第2話 破壊者の住む街 2 仕事場へは穴を通って
夜間の内に町へもたらされた冷気は、時を経て弱体化し既に人間の肌では実感することが出来ない。
力強い陽光が冷気に成り代わって町を支配し、今日は夏日になるだろうと地上の人々に告げていた。
「あ、陽さんっおはようございます」
無遠慮な陽光に焼かれ始めたアスファルトの道の上。蜜のように甘ったるい声をかけられ、陽は気合の欠片もない挨拶を返す。
「ああ、おはよう」
「おはよう、千景ちゃん」
甘い声は、陽と共にいた千景にも与えられた。
「おはよーオチバー」
千景は、実に気軽に声の主へと駆け寄りそして絡みつく。住宅街の歩道で、若い女性と幼い女の子がキャッキャキャッキャと互いの手を合わせたりなどして無邪気にじゃれ合う光景……微笑ましいものだ。実際のところ、千景が幼いのは見た目だけなのだが。
「お出かけですか?」
甘い声の主……落葉は、ミルクのように柔和な笑顔を陽に見せる。その蜜声は、彼女にとってはごく標準の声だった。陽の普段の声に力が無いことと同様に。
「ああ、まあな」
力が無いと言っても、陽の内心は少しばかり熱を持っている。三十路童貞男が可愛らしい女性に笑いかけられて、まったくの平穏でいられるはずがなかった。
「……もしかして、お仕事ですか?」
「あ、ああ。まあ、今日は」
だが、落葉はその笑顔を少しばかり曇らせる。陽の仕事内容を、その危険さを身をもって知っている彼女は、それを喜ばしくは思わないようだ。
少しフワフワとした肉付きの、ポニーテールの若い女性。夏物ワンピースにカーディガンを羽織っている……近所のしま○らで同じモノを見た気がする。
「気を付けて、くださいね」
「ああ、ありがとう」
「ねえねえ、オチバは今日は休み?」
落葉の指を玩具のように勝手に弄りながら千景が問う。千景と落葉は、親愛の関係にあった。
「うん。私は今日は休みだよ」
「そっかー。でも残念かな今日はこっちが仕事なの」
「うん……千景ちゃんも気を付けてね」
落葉からそっと離れると、千景はそれじゃあまたねと大きく腕を振る。返す落葉の手の振りは控えめで、それは彼女の性質をよく表していた。
穏和で、柔和で、優しくて。笑顔の可愛らしい女性。
三十路の童貞を惹くには充分すぎた。
落葉と別れ、陽と千景は最寄り駅へ向かって歩く。陽も軽自動車を所有しているが、中心街は駐車などがややこしく面倒だ。街へ行くには電車などの公共交通機関を利用するべきだろう。
「……ねえねえヨウ」
駅へと続くアスファルトの道の上、千景がなにやら真面目な声で話しかけてきた。
「ん、なんだ」
「オチバのことは、いつ抱くの?」
あまりも酷い問いかけに思わず足が止まる。
「おまえ、なに言ってるの?」
「わかってるでしょ? オチバがヨウのこと好きなの」
「……いや、わ、わかんねえだろ俺はあの人じゃないから」
マトモに話したくなる内容ではなく、陽は逃げるように早足で歩きだす。
「うそつきー。いくらヨウが童貞でもさー、好きって思われてるのわからなくはないでしょ」
「……それは、アレだ。命の恩人だからだろうよそういう好意だ」
落葉は、ニ年前、陽と千景が仕事中に救助した人だ。通常、仕事中に接触した人間は千景によって記憶を操作されてなにも知らずに日常へ戻るのだが、落葉はどうも特殊体質らしく千景の記憶魔術が通用しなかった。
たまたま陽たちと住居も近いので、それからはよく交流し、話をする関係になってはいるが……
「なあ千景。わざと落葉の記憶消さなかったとかねえよな」
「そんなことないよー。チカゲはお仕事には真面目です」
「ああ、そうだったな」
「あれなの? 好みじゃないの?」
「…………」
「そんなことないもんね。オチバが胸のラインが出る服着てたときヨウすごく見るもんねおっぱい」
「な、何を言ってるんだそんなことは」
「オチバも気づいてるよー。ていうか気づいてわざと腕で寄せたりしているよ」
「ま、まじで?」
「好きでもない男にアピールなんかしないよねー」
「…………」
「怖いんでしょ、童貞だから」
「…………」
「ヨウを好きになる女の子なんてこの先いないよー、確保しよー」
「確保とかモノみたいに言うな失礼だろ」
「好意を流し続けるほうが失礼だよー」
なんでこれから仕事に向かうのにこんな話をされなければならない。
陽は完全に口を閉じ黙って駅まで歩く。千景はやや呆れた様子を見せる……勝手に呆れていろ。
地方の住宅街の、小さな駅。陽たちは近年改装されオシャレになった駅舎を通り、通勤時間と被ってしまい混みあう電車に乗り込んだ。混んでいる、とは言ってもこの地方都市の電車は東京のそれよりはかなり余裕があるのだろう。潰されるということはないが、陽は一応小柄な千景を庇う形で乗車する。
「ねえパパー、今日はなにかおもちゃ買ってくれるの?」
規則的な振動に包まれた車内で、子供染みた無邪気な笑顔を作り千景が戯れる。傍目から見れば確かに陽たちは親子と言えなくもないかもしれない。
「そうだなー、ママが良いって言ったらな」
陽がいい加減に話に乗ると千景はスマホを取り出し、なにやら軽快に操作する。
「ママ、いいって!」
画面を陽に向ける……SNSアプリであり、相手は落葉だ。千景は本当におもちゃについてのメッセージを送っているし、それを受けた落葉も同意を返している。しかし千景が送ったメッセージ内にママという単語は書かれていないので、落葉はよく理解せずに返したのではないだろうか。
「……笑えない。やめろ」
「ママを早く本当にママにしてあげてよ」
「下衆」
そうこう低級な戯れをして、陽たちは無事中心街へたどり着く。
春は短く冬長く。ここは東京とは遥か離れた北の地方都市。様々なビルが大量に乱立し大勢の人間が行き交う、この地方の経済の中心であり正に都市であり陽にとっては街と言えばここになる。
だだっ広く近代的な駅舎は、そのまま巨大商業ビルへと繋がっているため外へ出なくても大抵の買い物、娯楽は満たせるだろう。
残念ながら仕事に来た陽たちは、直結している地下空間へと向かう。
地下鉄駅構内。中央の駅ともなればそれは長大で複雑な交通の網であり、様々なテナントが大量に詰め込まれた地下街や地下歩行空間とも繋がっている。
そう、地下歩行空間だ。雪の積もるこの北国、冬季の地上は歩行に労力がかかるものであり、広く整備され地上との出入り口を持つ広大な地下道というものが非常に有用だった。
イベントや展示のためのスペースもあり、ビルの地下部との一体化など、ここもまた街と言える。この街で働く者たちにとっては重要な場所だ、今回の被害者にとってもそうだろう。
「ここで目撃情報が切れてるよ」
千景がスマホの画面を眺めながらその情報を口にする。
「そうか。じゃあ、とりあえず行こうか」
大勢の人間が行き交う歩行空間を、はぐれないように二人寄り添い歩く。
街の一部である地下歩行空間。その朝は、通勤者や通学者などで溢れかえっていた。彼らはただ日常としてここを通るのだが、その日常はまったく突然に途絶えてしまうこともある。
この街……この国、いやこの世では、人の手によらない行方不明者がたびたび発生している。千景がそういったニュースなどを調べ、陽たちの仕事だと判断すると二人はそこに赴くことになる。
実際に現場を調べなければ陽たちの仕事と断言は出来ないが、千景の脳内には簡易的な占術の術式が刻まれていて、それを用いれば正しく嗅ぎ分けるが出来るらしく、今まで外れたことは一度もない。
「なんだあれ、うるさいな……」
歩を進めながら、陽は少しだけ顔をしかめる。
アレは、女子高生だろうか。ブレザーの制服を着た女子三人組が歩行空間の壁際でなにやら話し合っているのだが、大声なのでかなり目立つ。ミコちゃん全然来なくねー、なんか連絡も取れねーし……先にいこーぜー……どうやら彼女たちは待ちあわせをしているようだった。
連絡が取れない、か。陽たちの『仕事』絡みでなければよいのだが。
「ヨウ。見つけたよー」
千景の穏やかな声に意識を引き戻され、陽は足を止めた。
「ほらあそこ、階段のトコ」
この地下通路から地上へと向かう階段がそこにある。7、と壁に描かれた巨大なペイントは歩行空間に複数ある出入り口の番号だ。そのペイントから少し手前の空間……なにもない空間だ。
「ああ、あるな」
だがソレは、魔人、そして魔人との契約者であれば視認することが出来た。
ただの空間に、亀裂が入っている。ガラスや鏡に入るモノに酷似した亀裂だ。空間に亀裂とは奇妙だが、亀裂のみが宙に浮いているその様は他に言いようがない。
亀裂があるのならば、割れる。陽は歩み寄り、その亀裂に乱暴な拳を迷いなく叩き込んだ。
ガラスの割れるような高音が耳をつんざく。亀裂は大人が余裕をもって通れるほどの巨大な穴となり、そこにあったはずの空間の壁は破片と化し、破片はあたりに散らばるとすぐに霧のように消えていった。
穴だ。覗き込もうがなにも見えない、ただひたすらに暗い穴がそこにある。
周囲の歩行者たちは誰もそれを気にしない。いきなり無を殴った陽のことを奇妙に思っても、穴の認識は出来ない。普通の人間には普通の空間があるだけにしか見えず、空間が割られた音も彼らの耳を震わせることはなかった。そちらのほうが陽たちにも都合がいい。
「行くぞ、千景」
「うん。行こう、ヨウ」
躊躇うことなく、陽たちは穴の中へ足を踏み入れた。
それを待っていたかのように、穴はビデオを逆再生したかのごとくひとりでに瞬時に修復され、亀裂まで完全に塞がってしまう。
穴の向こう側、戦いが始まる。