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死体のあるカフェ

 かすれたピンク色の建物である。

 茶色い60cmほどの看板には『ブラジル』の文字が白いインクで大きく描かれており、下にはtel○○○-○○-○○○○と書いてある。


 中に入ると、外国のものから伊万里焼や有田焼の味のあるコーヒーマグが20個ほど置いてある。これは、常連客が店に預けてあるマグカップなのだが、不思議と全て別々の個性があるのに調和があるように見える。


 そして、1人のダンディな好々爺が使い古されたサイフォンを使い、コーヒーを淹れている。この店は基本ホットで注文するので、アイスコーヒーはあまり美味しくないのだ。今のところ、客は一人である。


 カウンター席の上の天井は長年のタバコの煙で黒くなっており、音割れ気味の古くて大きなオーディオが井上陽水の音楽を流している。


 トイレは水洗の和式便所で便器周辺の白いタイルは薄茶色に変色してしまっている。銀メッキのトイレットペーパー入れだけがやたらと光っていた。


 このトイレに関しては他に特質すべき点がある。ここは霊道が通っており、たまに死体が居ることである。とは言っても、霊道が通ったのは5年ほど前で、近くの神社が住職が居なくなったため朽ちて、その神社の墓が誰からも手入れされなくなってからであった。そして、今まさに若い女の死体が金隠しに頭を突っ込んで居る。赤いカシミアのセーターは(うなじ)を露出させたデザインのもので、下に履いているのはベロア生地の黒い光沢のあるロングスカートだった。


 それを最初に見つけたのは客の方、英爺(えいじい)と呼ばれる常連だった。彼は特に気にかけることも無く、その露出した脰目掛けて小便をぶっかけた。すると、その小便は女の死体を貫通し奥の水にジョボジョボと音を立て始める。


「うぃ〜、なぁ、マスターまた死体があったぜ」


 彼は昔ながらのキザな言葉遣いでマスターに話しかける。


「ふふっ、英爺だけですよ。死体に小便を掛けられるのは、バチが当たってもしりませんよ」


 それに合わせて店主も笑う。


「いや、もうこの店の客のほとんどは小便を掛けるのに抵抗はねぇよ。まぁ、それだけオレらの膀胱が小さくなったってことだけどな」


 自身の老いを嘆くように英爺は話を続ける。


「昔、オレも赤ヘル被って学生運動に参加してたんだけどよ、その時のオレに言わせれば、これは資本主義の成れの果てさ。マスター、小林多喜二の『蟹工船』って読んだことがあるかい?」


「あぁ、ありますよ。最近でも派遣労働者の間でブームがきたらしいですね。」


「おうおう、それだそれ。それにな、作業サボった蟹工船の船員が罰としてトイレに閉じ込められて死ぬってのがあったんだ。小便器に頭突っ込んで……な」


「嫌な話ですね……で、その船員とあの女性が重なると?」


「あぁ、その通りさ。この世はもうどこに行っても義務が付きまとう。オレもシルバー労働センターに籍を入れて働いて、休日は公園の花壇の手入れのボランティアさ。労働はもしもの治療費を稼ぐため、ボランティアは人との繋がりを守るためさね」


「幾つになっても心労は尽きませんね」

 マスターの同調は口数は少ないが穏やかで、話を妨げることはしない。


「昔は核家族なんてものはなかったから、老後はボーッとしてても家族と喋れたんだけどよ、都会への出稼ぎが当たり前になった世の中じゃそんな甘いことは言ってられねぇや」


「その通りですね」


「ま、だからと言って、昔みたいな赤化運動に参加するつもりはねぇんだけどよ……あぁ、そうそうあの女の話だったな。あの女に何があったかは知らね。ただ、大事なのはオレがそんな変なものを見ちまっても、膀胱から便器に小便を淹れようとすることなんだ」


「英爺さん、流石にそれと資本主義は一緒にできないんじゃ?」


「いんや、一緒だね。つまりは、短気的効用が長期的効用と剥離しちまうってことなのよ。資本主義ってのは、短期の目標を前提にこれまでは行われたからな。後のことなんて知る由もないのさ、だからオレもバチは怖くない。オレは蟹工船に乗る1人の工員に過ぎないんだ」


「なるほど、確かにそう考えればそう言えるかも知れませんな」


「いや、現にそうのはずだ。今の若者は労働時間が増えて、女性の社会進出も相まって晩婚化が進む、しかし労働時間っていうのは減らない。そして、企業は人口減少により人手不足に困る、長期の次世代なんて考えてたら他の企業に先を越されちまうからな。そもそも……」


 ここからは、英爺が永遠と自論を展開させていった。彼が学生運動をしていた頃に夢見た社会主義、福祉国家の是非、国家転覆、これからの日本……。コーヒーを2杯もおかわりしたところでふとその話が止まった。


 彼のスマートフォンが軽快な着信音を鳴らす。


「おっと、急用だ。いやぁ参ったな……まさか、シフトに入ってた婆さんが腰をいわしちまうなんて。どうやら、オレが代わりに行く必要があるみたいだ……ん、じゃ。おおきに」


「ありがとうございました」


 彼は400円を置いてさっさと店を出ようとした。


「いけね、こりゃ雨だ……」


 英爺は店を出る前に憂鬱なため息をすると、店を出て原付の蓋の中にしまっているボロい雨具を着た。

 どうやら、電話が掛かってきた頃には女のことなんてすっかり忘れているみたいだった。今の彼は元赤ヘル隊でも、街のことをよく知るお喋りなおじいちゃんでも何でもない。ただのシルバー人材である。


 店主はふと、隣人愛という言葉を思い出したが、いやいや自分はクリスチャンじゃないし柄にも合わないと冷笑して、英爺が預けている瀬戸焼のマグカップを洗い出した。

 2人が横で話していた間にトイレの女も透明になって風化していった。


 オーディオからは井上陽水の『傘がない』が流れていた。

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