた。
それから何日か過ぎた。彼は相変わらず職場で働き続けていた。
怪しまれると思うと休むことはもちろん、辞めるタイミングも見つからない。が、忙しさのお陰もあるが普段通り過ごせている。自分はもしかしたら結構、神経が図太いのかもしれない。もしくは麻痺しているのか、と彼はパソコンを操作しながら周りを見渡す。
お前の代わりなんか他にいくらでもいる。死んでも問題ない。そう言っていた課長がいなくても業務に滞りがないことに、彼はある種のカタルシスのようなものを覚えた。
しかし、奇妙であるとも思った。こうもあの課長の話が出てこないのはなぜだろうか。
まるで小学校のクラスメイトが入院して三日目。その彼がいないことに慣れ始めた頃合いの教室。そんな雰囲気。
しかし、それならいい。見つからない、疑われないことに越したことはない。彼はそう思った。ゆえに死体の隠し場所に向かおうとは考えなかった。忌避していたのもあるが、課長からの叱責がない以上、あの物置部屋に赴く理由もなかったのだ。
が、それからまた何日か過ぎると、彼の足はあの物置部屋へと歩を進めていた。
気になる……のは犯人だからまあ、当然と言えよう。しかし、彼の場合は少し違う。
人間の木。そろそろ実を付けた頃ではないだろうか。
馬鹿な。あり得ない。頭の中に思い浮かぶ度にそう否定するも、胸は騒ぎ、夢で見るほどに気になっていた。
一応、これで課長を蘇らせることができたら……という想いもあり埋めたのだ。一度、確認する必要がある。何ともなっていなかったらあのポンと出た顔をどうにか埋めてしまおう。それか上から段ボールを被せ、見えなくするか。したほうがいいことはある。
……いや、それにしてもやはりおかしい。確かに、あの物置部屋に人が近づくことはない。でも臭いだってするはずだ。いや、そもそもの話をすれば上司が行方不明だというのに平時と変わらぬあの様子。もしかしたら、たまたま有休と重なっていたのだろうか。
いや、気になることは……そう、あの部屋。いつもと位置が少し違う気がするのは僕の気のせいだろうか?
と、物置部屋の前で足を止めた彼は、思考もまた止めた。いや停止せざるを得なかった。
ドアの曇りガラス。その向こうに黒い一本の影があった。
まるで人がそこに立っているかのよう。しかし、少し細いか。だが、考えても無駄だ。開けるしかない。そう思った彼はドアノブに手を伸ばした。
「木……だ」
ドアを開けた先、そこにあったのは一本の木。垂れた葉っぱ。畑に生えるトウモロコシによく似ていた。
【木はてっぺんに実をつけます】
しかし、その実はヤシの実と形と大きさがよく似ていた。茶色く、やや毛羽立っている。それが四つほど密着している。
木は課長の頭頂部から生えており、その課長の顔はというと、まるで形が悪いと畑の隅に捨てられた萎びた野菜のようであった。
「実を剥いて……」
記憶を掘り起こし、あの紙に書かれた文章を思い出そうとする彼。
【実を剥いて取り出した中身は、元となった人間の容姿によく似ています】
彼は木から実をもぐと、やや捲れ上がった皮を掴んだ。それは意外なほどするすると、玉ねぎの皮を剥くように取れた。
茶色い実の皮の下は白く、そしてブヨブヨと柔らかかった。指に力を入れるとニキビを潰したようにプチュっと汁が飛んだ。
彼がその実を割ると中から白と茶色みのある粘液性の、まるで痰壺の中身のような液体がドロリと床に落ちた。
彼は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、殻とその中身を床に落とした。
それはまるで餓鬼のようであった。
人の赤子と違い手足とその指は細く長く、腹はポコッと出ており、そして顔は課長そのものであった。
できはしたが小さい。だが、そのままの姿で大きくなるという確信を嫌悪感と共に彼に持たせた。
そして、彼は粘ついた手を拭う事もせずドアを開け、部屋から飛び出した。
オフィス内は変わらない光景が広がっていた。
【生まれたては頭頂部が出っ張っていますが成長するにつれ、目立たなくなります】
頭、頭、頭頭頭あたまあたまあたま……。
彼はオフィス内を早足で歩き、仕事中の社員たちの頭頂部を見て回った。注意深く見ればやや出っ張っているようにも見えなくもなかった。思い返せばあの課長の頭、乱れた髪の下にも小さな瘤のようなものがあった気も。
そして、芽はそこから出たのではないか。
と、考えたところで彼はピタッと、足を止めた。
【たまに頭の出っ張りがそのままの個体があります】
そして、自分の頭に手をやった。
【さほど品質には影響はありません】
課長によく叩かれていた部分。そこには土を盛ったような、はっきりとした出っ張りがあった。