第4話「欲求」
「おい、着いたぞ」
運転席に座ったまま、助手席に眠る美芽留の肩をさすった。しかし、何度さすっても起きない美芽留に呆れ、先程より強い揺れを肩に伝える。
すると、クールツンツン美少女の美芽留から出たとは思えない甘い声が漏れる。不意に漏れた甘い声のせいか、美芽留を女性として意識し始めてしまう。濡れたワイシャツが美芽留の肌に張り付き、女性らしい膨らみがはっきりと分かった。理性がまともに働かなくなりかけた時、ポケットの中に入っていたスマホが、通知を知らせるために振動していたことに気づく。スマホの振動のおかげで我に返った俺は、煩悩の塊であるそれから意識をそらした。
「年上、年上、年上、年上、年上────」
「何をさっきから、一人でぶつぶつ言っているの?」
「ぶひゃっ!? べ、別に年上が好きなんて言ってないぞ!?」
不意を突かれた美芽留の声に驚き、情けない声を出した俺は、軽蔑の眼差しを向ける美芽留に目線を移した。
「まぁ、別になんでもいいのだけれど」
俺の慌てぶりを適当にあしらうと、美芽留は車のドアを開けて外に出てから、凝り固まった体を思う存分に伸ばし、スクールバッグを肩にかけた。
俺は何とかその場を凌ぎきったことに安堵し、から揚げ弁当を左手に持って外に出ててきた。夜の冷たい空気を大きく吸い込んだ後、淫らな欲望を車と共にロックした。
美芽留の先頭を歩き、エントランスへと入っていく。エレベーターで自室の階まで上がり、自室前までと案内した。玄関の鍵を開け、無惨な姿で散らばっているゴミ袋を見てこう言った。
「汚いけど上がってくれ」
今思えば、自室に女性を入れたことなど人生の中で一度も無かった。初めて自室にあげる女性は彼女が良かったなという甘い幻想を抱きつつ、バイトで疲れた足をふらつかせながらスニーカーを脱ぎ捨てた。
美芽留も小さな声でお邪魔しますと言うと、片足を上げ、靴を丁寧に脱ぎだした。脱ぎ終えると、玄関に向き直りながらしゃがみこんで、踵を揃えて靴を並べた。適当に脱ぎ捨てられていた千春専用スニーカーも丁寧に並べてくれている。
こういう几帳面なところを見ていると、美芽留は良い両親に育てられたんだなとつくづく思わされる。何故そのような恵まれた環境で、家出なんてしたいと思うのだろうか。考えれば考える程、謎は深まるばかりだった。
「美芽留、靴を揃えてくれてありがとう」
「お礼なんていらないわ。汚い千春くんのスニーカーが目障りだったから揃えたまでよ」
美芽留の罵声に苦い顔をしながら、俺は洗面室に向かった。洗面室にある棚から、ふかふかなタオルを取り出し、玄関で立ち尽くしている美芽留に手渡す。
美芽留はありがとうと呟くと、髪や肌に付いている水滴を丁寧に拭き取り始めた。
その様子を見届けた後、浴室に行き、浴室の棚に常備してあるスポンジを手に取って、洗剤をたっぷり含ませる。自分以外の人間が来たからか、来た人物が美芽留だからかは分からないが、浴槽をいつもより丁寧に洗い、浴槽全体が白い泡で埋め尽くされたのを確認した後、シャワーで洗い流した。やはり、掃除というのは心地いいものだ。
鼻歌交じりで掃除を終えた俺は、浴槽に適温のお湯を張ろうとすると、後ろから嫌な気配を感じ取り、顔を強張らせた。この気配は、シャンプーをしている時に背後で感じるあの気配と一緒だった。恐る恐る振り返ると、白い布を手に持った、長い黒髪の少女がそこにはいた。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!!!」
しかし、そこに立っていたのは夏になると必ず放送しているホラー映像に出てくる霊ではなく、丁寧に畳んだタオルを手に持っている、ただの美芽留だった。
「なんだよ︙︙驚かすなよ」
「人を見て勝手に叫んだのは、千春くんじゃない」
「︙︙なんかすまん」
「別に良いのだけれど」
俺の態度に美芽留は呆れながらも、俺に対してお礼をした。
「タオルとお風呂、ありがとう」
ぺこりと一礼した後、綺麗に畳まれたタオルを手渡してきた。それを受け取ると、美芽留は自宅のような足取りで、リビングへと向かって行った。美芽留よ、一応他人の家だぞ。
俺は掃除の片付けを終わらせると、リビングの机に早足で向かい、コンビニで買ってきた、から揚げ弁当を机の上に広げた。
総大将を務めるから揚げは、肉汁が衣の上に沢山乗っており、いかにも体に悪そうな見た目をしている。しかし、それがから揚げの魅力ではないか。
俺は椅子に座ると、割り箸を口に挟み、パキッと割ってから右手でくるっと回してみせる。堂々と待ち構えるから揚げを掴もうと箸を開くと、前からくぅーっと情けない音が聞こえてきた。顔を上げると、美芽留がチラチラとから揚げを見ているのが分かった。
「腹減ったのか?」
「いいえ、お腹は空いていないわ。ただ、路地裏のポリバケツに捨てられている物を食べようと思えるその精神に、敬意を払っているだけよ。ゴキ春くん」
それはただ、廃棄されたコンビニ飯を見ただけじゃねぇか。こいつ、コンビニ飯食ったことねぇのか? てか、誰がゴキ春だ。ゴキブリみたいに這いまわった記憶はないぞ。
「ぐぅー」
美芽留の腹の虫がまた鳴き始めた。普通に食べたいと言って欲しいのだが、俺が食べてくれと頼まない限り、美芽留は食べようとしないだろう。明日の朝の為に買っておいたから揚げ弁当だが、この際の犠牲は致し方ない。
「あれー、どうしようー。二つ食べるつもりが、お腹がいっぱいで食べれないよー」
俺の迫真の演技により、見事に美芽留が食べやすい環境を作り上げた。すると、美芽留はこちらに大きく振り返り、腕を組んだ。
「全く仕方ないわね。お腹は空いていないのだけれど、捨てるのも勿体ないから私が食べるわ」
そう言うと、美芽留はクールな顔を保ちつつ椅子に座った。傷一つ無い綺麗な指先で割り箸を持つと、パキッと割ってから、から揚げを割り箸で摘み、口元まで運んでから放り込む。美芽留は目を閉じて、口の中にあるから揚げを味わいながら噛み砕く。
「コンビニのご飯にしては、中々美味いものね」
美芽留はクールにそう呟くのだが、見えないはずの猫耳と尻尾が見え、尻尾がピーンと垂直に立っているのがわかる。実にちょろい。
美芽留がご飯を食べ終わるタイミングを見計らって、俺はお風呂への誘導を始めた。
「美芽留、先に風呂入っていいぞ。後で辛い思いをしちゃうからな」
いくらタオルで拭いたとはいえ、雨に濡れて体温も下がっていて、風邪をひいてしまう可能性もある。それを考慮した上での発言だったのだが、美芽留はゴミを見るような目でこちらを見てきた。
「私が入った後のお湯で、何をするつもりなの?」
美芽留には、
『美芽留、(美芽留が入ったお湯で淫らなことをするから)先に風呂入っていいぞ。(もししなかったら、美芽留に性的なことをするから)後で辛い思いをしちゃうぞ』
誤解が生まれている。俺は誘拐犯ではあるが、強制わいせつ罪に問われるような覚えはない。これは、しっかりと訂正する必要があるようだ。
「俺は、気品のある大人な女性にしか興味はない!」
「じゃあ、その女性が入った後のお湯は、何かしていたって事ね」
「︙︙」
そういうことになる。俺はただ、黙ることしか出来なかった。