雑学百夜 「灯台下暗し」の灯台は海辺に立つ灯台のことではない
身近な事情の事は却って分かりにくいことのたとえに「灯台下暗し」という言葉があるが、この『灯台』は元々『燈台』と書いていた。
『燈台』とは江戸時代使われていた油の入った皿に芯を浸し、火を灯す照明器具のことである。
さっきの客が言うには今宵の月は特別に綺麗だったのだという。
窓の障子をほんの少しだけ開けて夜空を見上げようかと思っていると、襖を開け禿が燈台に油を継ぎ足しに来た。
「どれだけ働かせるんだい」
私がぼやくと禿は肩をビクッと震わせ「……ごめんなさい」と申し訳なさそうに頭を下げた。
私は溜息を一つ吐いた。
「……化粧直しの暇だけ掛かるって言っときな」
私が言うと禿は「分かりました」と部屋を出ていった。
私は恨めし気に燈台を見つめる。灯はゆらゆらとまるで私の事など知らぬ素振りで燃え続けていた。
私はここ吉原にある遊郭「花屋」の太夫を務めている。
さっきの油は客が来た合図だ。
この店に来た客は先ず油を買う。その買った油を好みの遊女の燈台に注ぐ。その燈台の灯が燃え続けている限り女は客に尽くさなければならない。
さっきの禿は随分と油を注いでいった。きっと次の客はさぞかしの上客になるだろう。
私は髪を結い、丁寧に白粉を振っていった。
私は時々思う。
いつまでこんな事をしていなければならないのだろうか、と。
嘘と溜息と時々男の精を吐く日々。
煤けた時間だけが過ぎてゆく。それは、いつか来る遊女として売り物にならなく日が刻一刻と近づいて来ている事を意味している。
こんな事をしていていいのだろうか。
分からなくなる。
「いいかい? どうしようもなく訳の分からない苦しみに襲われる時がわっちたちには必ずある。それをどう乗り切るかが遊女の腕の見せ所だよ」
先代の石楠花太夫様はそう言っていた。その後すぐに梅毒にやられ死んでいったが。
あぁ、私はどうしてこんな事をしているのだろう?
「|芙蓉様、また仕事でございますか?」
襖を開け、年下の遊女『撫子』が顔を覗かせた。
「あぁ、戦が近いのかね。男たちが我先にとやって来るよ」
私が軽口を叩き笑って見せたが、撫子の顔はどうにも浮かないままだった。
「どうした?」
「芙蓉様、少しだけお邪魔しても構いませんか?」
「なんだい? 客が待ってるからね。話なら後でも構わないだろう?」
私の言葉を無視し、撫子は部屋に入って来たかと思うとそのまま燈台の元まで行きおもむろに油皿を両手で抱え持ち口元まで運ぼうとした。
「何してんだい!」
私は咄嗟に撫子の腕をつかみ、油を零さぬようにそっと皿を元に戻した。
「撫子! あんた死ぬつもりかい!」
私が怒鳴ると撫子はワッと泣き出し言った。
「こっ、これ以上芙蓉様にご無理をさせたくなくて……この油さえ飲み干してしまえば芙蓉様も自由になるかと……」
撫子は袖で目元を拭いながら何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と言ってきた。
元に戻した燈台の灯は何事もなかったのかのようにただ燃え続けていた。
優しい子なのだ。頭は悪いが、誰からも愛される才覚が撫子にはあった。
禿時代から大切に育ててきた。荒んだ夜の世界の中で不安になるほど撫子は良い子に育ってくれた。
「全く……いいかい? そんなこともしてもおばばが代わりの油を注ぐだけに決まってるだろ?」
「……あぁ、そうかぁ」
撫子は涙跡残したまま、悪戯が見つかった子どものような無邪気な笑顔を浮かべた。
その笑顔は私の胸の内の火を灯すには十分すぎるほどだった。
私は燈台の灯を指先で消し潰し「誰にも秘密よ?」と耳元で囁くと同時に撫子と唇を重ねた。これまで抱かれたどの男の唇よりも薄く柔らかかった。
暗闇の向こうで撫子がポーっと顔を上気させているのが分かる。
私は撫子の背中を撫で「さぁ、お行き」と息だけの声で伝えた。
禿には風で消えたと嘘を吐き、燈台に新しく火を灯し直した。
化粧を終えたので客を上げるように伝えた、すると直ぐにギシギシと階段の軋む音が響き始めた。
私は正座で客の男を待ちながら考えていた。
私が仕事を続ける理由は、この店を守るために他ならない。
太夫の私が気まぐれに逃げてしまえばおばばも禿も、そして何より撫子が路頭に迷ってしまう。
もうこれ以上撫子の哀しい顔を視たくない。
あんなに苦しんできた問いの答えはこんなにも身近にあった。
撫子の為なら、私はこれから何度だってこの燈台に火を灯そう。例えその灯が地獄への辻行灯になったって私はもう構わない。
襖がゆっくりと開いた。
「今宵はわっちのようなものをお名指しで嬉しゅうございます」
私は畳に額を擦りつけた。
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