第5話「気持ちの断片」
俺は咳払いをしてから、掃除の時に準備しておいたバスタオルを使ってと美芽留に指示すると、美芽留は洗面室に向かっていった。美芽留を見送った後、ちょうど放送されていたドラマで時間を潰す。数分間経った後、洗剤のコマーシャルになったテレビを消してから洗面室に向かった。中に入ると、浴室の扉前に敷かれている足拭きマットの横には、二つのバスケットがあった。一つ目のバスケットには、雨に濡れた制服が掛けられていて、二つ目のバスケットには、綺麗に畳まれたルームウェアがあった。
一つ目のバスケットの中から濡れた制服を取りだし、洗濯機の中に放り込んで、ボタンを押して洗濯を始める。先程確認したルームウェアがあったので、乾燥機能は使わなくて良さそうだ。無理に乾燥させて、制服の生地を傷める必要はないだろう。自然に乾くのを待つのみだ。
一仕事を終えると、リビングのソファに腰を掛けた。色々とあったお陰で感じる暇もなかったが、精神的な疲れがどっと押し寄せてきた。
「明日からどうすっかな〜」
俺は、これからどうしようかと頭を悩ませる。明日は大学の講義があるのだが、美芽留の生活用品を買い揃えるのが先決だろう。そうと決まれば、明日に備えて早く寝るだけだ。
「︙︙って、布団一つしかねえじゃん」
美芽留をお風呂に入らせたまでは良かったのだが、自分が寝られる布団しか持ち合わせていなかった。これはもしかしたら、ラノベ主人公のような展開になるのではないだろうか。俺は目を瞑り、その展開を想像した。
狭い毛布の中で俺たち二人は、少し汗ばんだ体をくっつけるようにして横たわっている。真夜中ということもあり、寝室全体は暗いのだが、カーテンの隙間からこぼれた月の光を頼りに、美芽留の顔を覗き込む。美芽留は頬を赤らめ、俺の顔を見つめながら囁いた。
「千春くん、もっと近づいてきてくれないかしら。千春くんの体温を、もっと肌で感じたいの」
み、美芽留さん。
想像を終わるために目を開けると、世界は違って見えた。そうここは、俺が主人公のラノベの世界なのだ。主人公の俺は、万が一の事態にも対応できるよう、乱れた気持ちを必死に整える。これで美芽留にいつ襲われたとしても、動揺することはないだろう。
しばらく夜風を浴びて待っていると、バスタオルを頭に被せ、上下セットのキャミソールを着た美芽留が、洗面室から姿を現した。肌を控えめに露出するその服装は、肌を大袈裟に露出する服よりも破廉恥さを際立たせいるように感じた。女性経験のない俺からしてみれば、バスタオルを一枚だけしか巻いていない状態と何ら変わりない。俺はその姿にたじろきながらも、布団の話を始めた。
「み、美芽留。布団一つし、し、しかないんだけど、どうしますか?」
「日本語がめちゃくちゃね。一度幼稚園生からやり直した方がいいんじゃないかしら」
お前のせいだよ! なんて、口が裂けても言えない。てか、そんなことを言った暁には、口を裂かれる。美芽留はくるっと半回転し、洗面室に戻りながら言った。
「そんなの簡単よ。私が千春くんのベットで寝て、千春くんがソファで寝ればいいだけの話よ」
「で、ですよね」
現実は、そんなに甘いものではなかった。
しばらくしてから、用事を終えて洗面室から出てきた美芽留を、寝室に案内した。
「ここのベットを使ってね」
俺がそう言うと美芽留は、いきなり寝室全体の匂いを嗅ぎ始めた。
「なんか匂うか?」
「ええ、欲に忠実な雄の匂いがするわ」
「人の寝床を奪っといて、よくもそんなことが言えたな」
美芽留の顔を見ると、少し口元が緩んでいるように見えた。しかしそんな筈はない。俺の匂いを嗅いで喜ぶ生き物など、実家の飼い犬ぐらいだろう。そんなことを思っていると、美芽留がこちらに向き直り、右手の甲を前後に揺らし、出ていけの合図を送っていた。
「ほら、何をしているの千春くん。女性の部屋に長居するのは失礼というものよ」
「しっし、じゃねえんだよ。ここは、俺の部屋だ」
俺はそう言いながらも、美芽留の部屋(仮)から出ていくことにした。これ以上のやり取りは無意味だと判断したからだ。俺は早々とお風呂がある方へと向かった。洗面室の中に入り、鏡の前に立つと、ガラスのコップに見知らぬ歯ブラシが入っていた。多分これは美芽留のだろう。ここまで準備が良いとは、どれ程前から家出の計画を立てていたのだろうか。最近の若者の考えは、分からないものだ。ま、俺も若者だけど。
俺は足拭きマットの横にあるバスケットへ、脱いだ私服を放り込み、もう一つのバスケットには、バスタオルとセットアップのルームウェアを入れた。
浴室に入ると、ほのかな甘い香りが鼻を撫でた。この香りは、美芽留のシャンプーの香りかな。そんなことを思ったせいか、少しの罪悪感を感じながら、沢山の時間を使って髪と体を洗い、浴槽に入った。生き返る。
「ぶはぁー、気持ちいいー」
壁に付いているライトが浴槽の水面に移り、夜空に浮かぶ満月を思わせる。のぼせて幻覚でも見えてきたのかなと思った俺は手を振り下ろし、満月をかき消して湯船から上がった。
洗面室で寝る準備を整え、ソファに向かおうとすると、冷たい風に背中をなぞられる。振り返ると、バルコニーの扉が開いており、美芽留が住宅街を見渡すように立っていた。
「何やってんだ美芽留、風邪引くぞ」
「今のウイルスは、人の言葉を話すことができるのね」
誰が諸悪の根源だ。低温で乾燥した環境が好きだなんて言った覚えはないぞ。
「あのなぁ、黙って聞いてれば好き放題言いやが︙︙」
「︙︙」
美芽留にぞんざいな扱いをされたので、ツッコミを入れようと美芽留の方を向くと、どこか寂しそうな表情をしていた。
「美芽留︙︙」
「そんなに心配をしなくても大丈夫だわ、千春くん。いつものように景色を眺めていただけだもの」
先程まで住宅街を眺めていた美芽留の顔が、今度は下に向いた。
「毎日外を眺めていたはずなのに︙︙なんでこんなにも違って見えるのかしらね︙︙」
美芽留は泣いていることを悟られないように堪えながら、涙ぐんだ声でそう言った。
「︙︙」
馬鹿か俺は。赤の他人の俺が、首を突っ込めるような内容でないことは理解していたが、家に引き取ることで、勝手に美芽留を救ったのだと錯覚してしまっていた。まだ美芽留は、心の内の恐怖に怯えているのだ。
「そろそろ寒くなってきたし、部屋に戻りましょう千春くん」
そう言うと美芽留は、バルコニーの扉を開け、「おやすみ」と呟いて部屋へと戻って行った。俺は何も出来ずにいる自分が情けなくて、孤独に両手を強く握りしめたのだった。