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第三話「贋花嫁」  作者: 和泉和佐
17/18

贋花嫁17

更新できました_(^^;)ゞ

―――――― 17 ――――――


 再び身代金受け渡しの当日。

 伊勢屋夫婦、そして近江屋が人気のない野っ原に姿を見せた。何もない草原だが、三人がそれぞれ手にした提灯と、川面に照り映えた遠くの吉原の明かりでほのかに人影が浮かび上がる。

「―――」

「―――」

 伊勢屋夫婦も近江屋も口を開かない。ただ、ただ、不安そうな面持ちで顔を見合わせる。

 と、そこへ、

「おい!」

「「「ッ!」」」

 ふいにかかった声に三人は文字通り飛び上がった。

「な、投げ文のお人で…?」

「ああ、そうだ。金は? 持ってきたか?」

 わざとらしい低くくぐもらせた声ではあったが、それは駒吉の声だった。ほっかむりで顔を隠し、まるで安物のトイレブラシのようにコニャコニャと落ち着きがない。

 駒吉としては表には一切姿を見せず隠れて金だけを手に入れる―――という計画であった。脅迫状を書きはしたが、金の受け取りは長吉一家の下っ端を寄越すつもりだったのだ。だが、最近になって一家に逗留するようになった博徒が長吉の同郷ということで気に入られ、余計な差し出口ばかりしてくる。駒吉が身代金受け渡しの場に引っ張り出されたのもこの助五郎という博徒の所為だ。人質(おちよ)がいなければ交渉は難しくなると主張し、駒吉が反対すると、ではお前が交渉しろと押し付けてきた。

 そういう理由で駒吉がこの場にいるのである。

「金なら、ここだ、ここにある」

 伊勢屋が手にした風呂敷をちらりと開いて見せる。切餅がひーふーみーよー…八つ。確かに二百(●●)両。百五十両は長吉に渡し、残りは自分のポケットにナイナイしよう、とそういう算段である。とことんセコイ男である。

「こっちに寄越しな」

「―――おちよは! おちよは何処です! 娘が先です!」

 伊勢屋が叫んだ。事前に雪之丞と打ち合わせていた通り、おちよの姿を見ないことには金は渡せないとゴネて見せる。いや、普通に考えてもそうだろう。決して不自然な要求ではないはずだ。


「……おめえの言ったとおりになったな」

 物陰に隠れた長吉がぼそりと呟いた。さらにその長吉の後ろに隠れた助五郎(助三)が、

「そりゃあそうでしょうよ。誰が二百両もの金を娘の顔も見ずに差し出す奴がいましょうや」

 と、ドヤ顔をして見せた。さらにその後ろには長吉の子分どもが親分と同じ中腰で団子のように連なっている。

「二百両だとっ!? 俺が駒吉のヤローに用意しろと言ったのは百五十両だぞ」

 今回の誘拐劇(?)は駒吉が長吉の妾に手を出したことに端を発している。駒吉としては女に遊ぶ金を出させるなんていつもの小遣い稼ぎのつもりだったのだが、長吉としては妾が間男を加えこんだとあっては怒り心頭で(当たり前だ)駒吉に妾のおさだを吉原から請け出した時の金と同額を払って妾とともに江戸を出ていけと要求したのである。

―――でなければ簀巻きにして大川に沈めるぞ(東京湾にコンクリ詰め)と。究極の二択である。

もちろん一介のちんぴらである駒吉に百五十両という大金を出せるはずがない、長吉もそれを重々承知の上で言っている。つまりは実質的に簀巻き一択なのであった。だが、駒吉が無い知恵を振り絞って振り絞って考え出したのが今回のおちよ誘拐(身代金の架空請求)ということだ。

 長吉の方もこれに乗っかったところで損はない、無理だと思って要求した百五十両も手に入る。

どうせ駒吉には百五十両の大金など出せまいと思って色々と(●●●)先に済ませてしまったことはあるが(意味深)、なに、いざとなれば駒吉も黙らせてしまえばいいことである。

だから、身代金受け渡しを駒吉一人に任せて、いざとなったら誘拐劇の主犯を駒吉になすりつけるという助五郎(助三)の案は、長吉にとっても至極好都合であった。そもそも、おちよを現在かくまっているとかいうどこぞお人よしに罪を被せるよりもずっと手っ取り早いし、奉行所も納得するだろう。

中々に頭の切れる男だと、長吉はご満悦である。


 一方、『おちよを先に!』とゴネる伊勢屋に近江屋も加勢し出し、駒吉は大いに焦った。伊勢屋のおかみはただ青い顔でうつむき、亭主の袖にしがみついている。

「うるせぇっ、四の五の言うねえ。娘はとあるところにちゃーんと無事でいらぁな! いいから金を寄越しねえ!」

 駒吉は焦って無理やりに金を奪おうとするが、伊勢屋も近江屋も必死だ。そう簡単に身代金だけを奪われるわけにはいかない。金だけとって『はい、それまでよ』とばっくれられたらおしまいである。

「素直に金渡せよ! 娘がどうなってもいいのかよ!ヽ(♯`Д´)ノゴルァッ!」

 と駒吉が逆切れをしだす。

〈誘拐〉という犯罪は現代においてはほぼ成功不可能な犯罪と言われていて、この金銭の受け渡しがその最難関であると考えられる。ましてや江戸の昔。娘を殺すと脅したところで駒吉が捕まったら、だれがどこでそれを察知して娘に危害を加えるというのか。言っておくが、スマホはない。

 そもそも駒吉は深い考えもなく百五十両か簀巻きかと究極の二者択一を迫られてここに至っているわけなので、伊勢屋の想定外の反応に焦るばかりである。(←バカ)


「娘ならここだぜぇ!」

 がなり声をあげて長吉が立ち上がったのはそのタイミングであった。その後ろにはぞろぞろと子分どもも金魚の糞のごとくに連なる。長吉の後ろの糞は助五郎(助三)で、女の腕を捕らえて引っ立てている。

「ちょ、長吉親分!」

 駒吉が叫んだ。駒吉に名前を叫ばれたことに長吉は不機嫌に唸った。駒吉という男は女を食い物にするのがせいぜいのちんぴらで、こうした大きなコトに関わるのは不慣れなようだ。『名前を呼ぶんじゃねえ!』―――という基本的な所作も身についていないらしい。

 助五郎(助三)はそんな駒吉の様子にニンマリとほくそ笑む。駒吉がどんどんと墓穴を掘ってくれているおかげで、〈おちよ誘拐〉の主犯を別の人間になすりつけるのは難しいだろう。これでおちよを匿っている深山一家も贋物屋も一切何の関わりはないということになる。

「お! おちよ! 親分、なんでおちよをここに!」

 助五郎(助三)の影になっていたおちよにここで初めて気が付いた駒吉はまたもや盛大に口を滑らせる。もはや天麩羅屋台のかぎ棒くらいにはツルツルだ(そのツルツルが口なのか脳なのかは不明である)。せっかく頬っかむりで顔を隠した意味とは?と小一時間くらい問い詰めたくなる。

「駒吉っつぁん!」

 おちよに大声で叫ばれ駒吉は慌てて頬っかむりを深くかぶりなおしたが、もう遅い。(←バカ)

「駒吉?」

 伊勢屋も慌てて男の顔を覗き込んでいる。娘がろくでもないチンピラと付き合っているのは知っていたし、人を使って調べさせてもいたので、すぐにわかった。

「じゃあ、最初っから!」

「ちっ違う! 違うんだ―――おちよ!」

 正体のバレた駒吉は頬っかむりを乱暴にむしり取った。

「駒吉っつぁん、あんた、あんた……まさか…最初からそのつもりだったの…?」

 おちよは呆然と駒吉の顔を見ていた。伊勢屋は駒吉とのやり取りで雪之丞にアドバイスした通りにわざと大声を出していたので、十分に潜んでいる長吉たちやおちよにも話が聞こえてきていたのである。もちろん、雪之丞と助三の計略である。

「はなっからそのつもりだったのね。面白かった? 世間知らずの娘を騙して―――あんたってサイッテーよ!」

 後ろ手に拘束されながらもおちよはあらん限りの声で駒吉を罵倒した。裏切られた。その思いだけが真黒く心を塗りつぶしていく。

その一方で駒吉はへにゃりと情けない顔。以前のおちよであればこんな駒吉にも母性本能をくすぐられていたかもしれない。

「………お…おちよ―――」

 駒吉が声をかけたが、おちよは絶対零度の冷たい目でそれに応える。

「ちが…おちよ、違うんだ! 俺が、この俺が心底惚れたのは後にも先にもおまえ一人だけなんだ!」

 駒吉が叫ぶように訴えたが、さすがにそれを信じられるような状況ではない。相変わらずの一切熱のこもらないおちよの視線に、駒吉はショックを受けた。いや、ショックを受けた自分に愕然とした。

「おちよ……信じてくれ……」

 力なく呟いた言葉もただ地面に落ちて、それを拾おうと思う者は誰もいなかった。

駒吉がおちよと初めて出会ったのは、おちよが町のチンピラに絡まれている時だった。大店のお嬢さんが好奇心に目をキラキラさせて下町を覗きまわっていればそりゃ絡まれるというもので、お付きの女中ともども人目の届かぬ路地の奥へと連れ込まれそうになっていた。

 駒吉がそれに声をかけたのは気まぐれだった。別に女の一人や二人、どこで行方知れずになったとて駒吉の知ったことではない。よくある話だ。世間知らずのお嬢さんに振り回された女中が気の毒なと思うくらいがせいぜいだった。だから、駒吉がそのトラブルに割って入ったのは偶然に過ぎない。たまたまチンピラの一人と同じ女を巡っていざこざがあっただけ。嫌がらせのつもりだった。岡っ引きの名を出したらあっという間に散っていった。

 その後、おちよにまとわりつかれて手を出して付き合い始めたことにも、特に深い考えなんかなかった。おちよは金を持っているうえに世話焼きで、あれやこれやと世話も焼いてくれたし、金も寄越したので至極都合がよかったのは確かだ。ただ、自分から口説いた女ではなかった所為か駒吉のおちよに対する扱いは少々ぞんざいではあった。

 だが、おちよはぞんざいに扱われているにもかかわらず、いやそれにさえ気づかず痒いところに手が届くように気遣いのできる女だったから。駒吉の財布を覗いてそっと金を足しておいてくれるようなそんなところがある女だったから―――特に苦労してモノにした女でもなかったし、金を持っているといったところでせいぜいが小遣い程度のこと、そんな程度なら駒吉の周りにはいくらでもいるし、いつでも切り捨てられる女―――ただ、ひどく居心地はよかった。

 それが今はどうだ。

 おちよが、部屋の隅に潜む黒光りするアイツ(ゴッキー)を見るような目で駒吉を見てくる。少し前まで、まるで英雄を見るような尊敬の眼差しを駒吉に送っていたおちよが。

『あの時は助けてくれてありがとう』

『あなたってすごく強いのね』

『とても勇気があって、すごくカッコいいわ』

 そのおちよの目が―――

「ごめ、おちよ、ごめん。俺、謝るから、だから…おち、」

 駒吉は情けない顔で何度も何度もおちよに許しを乞う。が、いまさらなのだ。いまさらロミオ化されたところでおちよの瞳に失われた熱が戻ってくることはない。

 どんなに願ってもおちよの心が戻らないと知ると駒吉はすっかり大人しくなった。おちよから駒吉を純粋に崇拝する心が一片も残さず失われたことが、大きな喪失感をもたらしたのだ。彼は決しておちよに惚れていたわけではない、先ほどの『本気で惚れた~~』うんぬんはまったくのでまかせだ。女を宥めるための駒吉お得意の手練手管だ。ただ、おちよだけが―――

ただ、この世界中で自分の生みの母を除いたらおちよだけが、何てこの人は素敵なんだろう、何てこの人は強いのかしら、何てこの人は優しいのだろう、何てこの人はかっこいいのかしら、おちよだけがそんな目で駒吉を見てくれていた。そして、もう二度とおちよが駒吉をそんな風に見ることはない。その喪失感に駒吉は呆然とした。もちろんそれは自業自得ではあったが。

「いい加減にしやがれ!」

 ここで、とんだ愁嘆場を見せられた戸塚の長吉がキレた。

「うるせえっ! んなこたぁーどーでもいいだろうがよ!―――さぁ、娘は連れてきたぜ! この通りだいぶんイキもいいさね。わかったんならさっさとその金を渡してもらおうか!」

 駒吉を突き飛ばして長吉は自分が伊勢屋に向き直った。駒吉に自分の名前を連呼され開き直ったようだ。

「む、娘が先です! どうか娘をっ、娘を返してください!」

「馬鹿言ってんじゃねえ! 金が先だぁっ! 可愛い娘の顔に二度と消えねえ傷をつくられたくなけりゃあ、金をこっちに放って寄こしやがれ」

 さすがに長吉は駒吉のように相手にごねる隙も与えない。おちよを引き寄せ、その顔に刃物を押し当てようと―――引き寄せ―――引き―――スカッスカッ

 長吉の手が空を切る。

「あん?」

 おかしいと思った長吉が後ろを振り返ると、後ろ手に縄で拘束されていたはずの娘がいつの間にかいましめを解き、タタタッと両親のもとへと駆け出していくところであった。

「あっ!? てめえっ、なにやってやがる!」

 長吉が怒声を飛ばした。相手はもちろんおちよを捕まえていた助五郎である。助五郎、いやさ助三はわざとらしくパンパンとほこりを払うように手を打ってからニヤリと笑い、悠然とおのれの立ち位置を物理的に変えた。すなわち伊勢屋や近江屋、おちよ達の方へスタスタと歩いて行って彼らを背にかばうようにその前に立ちふさがったのである。

 長吉はパカリと口を開け呆けたようにそれを見守っていたが、ようやく脳みそに案件が届いたのか、途端に顔を真っ赤に染め上げ憤怒の表情に変えた。

「助五郎! てめえ、裏切りやがったな!」

 長吉の怒声に助三はひょいと肩をすくめた。長吉ごときにいくら罵倒されようとも蚊に刺されたほどにも感じない。

「馬鹿なことを言うねえ。裏切ったんじゃねえよっ、『オモテ切った』のさぁ♪」

 実に楽しそうだった。長吉はどす黒いほどに顔を赤らめた。最初から仕組まれて、騙されていたのだとようやく気が付いたのである。

「ち、チックショウ!―――おい、てめえら!」

 長吉の怒号に隠れていた子分たちがわらわらと姿を現した。助五郎を戦力に数えていたため連れていた子分の人数はその分しぼれている、とはいえ十人ほどの―――しかも、ほとんどが穴掘りやその他の片付けのための要員だったので、それぞれが遺体の一つや二つ肩に担げるくらいの筋肉自慢の男たちであった。

「へっ、たった一人で何が出来るってんだ! てめえら、やっちまえッ」

 長吉の言葉を合図にマッチョな男たちが助三とその後ろの伊勢屋や近江屋を取り囲んだ。

「一人! へえ~、一人だとよォ」

 助三はまるで動じることもなく、ニタリとそう言った。

と、それまでぶるぶると震えてうつむいていた(そう見えた)伊勢屋のおかみが、

「フッ」

 と息をこぼすように笑った。

「…? お…っかさん?」

 おちよの声。暗闇の草っ原。照らすのは遠くの吉原の明かりと各人が手にした提灯の火のみ。足元さえおぼつかない暗がりなのだ。それまで娘が気付いていなかったのも仕方がない。

しかし、声が。

母、だと思っていたその人の漏らしたその声が……

 バッ!

 とおちよは掴んでいた母の腕を突き離した。

「ふふ。クククッ」

 伊勢屋のおかみ、いや正体不明のその人物は可愛らしい笑声を上げたが、それは決して女人の声ではなく―――

「やだなぁ、助さん。もうちょっと騙されててほしかったんですけど?」

 小首を傾げるその様子に助三は苦笑い。まさかに伊勢屋のおかみに扮してくるとは思わなかったが、そこは毎日同じ舞台に立つ役者同士、一目でわかった。

「仕方ありません。では、正々堂々お相手することといたしましょう」

 肩をすくめた後で自身の着物に手をかけ、一気にそれをはぎ取った。

 バサァーッと風になびく着物。芝居の早着替えと同じ要領である。なびく着物が目くらましとなった一瞬後にそこに現れたのは、

「ゆ、雪さん!」

「危のうございます故、さ、お下がりになって」

 剣士姿の雪之丞であった。


※筆者注:一動作で上に着てた服がどうやって全部脱げたのかとか、どうやって帯まで変わったのかとか、なにより髪型が女髷から総髪を一つにくくったポニーテールに変わったのはどうやったのか―――というツッコミは一切受け付けておりませんので、あしからず。


「ええい!! 一人増えたからってどうだってんだ、おんなしじゃねえか」

 確かに一人が二人になったところで大して変わらないようではあるが、その一人が各々一騎当千の強武者であれば、どうなるか。

「ぐわっ!」

 なんの考えもなく闇雲に突っ込んできた〈血しぶき源治〉が悲鳴を上げて転げまわった。雪之丞の振るった刀に腕を斬られたのだ。その名の通りに血をしぶいて叫び声をあげた。腱を断たれたらしく腕を押さえて『ウギャー!ウギャー!』と騒がしい。

「ずいぶんと性急な方だ」

 一方の雪之丞はあっという間にあらくれ者の一人を再起不能にしたというのに涼し気な顔のまま。刀についた血をピッと払って再び鞘に納める余裕。

「はわわ」

 後ろ手にかばわれたおちよがポッと何故か頬を赤らめる。

 そんな様子を横目で見やった助三も、

「おいおい。俺にも残しといてくれ」

 と、こちらも余裕の笑み。ハハハッという笑い声も実に涼やかだ。ただし爽やかな笑顔とは裏腹にズラリと引き抜いたのはいつもの打ち刀ではなくいわゆる長ドス(鍔のない脇差)という奴。今の彼の姿に相応しい得物だ。それを頭の上でビュンビュンとぶん回し、

「おーらおらおらおらぁっ! てめえら! まとめて相手にしてやんぞぉ!」

 マッチョ軍団に突っ込んでいった。

「おやおや。余程に鬱憤がたまっていたと見える」

 雪之丞が呆れたように笑う。そもそも助三は江戸っ子―――江戸藩邸に努めていたというだけではなく、江戸生まれの江戸育ちで浪人だった父が剣術指南役として江戸で仕官した。つまりは頭の先からつま先までしゃれ者であか抜けている。あか抜けているというのは『都会的』の意味ではあるが、本来は江戸っ子の風呂好きを揶揄した自虐ネタ。日に三度も四度も風呂に入るので、『肌がカサカサ=垢が落ちている』という意味。

 その助三が潜入捜査のためにもう十日も風呂に入っていない。垢と一緒に鬱憤も相当にため込んだようである。助三が、心なしか臭うような気もするとばかりに戦いながらおのれの着物の襟もとを持ち上げてクンッとニオイを嗅いだのは無意識だろう。

 そんなことをのんきに考察している雪之丞だが、助三の相手は筋肉男(マッチョ)ばかりが十人ほど。

右からくるマッチョを左に受け流し、正面からのマッチョの腕を取り遠心力で振り回し、後ろからのマッチョは肘打ちで鳩尾に一発、と八面六臂の活躍を見せているがどうしても一人や二人は漏れてくる。

 こぼれたマッチョはおちよや伊勢屋たちを人質にしようと暗がりに乗じて近づいてくるのだが、それを雪之丞が許すものではない。助三よりも相手取る人数は少ないとはいえバッサバッサと捌いて、そうしながらの余裕の考察だ。

「―――すごっ」

 おちよが思わず呟いたように雪之丞は息一つ乱れていない。唯一乱れた顔の横のほつれ毛をつい、と撫でつける。それを隙と見て取ったのか、懲りもせずにおちよの後ろから回り込むマッチョ。

「あぶない!」

 声を上げたのは近江屋だった。荒くれた海の男たちを束ねる廻船問屋という性質上、普通の商売人よりも荒事には慣れていると思って身代金受け渡しの場についてきた彼だったが、見ると聞くとでは大違い。声を上げるのだけで精いっぱいだ。おちよの父親、伊勢屋の方はこちらも同じ廻船問屋ではあるけれども荒事には慣れていないのか青い顔で声も出ない様子。娘の危急とはいえ、とっさに身体が動くわけではない。

 その切羽詰まった呼びかけにも雪之丞は一向に慌てた様子もなく、

「お、っと」

 小声で言って、サッとおちよの腕を取り自分の胸へと抱き込んだ。その背中側の死角から長ドスを振りかぶってきていたマッチョがたたらを踏む。

「アッ…」

 雪之丞の意外に広い胸板に両手を当ておちよが息を詰めた。

「おイタは感心しません」

 言って雪之丞はたたらを踏んだマッチョに足をかけ突き転がし、両足の腱をスパリと斬った。

 耳をつんざく悲鳴があたりの闇を揺らす。

助三と同じくこちらも相手を戦闘不能にするための剣を的確にふるっていく。戦闘不能にするためには足を攻撃するのが一番手っ取り早い。それだけ戦い慣れているのだということが窺い知れる。

腱を断つ、ふくらはぎに刃を突き立てる、膝の骨を砕く―――雪之丞の周りには三人の男たちが転がっていた。

「てっめえ!! ぶっころしてやる!」

 怒声に振り返れば、戸塚の長吉が一人(他の子分たちはもうすべて倒れていた)助三に刃物を突き出しているところであった。

 戸塚の長吉と言えば江戸ではそれなりに名が通っていて、ご面相の関係上から女には不人気ではあるが子分どもにはそれなりに慕われている。任侠道においてはこれが一番大事なことで、その点でも長吉は押しに押されぬ大親分と言って差支えがない。

その長吉がこれほどまでに追い詰められたのは若い、駆け出しの頃以来だった。怒りと憤りと困惑とそしてわずかな恐怖でどす黒く染まったその顔はとてもじゃないが子分どもに見せられた顔ではない。もっともその子分どもも全員が喚いて呻いてあるいは気を失っていて、親分の顔まで見るどころの騒ぎではないのだが。

 唯一見ることが出来たとしたら、この案件の張本人ともいうべき駒吉一人であったのは長吉にとって最大の屈辱であったろう。もっともその駒吉は突っ伏したまま地面に額をこすりつけブルブル震えるばかりで周囲の状況を窺う余裕はないようだった。

「けぁァァァァァッッーーッ!!」

 正しく奇声というべき声を発し、口角から飛び散った涎が後ろ側へと流れる。見てくれを構っている場合ではない。

(このままでは()られる!)

 助三と雪之丞の鬼神の働きを目の前にした長吉の、切った張ったの世界でこの歳まで生き抜いてきた彼の直感的な思いであった。

 飛び掛かってきた長吉を面白そうに眺めやった助三はヒョイと律儀にもそれを避けてやった。子分どもを一人残らず叩き伏せ、一人残った長吉は逃げ出すか恐れ入ったとひれ伏すかどちらか、まさか飛び掛かってくるとは思っていなかった。子分どもを見捨てて真っ先に逃げていくと思っていたのだ。

「ほぉー、中々に覚悟が決まっていますね」

 とは雪之丞。すでに刀は鞘に納めていて、顎に手を当て感心したようにフムフムと頷いている。助三が長吉ごときに後れを取るとは毛筋ほどにも思っていないし、またそれは動かしようのない事実でもあった。

「グゲキャッ!!」

 表現しようのない声とともにまるで体当たりするように長ドスを突きこむ長吉を、助三はさも面倒くさげにあしらうと、

ズドン!

 と片足を長吉の背中に乗せ、それだけで拘束して見せた。余裕綽々、泰然自若―――まあ、とにかく青い顔して怯えていたおちよと伊勢屋の親子、それと近江屋はポカンと半開きの口で助三と雪之丞を眺めるしか他にやることがなかった。




( ゜∀゜)人(゜∀゜ )オヒサー

亀更新、どころかミジンコ更新です。

ミジンコはぎりぎり肉眼で見えます。見えます、見えますよね? ね?

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