協定
春が来て、僕は大学三年生になった。
ゼミに所属することになり、僕はLGBTQについて学べるゼミを選んだ。
今までなら絶対に断っていたはずの飲み会に参加したのは、心が弱っていたからだと思う。
もしかしたら、僕と同じ不安を抱えている人がいるかもしれない。同じ苦しみを分かち合える人に出会えるかもしれない。そんな一縷の望みを抱いて、ゼミの飲み会に行ってしまった。そしてその期待は、最悪の形で打ち砕かれた。
はじめのうちは和やかな飲み会だった。だが、酒量が増えていくにつれて、悪酔いする奴が現れた。
「LGBTQとか言ってもさぁ、実際にそっち側の奴になんて会ったことないよな」
沼田という男が、薄ら笑いを浮かべながら大声で言った。このゼミに友人がいるとかで、当日強引に参加してきた奴だった。
「そっち側」という言葉に多少引っかかったものの、いちいち気にしてもしょうがないと聞き流した。
だが、沼田はその後、近くにいた気の弱そうな男子学生を捕まえて絡み始めた。
「なあ、お前さあ、すっげえナヨナヨしてるけど、ひょっとしてソッチ系?」
絡まれた方は、
「いや、僕は……」
と口ごもる。
「えっ、何? もしかしてホントにゲイ? マジかよー!」
沼田は大声を張り上げる。
「いや、だからぼくは別に……」
相手の言葉なんか、沼田は聞いちゃいなかった。
「何だよー。俺、狙われちゃったらどうしよう」
沼田のその言葉に、僕の中で抑えていた何かが弾け飛んだ。気が付くと、ビールのジョッキをテーブルに叩きつけていた。みんなが一斉に僕の方を見る。
やめろ
頭の中でもう一人の僕が声を上げた。だけど、どうしても止められなかった。
「男を好きだろうが、女を好きだろうが、そんなの個人の自由だろ。お前に何の関係があるんだよ」
自分でも信じられないくらい低く、怒りに満ちた声が出た。
「関係あるだろ。俺、男に襲われたくねーもん」
沼田が笑いながら、ウェっと吐きそうな仕草をした。
僕は沼田を睨みつけると、強い口調で言い放った。
「安心しろよ。僕がゲイだったとしても、お前のことだけは絶対に好きにならないから」
僕は財布から千円札を数枚抜き取ってテーブルに置いた。
「足りなかったら、後で払う」
そう言って、その場を後にした。
店を出る時、誰かに「イチヤ君!」と呼び止められた気がしたが、無視してそのまま歩き続けた。
顔が熱い。
頭がグルグルと回る。
慣れないことはするもんじゃないと激しく後悔しながら、覚束ない足取りで家へと帰った。
翌日は土曜日で、いつもはイガちゃんと過ごしているはずの週末だったが、とてもそんな気分にはなれず、二日酔いだからとメールをして、今週は会わないことにした。
月曜日、憂鬱な気持ちを抱えながら、大学へと向かった。
午前の授業を終え、食堂で遅い昼食を食べていると、
「隣、いい?」
と言って、ゆるいウェーブのかかった長い髪の女子学生が、隣の椅子に腰を下ろした。
その時間の食堂は人もまばらで、空席は他にもたくさんあったから、わざわざ僕の隣に来るのはとても不自然だった。
「私、小林サヤカ。ゼミの飲み会に私もいたんだけど、覚えてる?」
そう言われて顔を見たが、まるで記憶に無い。
「ああ、ごめん。酔っていたからあまり覚えていない」
僕が言うと、少しがっかりした様子で話を続けた。
「じゃあ、自分が何を言ったかも覚えていないの?」
「それは……覚えてる」
僕の答えを聞くと、小林は笑顔を見せた。
「ねえ、私と協定を結ばない?」
「協定?」
「そう。あんなことを言うから、イチヤ君はゲイなんじゃないかって噂が流れてる」
「……へえ」
「否定しないんだ」
「否定したって誰も信じないだろ」
「まあ、そうだよね。だから、私が協力するよ。こうやって二人でお昼を食べたり、隣の席で授業を受けたり、なるべく一緒に行動するの。そうしたら、周りは勝手に付き合ってるんじゃないかって勘違いして、ゲイだって噂も消えるんじゃないかなと思って」
僕は小林の顔をまじまじと見た。
「何で君がそんなことをするわけ? 何かメリットがあるの?」
「あるよ」
一呼吸置いて、小林がつぶやいた。
「私、女の子が好きなの」
隣の席の僕がかろうじて聞き取れるくらいの、小さな声だった。
「だから、イチヤ君が一緒にいてくれたら、私もカモフラージュできるかなって」
僕は、しばらく黙っていた。小林が「冗談だよ」と言い出すのではないかと思っていたからだ。それくらい、大学の食堂で耳にするには、不釣り合いな告白だった。
小林が何も言わないので、僕は仕方なく口を開いた。
「君は、よく知らない相手にも平気でカミングアウトしてるわけ?」
「違う」
小林の眼差しは、切実なものを感じさせた。
「イチヤ君だから言ったんだよ。男でも女でも、人を好きになるのは自由だって、そう言ったでしょ。私、あの言葉に救われた。もしあれが本心なら、たとえイチヤ君がゲイじゃなかったとしても、私のことを言いふらしたりしないだろうなって思った」
小林の言葉で、飲み会の日以来僕の心にあったわだかまりが、ゆっくりと溶けていくように感じた。
「……分かった。協定を結ぼう」
僕が言うと、小林は目を輝かせた。
「ありがとう! イチヤ君」
「君付けはいらない」
「じゃあ、私のことも、さん付けしなくていいよ」
「最初から付ける気ない」
僕の言葉に、小林が笑う。
こうして僕にも、大学生活で初めて心を許せる友達が出来た。
親しくなってみると、小林は絶妙な距離感で友達付き合いが出来る、貴重な相手だった。
小林は自分なりの考えをちゃんと持っていて、それを僕にもきちんと伝えてくれた。だから深い話ができたし、今まで誰にも話せなかったようなことも相談することができた。
「同性愛者の恋愛のゴールってどこなんだろう」
僕の問いかけに、小林はしばらく考え込んでから答えた。
「ゴールって……終わりっていう意味なら、別れる時がゴールなんじゃない?」
「終わりっていうか……区切りというか、目標というか。例えば、異性愛者にとっての結婚とか出産みたいな感じのこと」
「うーん。私は、結婚も出産もゴールではないと思うんだよね。むしろ、そこからが大変というか……。うち、年の離れたお姉ちゃんがいるんだけど、結婚した後も出産した後も、旦那さんとは何回もド派手な喧嘩して、何度も離婚危機に直面してたよ。だけど、その度に話し合って許しあって、関係を修復しながら、少しずつ家族になろうとしてる」
小林は話を続けた。
「同性愛でも異性愛でも、恋愛のゴールってきっと『家族』になることなんじゃないかな。そこからは恋愛感情とはまた別の、深い愛情が生まれてくるような気がする」
小林の言葉は、いつも僕の心の奥深くまで届いて感情を揺さぶる。
「やっぱり、お前に話してよかった」
僕が言うと、小林は得意げな顔をしてこちらを見た。
「相談料千円ね」
「金取るのかよ」
「じゃあ、コーヒーでいいや」
小林が軽やかな足取りで自動販売機のコーナーへと向かう。
木々の間からこぼれる初夏の陽射しが、僕達を眩しく照らした。




