第1話 破壊者の住む街 1 男と少女の生活
目の前の鏡には、男の顔が映っていた。
激しく乱れた髪、血色は悪くないのだが萎れたような印象を与える相貌。やる気や活力という類のモノはそこにはまったく見られない。
心の内面を見れば気力が存在していないわけではないのだが、眠りから目覚めたばかりではそれが顔の表層に浮き出てくることはない。
陰気な三十路男の顔がそこにある。
「寝起きとはいえ、ひでえツラだ」
陽は、自宅の洗面所で溜息をついた。
「知ってるよー、なにツラの再確認してるの?」
陽気な声に振り向くと、そこには生命力に満ち溢れた笑顔を見せる幼い容姿の少女がいた。
「自分の顔は鏡を見ないと分からないからな。忘れるわけにはいかないだろ」
気の抜けた軽口を返し、陽はのそのそとリビングに向かう。二人掛けのソファに深く腰を下ろすと、少女も同じようにソファへ腰を沈める。ソファは目の前のローテーブルを挟んでもう一台設置されているのだが、彼女は陽の隣に身を納めた。
「ねえ、髪は梳かさないのー?」
自分の長髪を手櫛で梳きながら、少女は軽やかな声で問う。彼女の髪は陽光に煌めく美しい銀の色であり、後頭部の大きな黒いリボンがよく映えている。肌も白磁のように白く滑らかで、まるで生きた人形にも見えるが、その身を覆う衣服は無地のTシャツにジーンズというラフなものだ。
「髪なんかはどうでもいい仕事をしてるからな俺は」
陽の服装も、同様にTシャツとジーンズであるがべつにお揃いというわけではない。
「ねえ、髪くらいちゃんとしたほうがいいよー? ヨウのこと好きな女の子もいるんだからさー」
「なんだ千景、俺のこと大好きなのか?」
「は?」
陽の冗談に対し、真冬の屋外に放置された鉄ほどに冷え切った声が返る。少女から笑顔が消え去ってまったく無機質な表情となり、その姿はまさしく人形だ。
「きっも」
「ああ、キモかったな悪かった」
とくに反省はせず陽はのびのびと欠伸をする。少女も本気で気持ち悪がったわけではなく、その表情にはすぐに熱が戻った。
「チカゲはさー、ヨウの相棒なんだよ。相棒が身だしなみグチャグチャじゃ嫌」
少女……千景は、軽く小突くように陽の肩に寄りかかり、わざとらしく膨れた不満顔を見せる。人間で言えば十歳かそこらあたりに見えるその体はとても軽く、近くにいると甘くいい匂いがする。匂いに言及などすれば今度こそ本当に気持ち悪いし、日常として嗅ぎなれたソレに触れる意味も陽にはなかった。
「そうかそうか。じゃあ俺は身だしなみ整えるから千景は朝飯の用意をしてくれ」
「うわー、女の子に全部やらせるの?」
「昨日の晩飯は俺が作ったろ」
「美味しかったよー、ハンバーグ」
いつもどおり行われる、朝のくだらない会話。他愛のない日常の風景だ。
初夏の朝日射し込むアパートで、日常の時は緩やかに流れる。陽の仕事は特殊であり、出勤などに急かされることはない。
実に心地良く、そして愛しい朝である。
朝食は簡単なものだ。作り置きの味噌汁と、買っておいた鮭の切り身と生卵と味付け海苔に、千切ったレタスとトマト。千景は二人分の食事をリビングのローテーブルに置き、そのままテーブルの前の床に腰を下ろす。
床に置いてあったクッションに尻を乗せ、千景は陽に視線を向ける……じっと見詰める。清浄な夜に輝く星のような瞳で陽を見詰める。それはいつもの、毎日の行為だ。
そんな美しい視線を受けながら陽もテーブルの前に腰を下ろし、胸の前で両手を合わせる。それを確認した千景は満足そうな顔をして同じように手を合わせ、
「いただきまーす!」
挨拶をして、ハツラツとした笑顔で白飯を口に放り込んだ。陽にとって今唯一の家族である彼女の笑顔は他の何にも換え難く尊いものだが、それを口に出すようなことはない。陽も小さな声で挨拶し、食事を行う。なにも特筆することはない、いつものごく普通の食事だ。
「ねえヨウ、また行方不明者が出てるよ」
ごく普通に鮭の身をほぐしながらスマートフォンをいじる千景。陽はその行儀に注意をしたりなどはせず、味噌汁を啜りながら彼女の少し真面目な表情を観察する。
「……どこで?」
「街だよー、中央の地下歩行空間だよ」
「そうか、それは面倒だな」
交わされる二人の声に、とくに緊張感はない。コトに慣れきった、いつもどおりの穏やかなな声だ。
「今日行く?」
「早いほうがいい。飯食って片付けたら出よう」
「わかったー」
行方不明者の情報を探すのは、千景の毎日の日課であり、大事な仕事の一部だ。
「最近、少し多い気もするな行方不明者」
「そうだね」
「全部が俺たちの仕事じゃあないが」
「そうだね」
「破壊しないとな」
「……そうだね」
仕事の情報が入ってしまった。残念だが、のんびりと午前を過ごす気分ではなくなった。
朝食を済ませ、陽が手早く食器を洗ったらすぐに家を出る。出勤時間に縛りはないが、陽たちの仕事はこれから始まることとなった。
行方不明者を行方不明にさせたモノ、ソレを狩る仕事だ。