決意
冬期講習は夏期講習より期間が短いものの、忙しいことには変わりなかった。むしろ、受験を目前に控えた学年の授業が増えるので、よりタイトな時間割になっていた。
最終コマを終えて教務室に戻ってくると、受付の前の長椅子に今井が座っているのが見えた。
向こうも気が付き、
「先生」
と声をかけてきた。
何か言いたそうな顔に見えて、僕は今井の隣に腰を下ろした。
「先生、休職中って聞いてたけど、戻ってきたんだ」
「冬期講習だけのピンチヒッターだけどね」
「そっか」
「今井、雰囲気変わったな。明るくなったし、自分から喋るようになった」
「五十嵐先生がしつこくてさ。僕が返事をするまで話しかけてくるから、無視するのも面倒臭くなっちゃって。五十先生と喋ってるうちに、他の人とも普通に話せるようになってきた」
僕は、高校時代のイガちゃんを思い出して笑ってしまった。
「高校生の時もそうだった」
「あの人、昔からあんな感じなんだね」
今井が呆れた顔をする。
しばらくイガちゃんの話で盛り上がった後、思い立ったように今井が僕に訊ねる。
「あのさ、塾の先生ってどうやってなるの?」
「塾講師になりたいの?」
「まあ……選択肢の一つ」
「一番手っ取り早いのは、大学に入ってアルバイトに応募することかな」
「簡単になれるんだね」
「特に資格とか必要ないからね。だけど、なってからは結構大変だよ」
「ふーん。大変なのに、何で塾の先生やってるの?」
今井にそう聞かれて、僕はずっと探していた答えが見つかったような気がした。
「こういう瞬間があるからかもしれない。自分の受け持っていた生徒が成長して、将来なりたいものの話をしてくれる。こんなに嬉しいことはないよ」
「子供の成長が嬉しいって、なんか親みたいだね」
「親の気持ちとはちょっと違うかな。たぶん、僕は君達に昔の自分を重ねているんだと思う。中学生の頃、僕は暗闇の中にいて、心の中でずっと助けを呼び続けていた。でも、その声は誰にも届かなかった」
今井は何も言わない。僕は話を続けた。
「だから、同じように悩みを抱えている生徒がいたら助けになりたいと思うし、彼らが成長した姿を見ると自分のことのように嬉しい。僕は、生徒のためというよりは、自分のためにこの仕事をやっているんだろうな」
静かに話を聞いていた今井は、
「結果的に生徒のためにもなってるんだから、いいんじゃない?」
と言った。
その時、教務室からイガちゃんが顔を出した。
「今井、もう遅いから続きは今度にしろよ」
そう言われて、今井が立ち上がる。
僕とイガちゃんは今井を見送ってから教務室へ戻った。
「ずいぶん話し込んでたじゃん。あいつ、イチヤに質問があるって言って待ってたんだよ。俺のクラスなんだから、俺に聞けばいいのにさ」
イガちゃんが不満そうに口をとがらせる。
「おかげで、答えが出せたよ。就職活動はもうやめる。ここで働きたい。僕がやりたいのは、どこかの塾講師になることじゃなくて、この塾でお前と一緒に生徒の成長を手助けをすることだ」
僕の決意を聞いたイガちゃんは、
「わかった」
とだけ言った。
「反対してたんじゃないのかよ」
僕が訊ねると、イガちゃんは微笑んだ。
「イチヤに苦労させたくなかっただけだよ。でも、考えた末に決めたことなんだろ? だったら俺は賛成するよ」
イガちゃんが僕の頬に手を添えて、顔を近付けてきた。
「何すんだよ」
僕は手を振り払って顔を背けた。
「就職祝い」
「まだ塾長に話してない」
「早く話せよ」
「何でそんなに急かすんだよ」
「早く一緒に住みたいから」
「は?」
「何だよ、就職決まったら一緒に暮らすって約束しただろ」
イガちゃんが怒ったように言う。
「それは……就職して稼げるようになったらって意味だよ。学生のうちは生活費を払えるほどの収入がないだろ」
「卒業までは、家賃も生活費も俺が多く出すから大丈夫」
「そういう問題じゃない」
僕が同棲に乗り気ではないと思ったのだろう。イガちゃんはすっかり機嫌を損ねてしまった。
僕だって、二人の時間が増えた方が嬉しい。だけど、経済的に頼るようなことはしたくない。
どうすればこの気持ちを分かってもらえるんだろう。僕は相変わらず、イガちゃんに気持ちを上手く伝えられない。
「明日も忙しいから、今日はもう帰ろう」
イガちゃんに促されて、僕は帰り支度を始めた。
なんだか、イガちゃんとは講習会の度に険悪な雰囲気になってしまう。
このまま年を越したくなかったので、大晦日を一緒に過ごそうと誘った。
「毎年お婆ちゃんの家に行くんじゃなかったのかよ」
電話の向こうでイガちゃんが不機嫌そうに言う。
「今年は行かない」
「何で」
「お前といたいから」
反応がない。
「無理ならーー」
僕が言いかけると、
「無理じゃない」
と食い気味に返事が返ってきた。
「父さんと母さんは泊まりがけで婆ちゃんのところに行くから、家に来いよ。授業準備もできるし」
生徒から回収した記述問題の添削が溜まっていたので、出かけるよりは家で一緒に授業準備をしたかった。
「泊まっていいの?」
と聞かれて、
「別にいいよ。じゃあ、夜は一緒に年越し蕎麦でも食べよう」
と、あまり深く考えずに返事をした。
高校生の頃、何度かイガちゃんが家へ泊まりにきたことがあったので、僕はその頃と同じような感覚でいたのだ。
イガちゃんが泊まりに来る話をすると、母さんはいろいろと食べ物の作り置きをして、冷凍しておいてくれた。
単身赴任先から戻ってきた父さんは、相変わらず僕にはあまり興味が無さそうで、今年は婆ちゃんの家へ行かないと伝えても、「そうか」と言っただけだった。
大晦日、イガちゃんは登山リュックにいっぱいの荷物を背負って現れた。
「何が入ってるんだよ、それ」
「添削しなくちゃいけない生徒の課題と、俺の大学の課題と、まだ予習してない教材」
それを聞いて、僕は誘ったことを後悔した。
「忙しいのにごめん」
僕が謝ると、
「俺もイチヤと一緒にいたかったから大丈夫。あとこれ、安いやつだけど後で一緒に飲もう」
と言って、リュックの中からワインを取り出した。
途中で休憩したり、母さんが作り置きしてくれた夕飯を食べたりしつつ、夜遅くまでひたすら課題や添削をこなした。
母さんは年越し蕎麦用のつゆも作っておいてくれたので、夜食に蕎麦を茹でて食べることにした。
イガちゃんが「俺に任せて」と言うので蕎麦を茹でてもらったら、茹で過ぎて伸びきっているし、鍋底には大量の蕎麦がへばりついているしで、散々な結果になった。
「実家を出る前に、料理の練習が必要だな」
と、蕎麦を食べながら僕が言うと、
「飯なんてコンビニで買えばいいじゃん」
とイガちゃんが笑う。
「自炊の方が節約できるだろ。学生のうちから同棲するなら、僕の今までの貯金とこれからのバイト代を合わせても、贅沢は出来ないからな」
僕の言葉にイガちゃんが手を止める。
「何で……俺と暮らすの嫌なんじゃないの」
「嫌なわけないだろ。僕が金持ちだったら、とっくにお前と同棲してるよ」
「俺がお金出すって言ってるじゃん」
「お前に負担をかけるのが嫌なんだよ。昼間は働いて、夜は大学行って、そうやって必死に頑張ってるお前に、これ以上無理させたくないんだよ。そんなこと、言わなくても分かってくれよ」
僕がそう言うと、いきなりイガちゃんが抱きついてきた。
「おい、やめろよ! 蕎麦がこぼれるだろ」
でも、イガちゃんは僕を離そうとしない。
「……好きだ」
「知ってるよ」
僕が言うと、イガちゃんが唇を重ねてきた。
僕も、好きだ。
この気持ちは、言葉にしなくてもイガちゃんに伝わったような気がした。
台所の片付けを終えてリビングのソファに座っていると、お風呂から出たイガちゃんがグラスを取りに来た。
「先にワイン飲んでるから、イチヤもお風呂に入ったら部屋に来てよ」
僕の近くに来たイガちゃんから、石けんの香りがふわりと漂う。
急に心拍数が上がった。
ただ、一緒にお酒を飲んで寝るだけだ。自分にそう言い聞かせながら、僕は浴室に向かった。
お風呂上がりに部屋へ行くと、イガちゃんは床へ倒れ込むように寝ていた。テーブルの上には、ボトルが半分くらい空いたワインが置いてある。
グラスを片付けようと身をかがめた時、床に積み上げられたプリントやノート類が目に入る。イガちゃんの添削はとても丁寧だ。こんなにきちんとやっていたら、時間がいくらあっても足りないだろう。
僕はテーブルの上を綺麗にすると、イガちゃんに布団をかけ、自分のベッドで眠りについた。
翌朝目が覚めると、僕はイガちゃんの腕の中にいた。身動きをすると、イガちゃんが声をかけてくる。
「起きた?」
「何で一緒に寝てんの」
「明け方に目が覚めて、寒いからこっちに来た」
そう言って、僕の髪に優しく触れる。
急に恥ずかしくなり、イガちゃんに背を向けると、後ろから抱きしめられた。しばらくそのままの体勢でいたが、少しずつ服の中に手が入ってくる。
僕はイガちゃんの手を掴んで止めた。
「ごめん、まだそこまで覚悟できてない」
「嫌?」
「嫌なんじゃなくて、怖い。……痛そうだし」
僕がつぶやくと、イガちゃんはそこまでで止めてくれた。
蕎麦つゆの残りに焼いた餅を入れて雑煮もどきを作り、朝食代わりに二人で食べた。
「明日から受験生の補講があるから、早めに帰るよ」
イガちゃんにそう言われて、仕方がないことだとは分かりつつも、少し寂しい気持ちになった。
早く一緒に暮らしたい。一番近くで支えたい。
心からそう思った。




