第6話 相棒 1 男と少女と女とコンドーム
遮光カーテンという障壁を通してなお室内を照らす光に、朝という現実を容赦なく突きつけられる。
陽はベッドの上、静かに眠りから目覚めた。
会社づとめではないので朝が辛いわけではないが、睡眠が持つ高い娯楽性には抗えぬものだ。
なので、掛け布団を体にかけ直し二度寝のために目を閉じる。
そして、自室の扉が勝手に開く音を聞いた。
「起きろー」
掛け布団越しに、そこそこの重量物が陽の腹部に遠慮なくのしかかる。毎度のことだが重いぞ千景。
「朝だよー」
渋々目を開くと、自分の腹の上に馬乗りになっているTシャツ姿の女の子が見えた。長い銀髪が美しい、見た目は人間の十歳かそこらくらいの美少女だ。傍から見ればラブコメかなにかのような状況だが、これは単なる家族の日常だ……十歳と三十歳ならむしろ親子と見るほうが自然か。
「はいはい……」
陽が身を起こそうとすると、千景は素早くそこを退いて軽やかに反転し、そのまま部屋から出ていった……いつもどおりの光景だ。
陽はほぼ毎日、このように部屋を去る千景の後ろ姿をベッドの上から眺めることとなる。
今日の千景は少し下の方にリボンを結んでいたな、などとどうでもいいことを考えながら陽は腕を伸ばし体をほぐす。あの大きな黒リボンは魔界に住んでいたときからのお気に入りらしく、どんなコーデでも千景は必ず身につけている。
薄手のパジャマからTシャツとチノパンに着替え、ベッドは散らかしたママで陽は部屋を出る。いつものようにヒゲを剃るなどし、朝食の支度を……今日は千景が自主的にすべて行ってくれたようだ。彼女は食事の乗ったローテーブルの前に座り、陽の顔を真顔でじっと見詰める。
二人の共同生活を始めてから、必ずだ。陽と千景、二人が共に家で食事をする前にはほぼ毎回この千景の凝視が行われる。過去にその理由を尋ねたことはあるのだが、とくに深い意味はないらしい。
陽はなにも言わず静かにテーブル前に腰をおろし、胸の前で手を合わせる。
すると千景は満足そうにいただきますの儀式を行い、箸を手に取り白飯を食らう。いつもの変わらぬ光景だ。
両親を鏡獣に奪われ、みずからも瀕死という窮地を救われて以来。陽は、この唯一となった家族と長い時を過ごしてきた。
陽の方はその頃からは色々と変化したが、この少女は二十年前からなにも変わらない。
人間とほぼ同じ姿形を持つ、人間とは別の理に産まれ生きる存在──魔人。
魔人といった存在についても、彼女の故郷である魔界についても、陽は詳しくは知らない。千景は自分語りをあまり好まない。
それでいいと陽は思っている。ただ共に暮らす、それ以上に求めるものはない。
俺が爺さんになっても千景は同じ姿なんだろうな……とくに感慨もなくぼんやりと考え、陽は飯を食う。
「ねえねえヨウ」
「ん、なんだ」
「ベッドの下からエロい本はみ出てたよ」
「…………」
「あと、使ったティッシュはちゃんとゴミ箱に片付けよ?」
陽は何も言わず黙って飯を食らう。
千景と出会ったのは陽がまだ幼いときだ。鏡獣に家族を奪われた陽にとって、千景は母でもありきょうだいでもある存在だ。そういった身内から、性に関わるプライベートなところにはあまり触れられたくはないのだが、千景はそのあたりにはあまり遠慮をしてくれない。いま指摘されたことについては確かに陽に問題があるのだが。
「ねえねえ、ヨウー」
「…………」
「オチバへのお土産はいつ渡すの?」
土産。陽は昨日、街でそこそこお高い菓子の詰め合わせを買っていた。落葉に渡すつもりでいたが、いつ渡せばいいのだろうか。
旅行をしたわけでもないのにお土産というのもどうかとは思わなくもないが、まあたまにはよいではないかと。それなりの親交はあるのだから。
「……いつにするか。仕事中はよくないしな」
彼女の仕事はコンビニの店員だ。陽たちが住んでいるこのアパートから徒歩一分という素晴らしい立地であり、行こうと思えばすぐにでも行ける。
「夜でいいんじゃない? 家まで行ってー、そのままお邪魔してー、あとは……あ、コンビニでコンドーム買ったほうがいいかもね」
まったく最低だ。この千景の下品さも、二十年前から何も変わっていない。
「土産渡して襲うやつがいるかよ」
「いいんじゃない? ヨウは気持ちよくなれるしオチバはハッピーだしチカゲもハッピーだよ」
「おまえもハッピーになるのか」
陽としては深い意味のない返しだった。こんな最低な話に意味など持たせたくはなかった。
だが、千景は虚を突かれたように目を丸くし、だらしなく口を広げる。
「……ハッピーになるのかな?」
「そこを疑問に思うのか、散々煽っておいて」
「うーん……」
千景は真面目な表情をして悩み始めた。今の下品トークに悩むところがあったか?
そのまま悩み続ける千景を無視して、陽は食事を進める。
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食事を終え陽が食器を洗っていると、千景が冷蔵庫の冷凍室を開けて何やら目つきを鋭くしていた。
「ねえねえヨウー」
「なんだ?」
「アイス買ってきて」
平常の声でそう要求する千景には、もう悩む様子は見られない。あんな下品な話でいつまでも悩んでいたら、流石に少し距離を起きたくなるかもしれない。
「買ってくるけど、なにがいい? キャンディー系かモナカか」
「じゃあそれ以外で」
「ああ、じゃあそれ以外のとモナカを買ってくるわ」
「ヨウも食べるの?」
「そりゃそうだろ」
食器を片付け、陽は財布とカギをチノパンに入れて家を出る。ごく普通の、駐車場つきのアパートだ。自分の所有車をチラと横目で見て、そのまま歩いてコンビニへ。
陽が持つ赤い塗装の軽自動車は、去年買い替えた中古車であり、色は陽の趣味ではなく単にそれがセールだったから。陽が十八歳のとき、千景から初自動車として与えられたモノはシルバーで、元々それも中古車だったのであちこちガタが来てしまい、やむなくお別れをした。
陽が免許を取ったのも、千景の勧めだ。陽の人生は千景に左右されたところがかなり大きいが、そこに不満などはまったくない。
陽は徒歩一分でコンビニにつき、中へ入る。会いに来たわけではないが、目はどうしてもそこで働く知人を探してしまう。
「いねえな……まあいいわ」
朝という、商店需要が高そうな時間帯だがあまり混んではいない店内を少しうろつくと、気になるものが目に入った。
コンドーム。陳列されたコンドームの箱。
売っているものだな……なんとなく手に取ってみる。陽は試着すらしたことがなく、買ったことは一度もない。
まあいい、不要だろう。俺には縁のないものだ。そう思い箱を棚に戻そうとしたとき、
「あっ。おはようございます」
よく知った甘い声がすぐ近くで聞こえた。
コンビニの制服を着たポニーテールの女がすぐそこにいた。
「ああ、おはよう」
バックヤードかトイレにでも行っていたのだろうか。いつの間にか落葉が陽に接近していた。
「今日は、陽さんはお休みですか?」
「ああ。俺の仕事はそう毎日あるもんじゃないからな」
「ふふっ、そうですね」
彼女は、楽しそうに微笑む。可愛らしい女性に花咲くような笑顔を目の前で見せられて、三十路童貞が揺れぬはずはない。小さな狼狽えを強引に飲み込み、陽は話を振る。
「ああ、えっと、街で美味そうなお菓子を見つけたんだ。その……君に贈りたいと、思って……後で、家に持ってく」
「え、そんなわざわざ」
「いや、近いから、な。散歩がてらだから」
「そうですか、ありがとうございま……あっ」
「ん?」
「あ、いえ、なんでもないです……」
「…………?」
なんでもないとは言ったが、落葉の視線は明らかに陽から逸れる。陽がなにか失礼をしたのだろうか? やはり土産などいらなかったか? 陽は不安を湧き上がらせ、しかし突然に気づく。
コンドーム。陽の手の中に、コンドームの箱がある。
「あ、ち、違うんだ」
陽は慌ててコンドームを棚に戻した。なんということだ。
「いや、あの、ちょっと見てみただけで……えっと、アイスを買いに来たんだ。暑くなりそうだろう?」
「そ、そうですね……」
じゃあまたな、と陽は逃げるようにアイスの什器へ向かう。最悪である、なにも思われなければいいのだが。
結局、彼女からの性的な心象に気が揺れるくらいには陽も落葉のことをそういった目で意識していた。たしかに、彼女の笑顔はとても魅力的だし、千景の言うような関係になればそれは幸福だろうが……
「やめやめ……」
あまり失礼な妄想をするべきではない。陽と落葉は、単に知り合いの御近所様だ。千景が絡んでいくものだから、行動を共にすることが多い陽もほんの少し仲良くなっているだけだ。土産は……いいだろ土産くらい誰にあげても。
第一、陽に女性と付き合う度量などあるわけがない。自信など微塵もない。自信があるならこの歳まで童貞ではない。
チョコモナカとあんみつアイスを買って、陽はそそくさとコンビニを後にする。
「ヨウー。アイス買ったー?」
自動ドアを出て数歩足を進めると、陽の脳に深く刻まれた銀髪少女の姿がそこにあった。
「なんでいるんだ?」
「ついてきたくなった」
陽へ軽快に駆け寄り、千景は晴れやかな笑顔を見せる。
「こんな距離で付いてくるか、犬のようだ」
「犬飼いたいのー? しつけできる? 毎日散歩とブラッシング出来るー?」
「俺が全部やるなら愛でる権利も俺が独占するが?」
「なるほど。ではチカゲは対抗して猫を飼おう」
「ていうかペット禁止だよな」
「そうだっけ?」
千景が首を傾げ、長い銀髪がしなやかに揺れる。降り注ぐ鮮やかな陽光を纏い煌めく様はヒトを外れた神秘を思わせる。
実に美しいものだ。長く共に生きた陽にとって、その美しさは癒やしだった。
陽は現状の人生に満足している。こんな情けない童貞が、千景という家族の他に更に誰かを求めるなど……
……千景は、陽だけでは不満なのか?
「帰ろう、ヨウ」
「ああ」
陽の小さな疑念を感じ取ったのだろうか、千景の瞳がわずかに不審に揺らぐ……それを陽は見逃さなかった。
まったく、何を愚かなことを考えているのか俺は。
逃げるように、徒歩一分の自宅へ速歩き。