迷い
夏期講習が終わり、僕は就職活動に専念するため、一旦アルバイトを辞めることになった。
最後の日に塾長へ挨拶に行くと、
「イチヤ君は、塾業界に就職を希望しているんだってね。どうして?」
と聞かれた。
「どうして……そうですね、ここで出会った先生や生徒達から、教わったことがたくさんあるからだと思います」
僕の答えに、塾長は目を細めた。やっぱり、イガちゃんによく似ている。
「そんな漠然とした理由じゃ、きっとどこも採用してくれないよ。教えることが好きだからとか、子供が好きだからとか、もっと具体的に言わないと」
「教えることは、好き……というよりは難しいなと感じますし、子供はどちらかといえば苦手です」
そもそも、僕は生徒を子供だとは思っていなかった。彼らは驚くほど物事をよく考えていたし、僕よりも賢いなと思う場面は何度もあった。
塾長は、静かに話し出した。
「一つ提案があるんだ。これから就職活動を通して、もし君が他の塾ではなく、この塾で働きたいと思うことがあったら教えて欲しい。うちは大手の塾のような給料は出せないし、休みも少ない。何もかも自分達でやらなくてはいけないから、業務も多岐にわたる。授業だけやればいいというわけにはいかない。それでもうちで働きたい、と思うことがもしあれば、正社員として採用するよ」
思いがけない申し出に、言葉が出てこなかった。
僕が何も言えないでいると、塾長は話を続けた。
「今井という生徒を覚えているかい?」
今井は、僕が初めて受け持った不登校児クラスの生徒だった。今年の春、彼は通信制の高校へ進学したので、昼間のクラスに移っていた。
「よく覚えています」
今井はぶっきらぼうで口数が少なく、最初の頃は指名するたびに僕を睨みつけてきた。
「夏前の保護者面談で、お母さんから話を聞いたんだ。彼の父親はとても厳しい人で、事あるごとに彼を叱りつけていたらしい。彼はいつも項垂れて聞いているだけだったけれど、父親に『このままだったら、お前の人生はお終いだぞ』と怒鳴られた時に、初めて言い返したそうだ」
塾長はそこで言葉を切って、僕の目を見た。
「彼は『何があっても、人生お終いなんてことは絶対にない! イチヤ先生がそう言ってた!』と叫んだそうだ。君の言葉が心からのものだということが、彼には伝わったんだろうね。君のような人が、息子と一緒にこの塾を引き継いでくれたら、とても嬉しい。ただ、就職活動をして他の塾も見た上で答えを出して欲しい。うちは決して良い条件とは言えないからね」
僕は、ほとんど何も言えないまま、塾長の部屋を後にした。
イガちゃんにこの話をすると、
「俺は何も聞いてないよ」
と言った。
「お前はどう思う?」
僕が聞くと、イガちゃんは難しい顔をした。
「イチヤと一緒に仕事が出来るのは嬉しいけど、正直言ってやめといた方が良いと思う。長時間勤務に業務過多、はっきり言ってブラックそのものだし、収入面でも全く報われないからね」
「それなのに、お前は何で後を継ごうと思ったんだよ」
「恩返しみたいなものかな」
「何だよそれ」
「俺さ、子供の頃から空気読めない発言ばっかりしてて、周りから浮いた存在だったんだよね。幼心にこれじゃマズいと思って、愛想笑いで誤魔化す癖がついてた。だけど、父さんとか塾の先生達は、俺の言うことを面白がってくれてさ。子供の頃の俺にとって、父さんの塾は大切な居場所だったんだ。だから、必要としてくれる人がいる限り、これからも守っていきたいんだよ」
そう語るイガちゃんの姿は、なんだかカッコよく見えた。
小林にも相談したが、反応はやはり微妙だった。
「うーん。塾長はイガちゃんとイチヤが付き合っていることを知らないんだよね?」
「もし知られていたら、バイトしてない」
「だよね。だったらリスクが高すぎるんじゃないかな。このまま付き合い続けて、いつかバレた時のことを考えると、クビになる可能性もあるわけだし。それにーー」
言いかけて、小林は口をつぐむ。
「何だよ、気になるから最後まで言えよ」
「……気を悪くしないでね。もしも、もしもだよ、イガちゃんと別れることになったら、その時はどうするの? 大企業ならともかく、小規模なあの塾で、別れた二人が一緒に働き続けるのって結構キツイと思うんだけど」
「……」
「万が一、経営破綻したら共倒れだしね」
「お前、最悪の事態ばっかり想定するよな」
「危機管理能力が高いと言ってよ」
確かに、小林の言うことはあり得ないことではない。むしろ、考えておいた方が良いことばかりだ。
「とりあえずさ、イチヤもいろんな塾のインターンシップに行ってみなよ。それから考えても遅くないじゃん」
「そうだな」
と言ってから、気が付いた。今、「イチヤも」って言ったよな。
僕が小林の顔を見ると、はにかんだ笑顔を浮かべた。
「私もね、就職活動をすることにしたの。塾講師のアルバイトをしている間、大変なことの方が多かったはずなのに、教えることも生徒と過ごす時間も、凄く楽しかった。たった一ヶ月やそこらで何が分かるんだって思うかもしれないけど、私にとっては今までの価値観を変えるくらいの経験だった。だから、私も塾講師の仕事に就けるように頑張ろうと思って」
胸の奥から、じんわりと温かいものが込み上げてくる。小林が前向きに自分の人生を考えようとしていることが、とても嬉しかった。
「コーヒーおごるよ」
僕が言うと、小林は不思議そうに首を傾げた。
「何で?」
「相談料」
僕はそう言って立ち上がった。
今日は自動販売機ではなく、カフェのコーヒーをご馳走しよう。そう考えながら、小林と並んで歩いた。
秋から冬にかけて、僕はいくつかの塾でインターンシップに参加した。小林は授業に専念出来る塾に絞っていたが、僕はあまりこだわらなかった。明確な志望動機が、未だに見つからなかったからだ。そして他の塾を知れば知るほど、僕の中で違和感は膨らんでいった。
僕は本当に塾講師になりたいんだろうか。就職活動が進むにつれて、自分のやりたいことが分からなくなってしまった。
街がすっかり冬景色になる頃、イガちゃんから冬期講習を手伝って欲しいと頼まれた。
「就職活動で忙しいのは分かってるんだけど、塚田先生のお父さんが倒れて東北の実家に戻ることになったから、冬期講習を担当出来なくなったんだ。塚田先生の代わりが出来るのは、イチヤくらいしかいなくてさ……。本当に申し訳ないけど、頼む」
そう言われて、断ることは出来なかった。
冬期講習の前に時間を作ってもらい、塚田先生の引き継ぎをすることになった。
塚田先生は司法浪人だった。法科大学院を出てから、何度も司法試験に挑戦していた。
いつも気難しい顔をしていたが、話してみると気さくで、質問や相談には丁寧に対応してくれた。
「イチヤ君、急にごめんな。うちは母親も兄弟もいないから、俺が父親の面倒を見るしかなくてさ」
塚田先生が心底申し訳なさそうにしている。
「大丈夫です。塚田先生にはお世話になったんで」
「お世話なんてしたか?」
「困った時は必ず助けてくれました」
「そんなの、当たり前だよ」
「だったら、今回のことも僕がやるのは当たり前です」
僕がそういうと、塚田先生は
「ありがとう」
と言って頭を下げた。
引き継ぎの後、お礼にと誘われて一緒に飲むことになった。
「イチヤ君は塾講師になりたいんだって?」
そう聞かれて、僕は正直な今の気持ちを答えた。
「そう思っていたんですけど、よく分からなくなってしまいました」
「そうか……。でも、とりあえず就職はした方がいいよ。俺みたいになったら大変だからさ。司法浪人を何年も続けた挙句、田舎に帰るなんてね。これまでの時間は全部無駄だったよ」
無駄……そうなんだろうか。塚田先生がこれまで積み重ねてきた時間は、そんなに悔やむべきことなんだろうか。
いつもなら口に出すことはなかったのかもしれない。だけど、その日は酒が入っていたせいか、もしくは塚田先生と話す最後の機会だったからか、僕は心の奥にしまっていたことを話し始めた。
「僕、好きな人がいるんですけど、事情があって……そいつとこの先もずっと一緒にいるのは、難しいかもしれないんです」
突然自分のことを話し出した僕に、塚田先生は驚いたようだった。でも、何も言わずに話を聞いてくれた。
「いつか別れる時に、出会ったことも付き合ったことも後悔するのかなって思うと、一緒に過ごしている時間は全部無駄なんじゃないかって考えることがあるんです」
黙って僕の話を聞いていた塚田先生は、飲んでいたビールのジョッキを空にすると、追加で同じものを注文した。
「無駄じゃないよ。イチヤ君が真剣にその人と向き合っているなら、一緒に過ごした時間は少しも無駄じゃない」
塚田先生はそう言ってから、ふと気付いたように付け足した。
「そう考えると、司法試験と真剣に向き合ってきた俺の時間も、無駄じゃなかったのかもしれないな」
塚田先生がビールを飲みながら続ける。
「イチヤ君てさ、不思議な人だよね。普段は口数も少ないし、他人には興味がなさそうに見えるのに、胸には熱いものを秘めてるっていうか」
「それに、俺が司法浪人だって言うとさ、大体の人は哀れみの目で見てきたり、呆れた顔をしたりするんだけど、イチヤ君は全然そんな態度をとらなかったよね」
「だって、目標に向かって努力している人に対して、呆れたり哀れんだりする必要はないですから」
僕が言うと、塚田先生は目を伏せながら僕に訊ねた。
「じゃあ、目標を失った今の俺のことは、どう思ってるの?」
「しばらくしたら、きっとまた次の目標を見つけて、それに向かって努力するんだろうなって思います」
「次の夢も叶わなかったら?」
「塚田先生なら、また新しい目標を見つけると思います」
僕の答えに、塚田先生は表情を和らげる。
「そうだよな。何があっても、人生お終いなんてことはないもんな」
その言葉は……。
「イチヤ君、前にそう言ってたことがあるだろ。その時、近くにいたから聞こえたんだ。あの時の言葉が、妙に胸に刺さってね」
それからしばらく、僕達は黙ってビールを飲んだ。
帰り際、塚田先生が思い出したように言った。
「イチヤ君にどんな事情があるのかは知らないけど、好きな人とのこと、俺は応援してるよ」
「僕も、塚田先生のことを応援しています」
僕が言うと、塚田先生は晴れやかな笑顔を見せた。




