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祈り

 冬期講習が終わり、僕は塾長のところへ話をしに行くことにした。

 昼間の生徒が帰り、夜からの生徒が来る前の空き時間に訪ねると、最初に会った時のようにコーヒーを勧めてくれた。

 僕は、就職活動をした時に感じたことや、今井と話して気付いたことを伝えて、ここで働かせて下さいと頭を下げた。

「嬉しいよ。これで私も安心だ。君が仕事でもパートナーになってくれれば、息子も心強いと思う」

 塾長の言葉の中に、何か引っ掛かりを感じた。今、「仕事でも」って言わなかったか?

 掌に汗が滲んでくる。

 たぶん気のせいだ。僕の考え過ぎだ。知っているはずがない。そう自分に言い聞かせたが、どうしても確認せずにはいられなかった。

「あの……僕と息子さんのこと、何か知っているんですか?」

 僕の顔色を見て、何かを察したのだろう。

「この話の続きは、また今度にしよう。先に息子と話し合っておいで」

 そう言って、塾長は僕をイガちゃんのところへ行かせた。


 イガちゃんは教務室で事務作業をしていた。まだ、生徒も他の先生も来ていない。

「イチヤ、話終わった? 俺も大学に行く時間だから、これ片付けたら一緒に駅までーー」

話を遮って、僕はイガちゃんを問い詰めた。

「塾長に僕達のことを話したのか?」

「……話した」

イガちゃんの返事を聞いた瞬間、頭に血がのぼった。

「何でそんな勝手なことをするんだよ!」

「父さんには受け入れて欲しかったから。イチヤとのことを隠したくなかった」

「ふざけんなよ……いつから、何をどこまで知られているんだよ……」

「オーストラリアに行く前に、イチヤを好きになったことを伝えた。一年かけて自分の気持ちを確かめてくるってことも」

 僕は頭を抱えた。

「帰国した後にプロポーズしたことも話した」

「何で塾長に話したってことを、僕に教えてくれなかったんだよ」

「だって、そんなこと言ったらうちでアルバイトしてくれなかっただろ」

 イガちゃんの言葉を聞いて、怒りがこみ上げてきた。

「当たり前だろ!」

 僕は思わず大声を出した。

「……塾長の他に知っている人は?」

 僕は絶望的な気分で聞いた。

「うちの母さんと妹」

「ここの先生達は?」

「さすがに言ってない」

 僕は安堵のため息をついた。

「あ……でもーー」

 イガちゃんが何か言いかけて口をつぐむ。

「何だよ、言えよ」

「いや……、俺が言うよりも前に、気付いていた人ならいる」

「誰だよ」

 イガちゃんは少し躊躇ってから、信じられない言葉を口にした。

「イチヤのお母さん」

「嘘だろ……」

 全身から血の気が引いていく。家族にだけは……どうしても知られたくなかったのに。

「でも、本当に俺が言う前にーー」

「言い訳すんなよ! お前だけの問題なら、好きにすればいいよ! だけどこれは、二人の問題だろ?! 一人で考えて結論出して、挙句の果てに何の相談もなく家族に話すなんて、最低だ!!」

「イチヤ、俺の話も聞いてくれよ」

「これ以上聞きたくない! もう……終わりにしよう。信頼出来ない相手とは一緒にいられない」

 僕はそう言い残して、教務室を飛び出した。


 家に帰り、リビングへ入ると

「おかえり」

 と母さんがいつもと変わらない様子でお茶を飲んでいた。

「あんた、ずいぶん顔色が悪いけど大丈夫?」

 母さんが心配そうに僕の目を覗き込む。

「あの……さ、五十嵐と僕のこと……何か知ってるんでしょ?」

 声が掠れる。

 母さんは僕の目を見たまま、

「プロポーズのこと?」

 と言った。

「……心配しなくていいよ、それ冗談だから」

 なんとか誤魔化そうと、必死に言葉を紡いだ。

「あいつが言ったことは気にしないで。五十嵐とはもう、縁を切るつもりだし」

「縁を切るって、あんた何言ってんのよ」

「だって最悪だろ。僕に黙って母さんに勝手なこと吹き込んで。そんなやつ、信用できないよ」

 母さんはお茶を一口飲むと話し始めた。

「あんたが同性を好きだってことは、昔から知っていたわよ」

「え……」

「中学生の頃、仲の良かった友達が転校したでしょ。あんたとその子が付き合っていたって話を、ご丁寧に知らせてくれた人がいてね」

「誰?」

「同じクラスの子のお母さん」

「……」

「でも、そんな噂は信じなかった。……というより、信じたくなかった。あんたが日に日に元気をなくして、家から遠い高校へ進学したいと言い出しても、気付かないふりをし続けた」

「高校に入って何日か休んだ時にも、様子がおかしいって分かっていたのに、何も聞けなかった。そんな時、五十嵐君が来てくれたのよね」

「五十嵐君は、何があったのかは言わなかった。でも、『前に助けてもらったから、今度は自分が力になりたい』って言ってた。五十嵐君があんたの部屋に行った後、大きな声が聞こえて……心配でドアの前まで行ったら、二人の話が聞こえた」

「五十嵐君は、『相手が男でも女でも、人を好きになることは気持ち悪いことじゃない』って言ってた。私が何年かけても言えなかったことを、代わりに言ってくれたような気がした。そこから少しずつ、受け入れていこうって思えるようになったの」

「五十嵐君が帰国してうちに来た日、あんたがなかなか帰ってこないから、二人でいろいろ話をしてたのよ。それで高校の時の話になって、『五十嵐君の言葉のおかげで、息子が彼氏を連れてきても受け入れられると思う。ありがとう』ってお礼を言ったの。そうしたら、凄くびっくりしてた。『五十嵐君が彼氏だったら安心なんだけどね』って言ったら、真剣な顔して、『今日はプロポーズするつもりで来ました』って教えてくれたのよ」

 母さんは話し終えると、

「すっかり冷めちゃったわね」

 と言って、湯呑みを持って台所へ入って行った。


 僕は、馬鹿みたいにその場に突っ立っていた。

 一気にいろんな感情が押し寄せてきて、気持ちの整理がつかない。

 玄関のチャイムで我に帰ると、母さんが呼びに来た。

「五十嵐君、来たわよ」

「僕の部屋に入っててもらって……あとで行くから」

 僕はそう言って、台所で二人分のコーヒーを入れた。

 飲み物を持って部屋に入ると、真冬なのに何故か汗だくのイガちゃんが座っている。

「滝にでも打たれてきたのかよ」

 僕が聞くと、イガちゃんは

「書類をあのままにしておけなかったから、急いで片付けて、電車の中以外は全部走ってきた」

 と答えた。

「ごめん。ちゃんと話を聞かなくて悪かった。母さんが言ってた。僕のことを受け入れられるようになったのは、お前のおかげだって」

 僕が謝ると、イガちゃんは泣きそうな顔になった。

「俺の方こそごめん。自分の気持ちしか考えてなかったと思う。二人のことなのに、一人で考えて勝手なことしてた。これからは必ず相談する。だから、終わりにするなんて言わないでほしい」

 僕はイガちゃんにそっと近付いた。

「終わりにしない。これからも一緒にいる」

 イガちゃんが何か言おうとしていたけれど、僕はその唇を塞いだ。

 初めて自分からするキスは想像以上に緊張して、唇を離した後も鼓動はなかなか鎮まらなかった。


 塾長のところへは、改めて話をしに行った。

 僕が大声を出したので、塾の中で喧嘩していたことは知っているはずだったが、そこには触れず、

「これからもよろしく」

 と穏やかに笑ってくれた。

 とりあえずは内々定ということで、親には正式な内定をもらってから話すことにした。


 大学で久しぶりに小林と顔を合わせ、冬休み中の出来事を話すと、

「この短期間に、ずいぶん色々あったんだね」

 と驚かれた。

「五十嵐は、どうでもいいことはよく喋るくせに、肝心なことを言わないんだよ」

 僕が苦い顔で言うと、小林は

「イガちゃんらしいね」

 と笑った。

「そういえば、友達はみんなイガちゃんって呼ぶのに、どうしてイチヤだけは五十嵐って呼ぶの?」

「最初は全然仲良くなかったんだよ。高校の時もずっと五十嵐って呼んでたから、今さらイガちゃんなんて呼べない」

「付き合ってるのに?」

「うん。……でも、心の中では呼んでる」

「……え?」

「何でもない」

「いや、今、心の中では呼んでるって」

「言ってない」

「言ってたよ。もしかして、私のことも心の中ではコバちゃんって呼んでるの?」

「それはない」

 僕が即座に否定すると、小林はおかしそうに笑った。

 なんだか、小林と初めて会った日のことを思い出す。

 誰かと親しくなると、いつか来る別れのことを考えて、いつも悲しくなる。

 ずっと一人でいることと、親しい人との別れを繰り返すことは、どちらがより寂しいのか、僕には未だに分からない。


 この先、僕は全てを失って、また一人ぼっちになる日が来るかもしれない。

 けれど、昔と違うことが一つだけある。

 それは、大切に想う人達との思い出があるということだ。

 命が尽きるその日まで、僕は何度もその記憶を辿るだろう。

 そしてきっと、祈るのだ。

 思い出の中の彼らが、いつまでも幸せであることを。

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