絆
目が覚めると、まだ明け方だった。もうひと眠りしようとして寝返りを打つと、指がワタルの頬に触れた。規則正しい寝息を立てながら、眠りについている。
こうして寝顔を見ていると、高校生の頃を思い出す。俺と仲良くなる前のワタルは、休み時間によく寝ていた。誰にも話しかけられないように。誰とも親しくならないように。
高校の入学式の日、俺達は体育館に並べられたパイプ椅子へ、出席番号順に座らされた。
右隣には阿部という奴が座っていて、軽いノリでしきりに話しかけてくるので、適当に話を合わせた。左隣に座っている男子は、阿部とは対照的に物静かで、置物のように身動きひとつしない。名札には「一箭 航」とあった。苗字に初めて見る漢字が入っていて、読み方がさっぱり分からない。
こいつ、前髪が長過ぎて顔がよく見えないなと思ったその時、彼が髪をかきあげた。
綺麗な横顔だった。
俺の視線に気付いたのか、彼がこちらを見る。目を見た瞬間、なぜか心臓が激しく鼓動を打った。俺は慌てて目を逸らし、前を向いた。その後、体育館を出るまで一度も彼の方を見ることが出来なかった。
後日、入学式で左隣に座っていた男子の名前は「イチヤワタル」と読むことが分かった。イチヤはいつも一人で過ごしていて、休み時間は机に突っ伏して寝ているか、イヤホンで音楽を聴きながら窓の外を見ていた。
俺はバスケ部に入り、クラスでもバスケ部の仲間とつるんでいたが、気が付くといつもイチヤを目で追っていた。どうしてなのか自分でもわからなかったけれど、彼のことが気になって仕方なかった。
ある日、バスケ部の澤田に彼女が出来たというので、俺達は澤田を質問責めにした。
澤田の彼女が女子バスケ部の木村だと分かると、一緒に話を聞いていた鈴木が、
「あー、あいつか」
と急に興味を失ったような顔をした。他の奴らも目配せをし合ってニヤニヤしている。
澤田はそんな様子には気付いていないようで、
「ちょっと気が強いけど、可愛いところもあるんだよ」
と照れながら言った。
すると、鈴木は
「可愛くねーよ、あんな吊り目」
と鼻で笑いながら言った。
澤田の顔が強張っていく。
切れ長の目をした木村は、確かに目つきが悪く見える時もあった。でも、キリッとした顔立ちは美人の部類に入るのではないかと思った。
何かフォローをしようと口を開きかけた時、澤田の肩越しにイチヤの顔が見えた。唇を固く結んで、前髪の隙間から覗く瞳には、悲しみの色があった。
何でだよ。何で、イチヤがそんな顔をするんだよ。
気が付くと、俺は自分でも意外なほどキツい言い方で鈴木を咎めていた。
「そういうの、やめろよ。自分の好きな奴のことを悪く言われたら、誰だって嫌だろ。それに、木村の目は綺麗だよ」
みんなが静まり返る。それから、鈴木はダルそうに立ち上がり、
「冗談じゃん。マジに返されるとシラけるんだけど。イガちゃんって、そういうところあるよね。つまんねーから、この話はもういいや」
そう言って、教室から出て行った。他の奴らも鈴木についていく。
澤田も立ち上がると、去り際に俺に耳打ちした。
「イガちゃん、ああいうこと言わなくていいから。空気読んでよ」
俺は、そのまま椅子に座りながら自己嫌悪に陥っていた。ふと横を見るとイチヤと目が合ったが、彼はすぐに視線を逸らした。イチヤの表情から悲しみの色が消えていたことに、俺は密かに安堵した。
その日の昼休み、俺はみんなと教室で食べるのが気まずくて、昼飯を買い忘れたと嘘をつき、一人で学食へ向かった。
定食のトレーを持って空席を探していると、端の方にイチヤが座っているのが見えた。俺が向かいの席にトレーを置くと、イチヤはチラっとこちらに目をやったが、何も言わずに食事を続けた。
話しかけてもあまり反応はなかったが、イチヤは食べ終わっても席を立たずに、食堂の窓から外を眺めている。
「何か見えるの?」
と聞くと、
「別に。暇だから見てるだけ。早く食えよ」
と答えた。
もしかして、俺が食べ終わるのを待っていてくれてるんだろうか、などと考えていると、イチヤが話しかけてきた。
「木村のこと好きなの?」
「え?」
「さっき、庇っていたから。もしそうなら、頑張ってみれば? 僕なら、悪口言われても黙ってやり過ごす彼氏より、友達と喧嘩してでも守ってくれる男の方を選ぶよ」
「木村のことは別に好きじゃないよ」
俺は慌てて否定した。
「恋愛にはあまり興味がないし」
幼い頃に母親が付き合っていた男と出て行ってから、俺は誰かに対して愛情を抱くことが出来なくなっていた。
「もし誰かを好きになって、また裏切られたりしたら、たぶん立ち直れない」
俺の言葉に、イチヤが反応した。
「『また』って、前にも裏切られたことがあるのか?」
自分のことを喋り過ぎてしまったことに気が付き、俺は適当に誤魔化すことにした。
「気にするのそこかよ。誰だって裏切られたことくらいあるだろ。きっと、お前だってーー」
俺がそこまで言いかけた時、イチヤが表情を硬くした。俺は、入学式の時のイチヤを思い出した。あの時の彼の目、あれとよく似た目を、俺は前にも見たことがある。
確かめたくて、俺は手を伸ばしてイチヤの前髪をかき分けた。孤独に打ちのめされた目が、そこにはあった。
母親に捨てられたと知った時、俺を引き取るなら離婚すると叔母が叔父に向かって叫んだ時、鏡の中には今のイチヤと同じ目をした俺がいた。
「何すんだよ!」
イチヤは俺の手を振り払って席を立ち、食堂から出て行ってしまった。
俺はその場から動けずにいた。
もしかしたらイチヤも、俺と同じように孤独と絶望を抱えているのかもしれない。
他人の痛みを自分のことのように感じて、苦しんでいるのかもしれない。
何の根拠もないのに、何故かそう思った。
もしそうなら、いつか俺がイチヤの支えになれたらいいのに。
あいつが、俺の隣で幸せそうに笑う日がくればいいのに。
そうしたら俺は、きっと自分自身が救われたような気持ちになるんじゃないだろうか。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで、俺は一人で考え続けていた。
放課後、部活に行く時間になる頃には、鈴木も澤田もいつも通りに接してくれるようになっていた。
イチヤはすぐに帰ってしまったので、昼間のことを謝ることが出来なかった。
それからも、イチヤと親しくなるきっかけは掴めないまま、時間だけが過ぎていった。
そんなある日、学園祭の準備や店番は出席番号順に班を割り振って担当すると聞いて、俺は心の中でガッツポーズをした。これでイチヤと話せる。なるべく一緒に行動して、絶対に仲良くなろう。俺はそう決意した。
母親と別れて以来、親密になりたいと願った唯一の相手が、イチヤだった。
「おい、起きろよ」
ワタルの声が耳元で聞こえる。
目を開けると、ワタルが俺の顔を覗き込んでいた。
「お前、すごいイビキかいてたぞ」
そう言って、ワタルが笑う。
高校の頃を思い返しているうちに、いつのまにか眠ってしまったらしい。
俺は、ワタルの髪に触れながら聞いた。
「俺と一緒にいて幸せ?」
ワタルが微笑みながら答える。
「当たり前だろ。それより、急いで準備しろよ。今日は加藤と佐々木のところへ赤ちゃんを見に行くんだから」
「そうだった」
俺は急いで飛び起きると、洗面所へと駆け込んだ。
ワタルに出会ってから、俺は孤独を感じなくなった。
友達になり、恋をして、今では家族のように深い絆で結ばれている。
絶望の淵に立っていた、五歳の頃の俺に教えてやりたい。
十年後、お前は自分と同じ目をした人間に出会うと。
そいつはなかなか心を開かないけれど、絶対に諦めるなと。
今までの苦しみも悲しみも、全部帳消しにするくらいの幸せが待っているからと。
生きていて良かったと思える日は、必ずやってくると。
そう、伝えてやりたい。




