別離
僕は春休みから予備校に通い始め、イガちゃんはバイトをかけもちしてワーキングホリデーの資金作りに勤しんだ。
高校三年生の夏の大会が終わると、部活を引退した佐々木や加藤も本格的に受験勉強に力を入れ始め、五人で過ごすのは学校の休み時間くらいしかなかった。
みんなで花火大会を見に行った夏が、遠い昔のように感じられる。勉強に追われ、日々が目まぐるしく過ぎていき、イガちゃんと出会ってから三度目の冬を迎えた。
クリスマスの夜、勉強机に向かっていると電話が鳴った。イガちゃんからだった。
「勉強はかどってる?」
イガちゃんの賑やかな声が耳に飛び込んでくる。
「お前の電話で中断されるまではな。何か用?」
「今年は一緒に遊べないから電話してみた」
「彼氏かよ」
僕が言うと、イガちゃんは黙ってしまった。
「ごめん、気持ち悪いこと言った」
謝る僕に、
「イチヤのことを気持ち悪いと思ったことは、一度もないよ」
とイガちゃんが言う。
前にもこの部屋で同じような言葉を聞いたな、と懐かしく思い出す。
「お前の方はどう? 準備は進んでるの?」
僕が訊ねると、
「うん。順調」
とイガちゃんが答える。
「そういえばさ、何でオーストラリアにしたんだ?」
僕は気になっていたことを聞いてみた。
「『プリシラ』って映画が好きでさ。オーストラリアが舞台の映画なんだ」
「へえ。ホラー映画?」
「違う。ゲイの三人が砂漠を横切って旅する話」
イガちゃんから「ゲイ」という言葉を聞かされて、僕は少し動揺した。
「……何だそれ」
「一番好きな映画なんだ。面白いから観てみてよ」
「ホラー映画しか観ないんじゃないのかよ」
昔、イガちゃんからホラー映画について熱く語られたことを思い出しながら、僕は訊ねた。
「ホラーが好きってだけで、ホラー映画以外も観るよ」
イガちゃんの声が、いつになく優しく響く。
「ふーん。映画に影響されてその国に行きたいなんて、お前は本当に単純だな」
僕が言うと、イガちゃんは少し黙った後に話を続けた。
「まあ、場所はどこでもよかったんだと思う。ただ、今の環境を変えて考えたいことがあったんだ」
「考えたいこと?」
「身近過ぎると冷静な判断が出来ない気がしたから、距離を置いて、時間をかけて考えたかったんだ」
「それは……家を継ぐかどうかで悩んでるってこと?」
「もっと大事なこと」
それ以上聞いてはいけない気がして、僕は黙った。
「去年イチヤにあげた地図ってどうした?」
イガちゃんが話題を変えた。
「今、目の前に貼ってあるよ」
「捨てなかったんだ」
「そんなことしねーよ」
「そうだね、イチヤはそんなことしないね」
ちょっと沈黙が続き、
「じゃあまた」
とイガちゃんが言った。
僕の返事を待たずに、通話は切れた。
入試が終わり、イガちゃん以外の四人は進学先の大学が決まった。
イガちゃんは相変わらずバイトや英語の勉強に明け暮れ、忙しそうにしていた。
僕は時間に余裕が出来たので、工場でアルバイトを始めた。誰とも喋らずに黙々と作業をこなす工場の仕事は、僕にぴったりだった。
卒業式の日、帰りに五人でファミレスへ寄った。明日からはもう、学校で会うことはない。寂しさに押し潰されないよう、僕達はいつも通りに他愛のない話をして過ごした。
外が暗くなる頃、吉野が夕飯は家族と外食するからと言って席を立ち、佐々木は加藤の部屋に寄って行くと言うので、僕とイガちゃんも帰ることにした。
二人で駅のベンチに座っていると、何とも言えない気持ちがこみ上げてくる。
ホームに電車が滑り込んできた。イガちゃんと学校帰りに乗る、最後の電車だ。
乗りたくない。
最後だなんて、嫌だ。
でも、気持ちとは裏腹に僕の足は自然と動き、電車の中へと足を踏み入れた。
「イチヤ」
電車の中で、イガちゃんが僕に呼びかける。
「俺、この学校に入って、イチヤに会えて、本当に良かった」
イガちゃんが、僕を見つめている。
「もしイチヤに会わなかったら、俺はきっと誰にも心の中を見せられないまま、愛想笑いして三年間を過ごしていたかもしれない」
「イチヤといる時だけは、本当の自分でいられるような気がした」
イガちゃんの言葉を聞いているうちに、心の奥深くに沈めていたはずの思いが浮かび上がってくる。
好きだ
たぶん、ずっと好きだった。
どんなに否定しようとしても、どうしようもなく惹かれていった。
だけど、叶うわけがない。
だから、自分の気持ちに気付かないふりをし続けてきたのに。
それなのに、どうしてそんなことを言うんだよ。
「イチヤ、聞いてる?」
伝えたいことは溢れそうなほど胸の中にあるのに、うまく言葉にならない。
「……聞いてる」
僕は、そう答えるのが精一杯だった。
イガちゃんの降りる駅が近付く。
何か言わなきゃと思うのに、一つも言葉が出てこない。
電車が止まり、ドアが開く。
降りる時、
「日本に帰ってきたら、また遊ぼうな」
とイガちゃんが言った。
僕が返事をする前に、イガちゃんは歩き出した。
そして、一度も振り返らなかった。
イガちゃんがオーストラリアへ向けて出発する日、僕は見送りに行かなかった。その日、僕はバイトのシフトを入れて、工場で無心に検品作業をしていた。
就業時間を終えて携帯を見ると、加藤から着信が入っている。かけ直すと、加藤がちょっと怒った声で電話に出た。
「何で見送りに来なかったんだよ」
「バイトで行けないって言ったじゃないか」
「こんな日くらい休めって言っただろ」
「僕が行かなくたって、五十嵐は気にしないよ」
「お前それ……本気で言ってんの?」
「……」
イガちゃんとは、卒業式の日以来会っていなかった。
『また日本に帰ってきたら』
あの日、イガちゃんはそう言った。それまで僕と会う気はないということだ。実際、イガちゃんからは何の連絡もないまま、今日を迎えた。
「あのさ、俺が言うようなことじゃないんだろうけど、このままだとお前は一生知らないままだと思うから、言わせてもらうぞ」
そう言って、加藤が話し始めた。
「嫌なことを思い出させて悪いけど、木嶋がお前の中学時代の話を持ち出したことがあっただろ。あの日、お前が教室を出て行ってすぐに、イガちゃんが追いかけようとしたんだ。その時、『イチヤは絶対五十嵐のことが好きだよな』って木嶋がからかったんだ。そしたらさ、イガちゃんが言ったんだ。『俺もイチヤが好きだ』って」
加藤は一息ついてから話を続けた。
「木嶋が『お前も男が好きなのかよ』って言ったら、イガちゃんは『男が好きなんじゃない、イチヤが好きなんだ』って言ってた。『男とか女とか関係なく、イチヤが好きなんだ』って」
「あの時のイガちゃん、すごくカッコ良かったよ。俺さ、佐々木と付き合ってることをずっと隠してたんだ。俺じゃ釣り合わないって分かってたし、周りにからかわれるのも嫌だったから」
「でも、イガちゃんが堂々とイチヤのことを好きだって言っている姿を見て、思ったんだ。誰かを好きだと思う気持ちは、恥ずかしいことなんかじゃないんだなって。からかったり、笑いものにしたりする方がおかしいんだなって」
「たぶんあの時、クラスにいた他の奴らも、同じようなことを思ったんじゃないかな。あの後もからかってきたのって、木嶋達だけだったし」
「俺はずっと二人のことを応援してきたよ。俺だけじゃなくて、佐々木も吉野も」
加藤が話し終えても、僕は何も言えなかった。泣いているのを知られたくなかったから。
でも結局、鼻をすする音でバレてしまった。
「何だよ、泣くくらいなら、見送りに来ればよかったじゃないか」
「でも、五十嵐の好きと僕の好きは、きっと違う」
僕はやっと声を絞り出す。
「バカだなぁ。そんなの当たり前だろ?」
加藤が呆れたように言う。
「俺と佐々木の好きだって、きっと違うよ。気持ちは目に見えないし、形があるわけでもないんだから。だけどさ、相手のことが何より大切で、ずっと一緒にいたいって思う気持ちは、同じように『好き』ってことなんじゃないの?」
「五十嵐が僕を好きって言ったのは、かなり前の話だし、今はもう違うと思う」
僕が加藤の言葉を打ち消そうとすると、
「違うとしたら、もっと好きになってるってことなんじゃねーの?」
と加藤が優しい声で言う。
「そうだったらいいな」
僕の言葉に、加藤が驚いた声を上げる。
「ずいぶん素直じゃん。なぁ、イガちゃんが帰ってきたら、ちゃんと自分の気持ちを伝えろよ」
「気持ちが変わってなかったらね」
「大丈夫だろ。じゃあ俺、これから出かけるから切るぞ」
「わかった。ありがとう。またな」
電話を切った後、僕はしばらく空を見上げて佇んでいた。
青い空が、どこまでも高く遠く広がっていた。
その後、イガちゃんからは時々絵葉書が届いた。
内容は、近況が数行綴られただけのシンプルなものだった。
滞在先の住所はいつも書かれていなかったから、僕は返事を出したことがない。
加藤達は、イガちゃんとメールで連絡を取り合っていると言っていたから、僕もメールを送ってみようかと思ったが、考えた末にやめた。
僕にだけ絵葉書を送り、滞在先を知らせないのは、僕からの返事を求めていないような気がしたからだ。
大学生活はそれなりに順調で、普段は特に問題なかったが、時折触れる他人の悪意や嘲笑に、心が騒つくことはあった。そんな時、僕はイガちゃんからもらった世界地図を眺めながら、遠い国へと想いを馳せる。
きっと今日もイガちゃんは、愛想の良い笑顔を浮かべながら、空気の読めない発言をしているのだろう。
そう思うと、濁って見えたはずの地図の中の海が、少しずつ澄み渡っていくような気がするのだ。




