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嫉妬

 梅雨に入る頃、就職活動が本格化して、周りが落ち着かない雰囲気になった。

 夏休みにはインターンへ参加しようかとも考えていたが、昨年の夏「夏期講習はコマ数が増えるのに、人手が足りない」とイガちゃんがボヤいていたのを思い出して、僕は夏休みが終わるまで塾のアルバイトを続けることにした。


「小林は就職どうすんの?」

 昼食の後、ベンチに座ってコーヒーを飲みながら訊ねると、

「私、もう決まってるから」

 と、小林はどうでも良さそうに答えた。

「もう就職決まったの? 早すぎない?」

「縁故採用ってやつ。親戚が経営してる会社に行くことになってる。お姉ちゃんの時もそうだったから、私もそうしろってさ。そこで何年か勤めて、そこそこ稼げる相手とお見合いでもして、結婚・出産・育児っていう素敵な未来を掴み取るわけ」

 小林らしくない言い方だった。

「……お前はそれでいいの?」

「良いも何も……。例えばさ、やりたい仕事に就いて、努力して地位を築いて、さらには大好きな人とも結ばれるっていう、夢みたいな人生を歩んだとするじゃない? だけどさ、もしその幸せの絶頂で、私が女の人しか愛せないって周りの人に知られたら? 積み上げてきたものを全部失うことになるかもしれないじゃん。もしバレなかったとしても、結婚は? 出産は? って、事あるごとに聞かれるんだろうなって思う。そんな人生、考えただけでウンザリする」

「だからって、やりたくもない仕事に就いて、好きでもない人と生涯を共にするの?」

「イチヤには分からないよ」

 小林の声が震えていた。

「イチヤは彼氏がいて幸せだもんね。だけど、私は違う。高校の時好きになった人には、悩み抜いた末に告白したけど振られた。そのあと周りに言いふらされて、友達も平穏な日常も全部失くした。私みたいな人間が好きな人と結ばれるなんて、奇跡に近いことなんだよ。私はもうこれ以上傷付きたくない。失うくらいなら、最初から何もいらない」

 小林の気持ちは、痛いほど僕にも伝わってきた。

「もしイチヤに彼氏がいなかったら、イチヤと偽装結婚したかったな」

 小林は、無理に明るい声を出しながら笑顔を作った。

「偽装結婚?」

「うん。籍だけ入れてさ、周りには結婚したように見せかけて、お互い好きな相手と恋愛するの。これなら、結婚のことをうるさく言われることもないじゃない」

「……」

 僕が黙っていると、小林は

「冗談だよ」

 と言って、少し寂しそうな顔をした。

 小林は、僕にとって大切な友達だった。だから、何とかして力になりたかった。でも、どうしたらいいのかがまるで分からない。

「イチヤは? 就職どうするの?」

「僕は……塾の講師になりたいと思ってる」

「今アルバイトしてる塾で?」

「いや、あそこは個人経営で正社員を雇う余裕は無いはずだから、他で探すつもり。説明会にはいくつか参加したけど、まだ絞れてないんだ。夏期講習が終わったら、本格的に就職活動を始めるよ」

「夏期講習か……自分が受験生だった頃を思い出すな」

 小林が昔を懐かしむように、遠い目をする。

 その時、考えるよりも先に僕の口が動いた。

「なあ、就職決まって時間があるなら、夏期講習の間だけでも、塾講師のアルバイトをやってみない? 人手不足で困っているから、歓迎されると思う」

 今でも、あの時なぜ自分があんなことを言いだしたのか分からない。ただ、小林には諦めてほしくなかったんだと思う。

 様々な事情を抱えた生徒達や講師達、あの塾で、困難さを抱えながらも前を向こうとする人達に出会って、僕の意識は変わった。小林にも、彼らと接することで、未来をより良いものして欲しかった。

 僕の申し出を、小林はしばらく考えていた。そして、

「やってみようかな」

 と笑顔を見せた。


 塾長に話すとすぐに面接をしてくれて、採用が決まった。

 小林は、何度か授業見学をした後に模擬授業の研修を受けることになった。僕も生徒役で模擬授業に参加したが、彼女の授業には人を惹きつけるものがあった。小林の評価は高く、すぐに集団クラスの授業を担当することが決まった。

 いきなり大人数のクラスを受け持つことになって、随分と不安そうだったが、空き時間に小林のクラスを覗くと、生き生きとした顔で授業をしていた。

 夏期講習中は、ほとんどの講師が午前中から夜までの勤務になるので、体力的にも精神的にもキツい。休み時間は添削や採点、質問対応に追われるので、まともに食事を摂れない日もある。だが、僕はそれがあまり苦ではなかった。

 小林も、

「どうしてだろう。凄く疲れるし大変なのに、嫌じゃないどころか、楽しんで働いてる自分がいる」

 と言っていた。

 それを聞いて、何だか僕はとても嬉しくなった。


 生徒達にも講師達にも、小林はすんなり受け入れられたが、イガちゃんだけは浮かない顔をしていた。

 小林は、僕に付き合っている人がいることは知っていたが、その相手がイガちゃんだとは知らなかったので、

「五十嵐先生ってちょっと近寄りがたいんだよね」

 と、少し苦手そうにしていた。

 イガちゃんの態度には心当たりがあったから、僕は小林に申し訳ない気持ちになった。


 小林の採用が決まった後、週末にうちへ来たイガちゃんから、

「小林先生って、イチヤの友達なんでしょ?」

 と聞かれた。

「そうだよ」

 と答えながら夏期講習の準備を続けていると、

「大学でも一緒に過ごして、バイトも同じところにするなんて、ずいぶん仲が良いんだね」

 と言ってきた。

「何か疑っているなら、心配いらないよ。小林とは絶対にそういう関係にはならないから」

 僕は手を止めて言った。

 イガちゃんはテキストをパラパラとめくりながら、

「そんなの、分かんないじゃん」

 と、トゲのある声で言った。

「分かるよ。だってーー」

 僕は、言いかけて口をつぐむ。僕の口から、許可もなく小林の恋愛対象が女だと言うわけにはいかない。

「だって、何?」

「……別に。とにかく、ただの友達だから」

 それ以上、イガちゃんは何も言わなかったけれど、重苦しい空気が流れた。

 そのあと、やり残した仕事があるからと言ってイガちゃんは帰ってしまったので、気まずいまま夏期講習に突入してしまった。


 授業の最終コマが終わるのは夜遅かったので、何かあってはいけないからと、なるべく小林と帰るようにしていた。

 その日は授業の終わりに生徒の質問に対応していて、教室から戻るのが遅くなってしまった。教務室へ入ると誰もいない。待っているはずの小林を探していると、休憩室に明かりがついているのに気が付いた。

 休憩室の扉を開けると、そこにはイガちゃんと小林がいた。小林の表情が固い。僕の姿を見ると、イガちゃんは何も言わずに部屋を出て行った。

「どうした?」

 僕の問いかけには答えず、

「帰ろっか」

 と小林が言った。


 駅までの道のりを歩きながら、小林が言いにくそうに口を開いた。

「あのさ、イチヤの付き合ってる人って、もしかして五十嵐先生?」

 僕が黙っていると、小林は慌てたように言った。

「別に、詮索しているわけじゃないの。ただ、もし五十嵐先生が彼氏なら、誤解させちゃったかもしれないなと思って」

「何があったの?」

「さっき、休憩室で五十嵐先生から『イチヤと仲良いんだね』って言われて……。その後に、『イチヤのこと好きなの?』って聞かれた。五十嵐先生とイチヤが高校の同級生っていうのは知っていたけど、カミングアウトしているのかは分からなかったから、カモフラージュした方が良いのかなと思って、『もしそうなら協力してくれます?』って言っちゃったんだよね」

 小林はため息をついてから続けた。

「その時の五十嵐先生、何とも言えない表情をしてた。不安とか怒りとか悲しみとか、そういうものが全部混ざったような顔」

「それで、あぁこの人はイチヤのことが好きなんだって気付いた。そのタイミングでイチヤが現れたってわけ。あーー、もう、明日からどうしよう……」

 そう言って小林が頭を抱える。

「五十嵐とちゃんと話すよ。ただ……小林は友達だから心配するなって前にも言ったんだけど、納得してくれなかったみたいだから、説明が難しいんだよな……」

僕が頭を悩ませていると、

「私が女の人しか好きになれないってこと、話していいよ」

と小林が言った。

「でも……」

「イチヤにとって、大切な人なんでしょ? それなら、早く誤解をとかないと。それに、このままじゃ私もやりづらくって仕方ないし」

「分かった」

 僕は小林を駅まで送ると、急いでイガちゃんの元へと走った。

 もう帰ってしまったかもしれないと思ったが、まだ明かりがついていた。

 教務室のパソコンに向かって、イガちゃんが座っている。僕が戻ってきたのを見て少し驚いたようだが、すぐにパソコンに目を戻して背中を向けた。

「小林から聞いたよ」

 僕の言葉に、イガちゃんは何も言わない。

「小林は、僕が大学でゲイだって噂を立てられた時に、カモフラージュするために一緒にいようって言ってくれたんだ。だから、お前に聞かれた時も、僕を好きなふりしただけだよ」

「本当に好きかもしれないじゃん」

「それはない」

「何で言い切れるんだよ!」

「小林の恋愛対象は、女の人だから」

 教務室が静寂に包まれた。

「……でも、この先も絶対に異性を好きにならないとは限らないだろ」

 イガちゃんが苦しそうに言葉を吐き出す。

 そこで僕はやっとイガちゃんの不安の正体が分かったような気がした。

「小林が誰のことを好きでも構わないよ。ただ、僕は五十嵐のことだけが好きだし、この気持ちはずっと変わらない。誰と、何をしていてもだ。お前だって、帰国した時にそう言ってくれただろ? だったら、僕が本心で言ってることが分かるはずだ」

 僕が言うと、イガちゃんは立ち上がって僕を抱きしめた。

「俺、怖かったんだ。イチヤが他の人を好きになったらどうしようって」

「五十嵐の不安がなくなるように、僕にできることがあったら言って」

「……じゃあ、一緒に暮らしたい」

 イガちゃんにそう言われて、僕はしばらく考えた。

「分かった。今すぐは無理だけど、就職が決まったら、一緒に暮らそう」

 僕の言葉を聞いて、イガちゃんは抱き締める腕に力を込めた。

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