第15話 相棒 10 薄闇の中の抱擁
カーテンを閉じようとする者はいない。照明のスイッチを入れる気も起きない。放置され、無抵抗に夜の藍に染まるリビングで、千景はスマートフォンを弄んでいた。端末機器として操作をするのではなく、文字通り手の中でひっくり返すなどして弄んでいた。
月と街灯の明かりが窓から入り込むため、物にぶつからずに動く程度のことは可能であり、そもそも魔人は夜目が利くのだが、千景はソファーから身を離すことがなかった。
「チカゲ、かあ……」
自分の名前をぼんやりと口にする。この名前は、陽から与えられたものだ。この世界の人間と関わったことのない魔人は、固有名を持たない。魔界には自ら名乗るという文化がないのだ。特定する必要がある場合は、所属や称号などで呼ばれる。
魔界において、千景の一族が持つ勢力は小さなものだ。それでもこの世界へ魔人を派遣するのは、遥か昔に魔鏡を魔界から持ち出し逃亡した者がその一族の長であったゆえで、ただ一族に生まれただけの千景にとっては迷惑な話だった。
公平にくじで選出され、百年の間地上での活動を強制された千景は、暗澹とした気持ちで魔界を後にした。好ましい思い出などなにもない魔界には愛着もないが、知らぬ土地で百年働けと言われて喜べる千景ではなかった。百年は、平均寿命の十分の一にもあたる。
そしてはじめて目にしたこの世界の光景は、鏡獣に襲われた人間の親子の姿だった。
救うことが出来たのは、子供ひとりだけだった。それも、強制契約という形で。
誰が定めた掟なのか……契約には、三年間は死亡以外では破棄できないという制約があった……千景は、幼い彼を育てざるを得なかった。
「ずっと、チカゲが育ててきたんだよ……」
両親の他に頼れる身内は少年に存在せず、かといって孤児院に入れられては行動が制限される。アレコレ魔術的工作をしながら、彼が健やかに育つように千景は手を尽くした。
すべてが理想通りに行ったとは思わないが、彼は……陽は健康に育ってくれた。そして、千景の行いに愛情を返すようになった。
「かわいかったね、子供の頃は」
家族を失った彼は、自らを守り育てる魔人を新たな家族と認め、親愛を贈る。千景を真に愛する者など、魔界にも存在しなかった。
すぐに、他の理由など不要になった。ただ愛しさゆえに、千景は陽を育てるようになった。
「……どこ行ったのかな」
千景に閉め出されてから、陽はなかなか帰ってこない。あれから何分経ったのか、時計を確認する気にもならない。自己の時間感覚という、精神に容易く左右されるものは今は役に立たない。
もしかしたら、もう帰ってこないのかもしれない。そんな考えがよぎり、千景に怖気が走る。
待っている。追い出したのは自分だというのに、陽に帰ってきてほしいと思っているのだ千景は。
陽のあの発言に、契約破棄の意思などあるはずもないことは理解している。しかし、千景の感情はそれを無視して拒絶した。ならば、拒絶に絶縁を返されても不思議ではない。
千景の知性は、それは杞憂だと判断する。だがそれで拭い去れるほど感情の手懐けは容易ではなく、そうでなければ陽に死ねなどと言うはずもない。
真に受けて、傷ついてしまうほどに。千景は、陽を手放したくない。
「暗いなあ……」
迎えに行くことは簡単だ。陽の位置を探ることはすぐに出来る。それをしないのは、臆病だから。
ソファーの上、千景は膝を抱えた。
そして、物音に気づく。
千景は飛び起きる。このアパートの階段を誰かが上がる音を、微かだが確かに聞いた。陽だろうか、それとも隣の住民か。
動けなかった。陽に帰ってきて欲しいのに、陽が帰って来ることが恐ろしかった。別れを告げられるかもしれないと、感情が愚かに震えるのだ。恐怖が千景を縛り付け、玄関ドアまで彼を迎えに行くことなど出来はしない。
そもそも物音はドアに向かうことはなかった。どこへ行く? ……裏に回った?
玄関の反対側──キッチンの方から、なにかを叩く音が小さく聞こえた。数回鳴った後に、それはガラスが割れる音へと変わる。
窓ガラスが割れたようだ。それにしては小さな音だが、割れたのは一部なのだろうか。千景のソファーからはちょうどその窓が視界に入るが、窓は二重に存在していて、内側の磨りガラス窓は無傷……外側のみが割れたのだろうが、磨りガラスの向こう側はよく見えない。
次に聞こえるのは鍵を外し窓を開く音。何者かが鍵のところだけ割ったのだろう。再びガラスを叩く音がして、今度は磨りガラスも割れる。やはり鍵の周囲のみが小さく割れ、その割れ口から手が入り込み、解錠されて内窓まですべて開かれる。
「よ、よお……」
一人の成人男性が、開け放された窓の外にいた。気まずそうな声をもらし、片手を上げて挨拶する。手には小さな工具が握られていた。
まさか、窓を割って帰って来るとは。呆然とした千景は言葉を返すことが出来ず、ただそこに立ち尽くす。
「いや、ほら、チェーン切る道具とかなかったから、車からこれ持ってきてな……」
ボサボサ頭の萎れた顔した侵入者は、問われてもいないことに答え、そのままキッチンへ入る。どこで脱いだのか、靴は履かずにソックスのみだ。
千景は、動けない。なにを言えばいいのか、なにをすればいいのか。用意をしていなかったわけではないが、陽のあんまりな登場にすべて吹き飛んでしまった。
陽。千景と契約し、千景と家族になり、千景に閉め出され、今、千景の元に帰ってきた人。
陽も、なにを口にすればと迷っているのか空に手を泳がせ、しかし一つ深呼吸をすると、まるで意を決した様子でこちらへ歩み寄る。
千景は思わず後ずさるが、背後にはソファーがありそれ以上は逃げることが出来ない。
目の間に、陽が立つ。特に大柄というわけではないが、人間で言えば十歳かそこらの背丈しかない千景にとって彼は充分に巨体であった。
その巨体が、静かに膝を折る。至近に降りた彼の顔を、千景は確認することが出来なかった。
千景の頭は深く俯き、狭まる視界は床のラグマットと陽の足ばかりを映す。
そこに、彼の腕が静かに入り込んだ。
千景の背に、後頭部に、大きな手が触れる。
それに反応する間もなく、次には彼の身すべてが千景を包みこんだ。
「えっ……」
それは抱擁だった。陽の硬い胸が千景の華奢な体に密着し、彼の熱が千景へと滲む。千景を包むその力はけして締め付けることはなく、けれど確かにこの身をその場に捉える。
「行かないでくれ……」
絞り出すような声がひとつ、千景に伝わった。
それきり、陽は何も言わない。ただ無言で……
いや、違う。
微かに聞こえるのは、不自然に途切れる呻きのような吐息。なにか言葉を紡ごうとしているようだが、しかし形作る力が足りないのか意味を成さずに潰えてしまう。
何も言えぬ陽の手が、千景のTシャツを千切れそうなほど強く握り込む。
まるで、悪霊に怯える幼子のようだ。
怯えているだ、陽は今。
陽が怯えることなど……あった。幼き日の陽にとって、恐怖の感情は隣人にも等しかった。
アレは、陽との生活を始めて二年くらいのことか。消えかけていた血塗れの記憶を夢に見て、まだ少年だった陽は恐怖に呑まれかけ、今のように千景に縋りつき服の裾を握り込んだ。
二十年近く前のことなのに、今と何も変わらない。
陽は今、怯えているのだ。
ああ、なんだ。そういうことか。
強張っていた千景の顔は、不意の懐かしさに弛く解けてしまう。
そうか、そんなに恐ろしいのか。私に拒絶されることが。
三十にもなって、情けない声で行かないでくれなどと懇願するのか。
ここは千景の家なのに、他にどこに行くというのか。
ああ、馬鹿みたいだ。陽も、千景も。
千景を凍りつかせていた力は溶解し、深い息と共に吐き出される。
千景は、ただぶら下げていただけの手を、彼のボサボサ頭にそっと乗せ、そして撫でた。
「はいはい、行かないよどこにも。今日は一緒に寝ようか?」




