変わってしまった社会
「あの時のツッ君は本当に落ち込んでたからね。この事務所で働くようになって、明るくなってよかったよ。私の生活の面倒も見てくれるし、至れり尽くせりだね。ズズズー」
「『所長の生活の面倒を見る』なんて業務内容、最初はなかったんですけどね……」
俺が軽く昔のことを思い出していると、姉村所長もその考えごとに気付いたのか、出来上がったカップ麺をすすりながら話しかけてくる。
所長の言う通り、五年前に比べると俺は吹っ切れることができたのだが、この事務所での業務内容については思うことがある。
姉村所長はとにかくずぼらだ。私生活において、まともにできることの方が少ない。
この事務所は所長の自宅でもあるのだが、とにかく散らかり放題だ。
俺も仕方なしに片づけをするのだが、まったくと言っていいほど追いつかない。
この五年間で俺の家事スキルは上がったが、事務所は毎日汚いままだ。
ただ、そうした面倒な日常が俺の苦しみを紛らわせてくれたのも事実だ。
こうして姉村所長に拾われていなかったら、俺は今頃どこかで野垂れ死んでいただろう。
直接は言いづらいが、これでも感謝している。
「ところで所長。今日の仕事は何がありますか?」
「えーっと。異界能力者が起こした恐喝への対処と、同じく異界能力者が盗んだ物品の取り立てと――」
「どんだけ異界能力者は面倒を起こしてるんですか? 五年前の俺のことといい、いくらなんでも横暴が過ぎるでしょ?」
「流石に国が特別扱いしすぎてる気はするけど、それが私達の仕事だからね」
そんなこの姉村便利事務所の本来の業務なのだが、異界能力者が起こした騒動の収拾がメインだ。
五年前に俺が姉村所長に拾われた時からもそうだが、異界能力者には国から特別な権限が与えられているような状態だ。
突如現れた女神によって与えられた、魔法とも言える不思議な能力。
それを授けられなかった俺自身の妬みもあるが、努力も何もなしに突如そんな力を与えられても、俺は納得しなかっただろう。
今の異界能力者の現状を見れば尚更だ。
「異界能力者もその力でもてはやされたのはいいけど、どうにも天狗になっちゃってるよね」
「俺は今でもあの異世界からやって来た女神ってのには、半信半疑ですよ。突然現れて変な能力を授けて、何か悪だくみでもしてんじゃないですか?」
「まあ、当の女神本人があれ以降、一切姿を見せないからね。真相は分からないよね」
いまだにあの女神が五年前に突如として現れ、異界能力者なんて存在を作ったのかは分からない。
俺からしてみればただ迷惑なだけだし、何より家族を失う元凶になった存在だ。
女神というよりも、疫病神に見えてしまう。
「とりあえず、俺も仕事に向かいますよ。俺のような人間をこれ以上増やさないのが、姉村便利事務所の仕事ですからね」
「うんうん。不良だったツッ君も、この事務所に来てから真面目になったものだよ」
「真面目になった云々はいいのですが、その『ツッ君』って呼び方は気になりますね」
「いいじゃん。『次彦』だから『ツッ君』だよ」
昔の嫌なことまで思い出してしまったが、今の俺にはやるべき仕事がある。
異界能力者による被害をこれ以上増やさないことこそ、こうして立ち直ることができた俺が姉村所長にできる最大の恩返しだ。
姉村所長もそのためにこの事務所を立ち上げたのだから、唯一の部下である俺が頑張らないといけない。
――『ツッ君』という呼び名は、できることならやめてほしいが。
トゥルルルル
「ん? 電話ですか?」
俺が内心で決意や愚痴を述べていると、事務所の電話に着信が入った。
俺は飲んでいた缶コーヒーを捨てて仕事用の革ジャンを羽織っているところだったが、姉村所長が笑顔で俺に対し『電話に出てほしいな』と訴えかけてくる。
この人の行動もこの五年間でだいぶ読めるようになってきた。
『残念な美人』を地で行くこの人は、とにかく俺がいれば頼ってくる。
もう俺も仕方ないと割り切り、電話の受話器を取った。
「もしもし。こちら、姉村便利事務所です」
『おお、黒間か。俺だ。風崎だ』
「風崎刑事?」
そうしてとった電話の相手は、ウチの事務所とも関係を持っている、この地域の警察署の風崎刑事だった。
電話の相手が風崎刑事だと分かると、姉村所長もカップ麺をすするのをやめ、電話の内容に聞き耳を立ててくる。
「ウチに電話を入れたってことは、例の連続殺人の件ですか?」
『ああ、そうだ。また被害者が出たんだ。悪いんだが、早速現場に来てくれないか?』
「分かりました。場所をお願いします」
俺も電話の要件を即座に理解し、風崎刑事から目的の場所を聞き出す。
電話が終わるころには姉村所長も自身のデスクのパソコンに向かい、色々と準備を始めている。
「電話の内容は理解したよ。他の案件は後回しで、ツッ君は風崎刑事のところに向かって」
「後回しにする案件の調整は大丈夫ですか?」
「それぐらい、私で何とかするよ。対処できる限りは対処するし、遅れるようなら先方に連絡する。この連続殺人事件は最重要案件だからね」
姉村所長はさっきまでのだらけた雰囲気がなくなり、しっかりとした顔つきですでに俺が本来こなすはずだった仕事の段取りをつけている。
あの姉村所長がここまで真剣モードに切り替わるほど、風崎刑事からの電話の内容は重要なものだ。
「それじゃあ、俺は行ってきます」
「あっ、ちょっとだけ待って」
「え? 何か――」
俺は身だしなみを整えなおし、事務所の扉に手をかけようとしたのだが――
ヒュンッ!
パシンッ!
――いきなり姉村所長の拳が、俺の頬へと飛んできた。
俺はそれに即座に反応し、軽く手のひらで受け止める。
「……うむ。しっかりと私の教えた護身術は身についてるようだね」
「いきなり人に裏拳ですか……。安心してください。所長に教えてもらった拳法は、しっかり体に刻み込まれています」
どうにも所長は俺がこれから向かう現場の危険性からか、軽く力試しをしてきたようだ。
異界能力者が関わる事件を追っていると、俺にも否応なく危険は付きまとってくる。
そんなわけで俺は所長から、所長自身が知る限りの拳法の指導を受けている。
姉村所長の拳法の腕前は確かで、俺もそれなりの腕前には上達できた。
「ツッ君に教えたその拳法は、ツッ君自身が一から磨き上げた力だからね。授けられた未知の力じゃなく、誇っていいものだよ」
「それはどうも。前から気になってたのですが、所長はこんな拳法をどこで覚えたのですか?」
「女の子は少しぐらい謎を身に纏ってた方が、魅力的なんだよ」
「女の子って歳でもないでしょうに……。それに魅力を纏いたいなら、まずはそのだらしないワイシャツを整えてください」
姉村所長の言葉は俺が異界能力者に対して抱く不満を和らげてくれるのだが、どうにも余計な言葉も多い。
後ろで所長は俺に文句を言っていたようだが、そんなことは気にせずに俺は事務所を出て、目的の事件現場へと足を進めた。