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第10話 相棒 5 逃げ場はない

「やっべえぜおい!」


 もはや躊躇いの猶予はない。最も手近な戸建て住宅へ向かい、庭に置いてあったスコップで窓を叩き割り中へ滑り込む。よく整理整頓されたリビングだ、ガラス片が散らかっている以外は。


 そのまま正面奥のキッチンへ駆け込むと、背後から轟音が響いた。すかさず振り向けば、窓から巨大な獣の腕が生えている。どうやら鏡犬が家の中へ前脚を突っ込んだらしい。巨大な鏡犬は、その体躯ゆえに窓には腕一本のみしか入れることができず、隠れた陽を求めて腕が激しく振り回される。この家と陽はワンちゃんのオモチャではない。


 巨体に直接揺さぶられ、住宅が痛々しい軋み音を立てる。まるで小規模の地震のようだ、崩れはしないだろうがこれでは生きた心地がしない。とりあえず、巨大な犬に襲われ無抵抗に死亡という事態は避けられのだから我慢しよう。


「どうしたものか……」


 キッチンのフキンを拝借し、脚の傷に巻いて応急の止血を行う。千景がいれば、この程度の傷は即座に治療してくれるのだが。


 幸いなことに、この住宅に先住している鏡獣の姿はなかった。窓は、犬が塞いでしまっているので通常の人型鏡獣は入ってこれず、他の窓を割って入ってくる様子もない。犬がいつまで腕を入れたままにしてくれるかは不明だが、とりあえず一息つこう。


「でけえボスだわ……」


 陽はキッチンの床に腰を落とし、獲物をさがして振り回される犬の前足を眺める。

 この大きさは、間違いなく魔鏡本体とリンクしそれを護衛する鏡獣だろう。魔鏡空間の中で最も大きな力を持つ存在……俗な言葉で表せば、ボスや大将だ。こういう大型は、魔鏡を自身の内部に取り込んでいることがある。だからこそ自由に行動でき、獲物を狩ることが出来る。


 何故犬型なのか、それは犬の因子を取り込んだからだろうとしか言えない。

 魔鏡はあらゆる力を、因子を取り込み、そこから生まれる鏡獣も様々なものを含む。雑魚鏡獣は単純なものだが、強大な鏡獣はその力のほどに含まれる因子も増え、身体構成に影響を及ぼす。


 ……鏡獣の知識も、それを活かす力がなければ意味をなさない。犬型だろうが人型だろうが、今の陽にはどうしようもない。


「無力なもんだ」


 陽は、千景がいなければ何も出来ない。ただの萎れた顔したオジサンだ。


「まだ床でねんねしてるのかねえ」


 小さな寝息を立てる愛らしい少女を思い浮かべ陽はわずかに表情を緩めた。


 千景は、意外と心配性なところがある。以前、陽が歩道橋の階段で転倒して派手に全身打撲し病院に運ばれたことがあったのだが、病室に駆けつけた千景は今にも泣き出しそうな顔をしていた。職業柄、怪我など茶飯事だがそれとこれとはまた違うようだ。


 今回も、もしこの事態に気付けばすぐに駆けつけてくれるだろうが、寝ているのならばどうしようもない。

 もし、自分が寝ている間に陽が死んだとなれば千景の麗しい相貌は深い悲嘆に塗れることだろう、それだけは避けたいところだ。


「……おや、諦めたか?」


 窓に挿入されていた極太の腕が、静かに引き抜かれる。ガラスも枠も滅茶苦茶に破壊された哀れな窓はようやく解放され、そこを出入りしようとする者はいない。


「ヤツら、様子見してるのかね」


 なんなら朝まで様子見を続けてもらって構わない。流石に千景も確実に起床し異常に気づくだろう。


「やれやれ、なんか飲むかね……いてて」


 脚の傷みをこらえながら立ち上がり、勝手に冷蔵庫を漁り未開封だったペットボトルの緑茶に口を付ける。魔鏡によって現実世界から複製された物体は、その場での飲み食いは可能だが持ち帰ることは出来ない。現実世界に影響もないので物資は好き放題使わせてもらう。


「……なんか臭うな」


 緑茶で喉を潤し、更に小腹まで満たそうと再度冷蔵庫を物色しようとしたとき。陽は異臭に顔をしかめた。異臭、とはいえこれは珍しいものではなく、普通に生活していれば嗅ぐ機会はあるものだ。

 焦げ臭い。


「……マジか」


 窓に目を向ける。外には黒い煙が立ち上り、それは屋内にも入り込んでいた。

 そして、光が見えた。高熱を放ち揺らめく光の塊……炎だ。


 鏡獣が持つ攻撃手段は、格闘のみではない。様々なエネルギーの集合体である彼らは、ときに多種多様な現象をその場に引き起こす。火や雷などはその典型であった。


「火攻めとは、お利口なワンちゃんだぜ」


 犬が、口から火を吐いていた。

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