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晩春愁

作者: 梅田絡迷


   時に、初春の令月にして、

   気淑く風和ぐ。梅は鏡前の

   粉を披く、蘭は珮後の香を

   薫らす。

      ──万葉集、第五巻。



 どうやら、恋は罪悪らしゅうございます。あなたは罪人なのでしょうか。

 私は、今まで一度も、恋をしたことがありませんでした。


 泣く女の人、呆れた顔をした見知らぬ男の人、気が付くと目の前には、二人の人が佇んでいました。自分の左手を見ると、空の薬瓶を握っていて、右手は脱力していました。

 ああ、やってしまった。

 私はそう思いました。酷く眠く、また記憶がぼんやりとしていて、何をしたのか、はっきりとは分かりませんが、口には仄かな苦味がありました。きっと、薬を大量に飲み、そうして眠っていたのでしょう。空を仰ぐと、ウイスキーが零れていました。とても燃えていました。

「ずっと寝ていたけれど、大丈夫?」

 と女の人が言いました。私は、焦り、右手の震えを殴り殺して、微笑を浮かべ、

「ああ、よく寝た。睡眠は実にいい薬だな」

 私はただただ走りました。逃げた? もうどうだって良いのです。

 気が付けば、自室に居ました。東風吹かば匂ひおこせよ梅の花、あるじなしとて春な忘れそ。和歌の書かれた原稿が、文机に置かれていました。この美しい歌を、自分が原稿に書くなんて、それこそ許されることのない罪悪です。原稿を手に取り、八つ裂きにし、床に散らして踏みつけていると、ふと思い出しました。私は、失恋をしたのです。そうして、薬を飲んだのでした。

 私は赤面をして、倒れ込みました。自分のした行いが、それを人に見られてしまったことが、とても恥ずかしく、また情けなく、仰向けになって天井を眺めると、自分のしてきた事が、映像となって映し出されている、そんな幻覚さえ見えてきて、ぽろぽろと涙が零れてきました。

 明かりの灯っていない部屋は、空の酒瓶が六瓶立っていて、紐で縛ったにもかかわらず未だ捨てていない古本が置かれていて、窓は完全に閉められていて、床は昔葬式の際に一度だけ触ったことのある骸のように冷たく、天井には取るに足らない喜劇が上映されており、ゆっくりと立ち上がって少しだけ窓掛けを窓の端に寄せてみると、空は北野天神縁起絵巻の無間地獄のように燃え上がっていて、一面に咲き誇るダリアを彷彿とさせました。

「今回のゲストは、こちらの方です」という女性の声が、突如部屋中に響き、驚いた私はすぐさまラジオを止めましたが、よく考えてみると、どうやら今止めたラジオ番組は、毎回欠かさず聞いていた番組のようでした。

 再び静寂の訪れた自室で、もう一度空を見上げてみると、虚しさによって心は喰われ、淋しさによって目の縁は濡れてしまいました。


 地獄。目の前に広がっていたのは、たしかに地獄でした。


 死のう、もういっそ死んでしまいたい、いや、死ななければならない。そう思っただけで、永眠なんてものが出来る訳もなく、今日も夜が来て、そうして床に就くのです。

「もう、訳が分かんねえんだ。どうか、どうか許して呉れ!」

 明くる日、全てを忘れるために酒を呑もうと思っても、六瓶の酒瓶はすでに空っぽでして、何もすることが無く、「ただ一切は、過ぎてゆきます」とでも言って、笑おう、莫迦みたいに笑っていよう、と思っていると、

「あの人って、どっちの部屋だったかしら。たしか、このアパートだったとは思うけど」

 女の人の声が聞こえました。

「へっ、何が大丈夫ですか、だ。全く、何でこうも鈍いのかね。──そうか、あれが幸福、か」


  無駄な御祈りなんか止せったら

  涙を誘うものなんか かなぐりすてろ

  まア一杯いこう 好いことばかり思出して

  よけいな心づかいなんか忘れっちまいな


 痛みも苦悩も要りません。いつしか春が、暮れました。

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